固く目をつぶって、あふれ出そうな感情を押しとどめる。
さよならを言って。お礼を言って。
そうして、笑顔で消えなければ。
そう思うのに、唇の震えは収まらない。深呼吸がしたいのに、少しでも口を開いたら気持ちがあふれ出しそうだった。
(もう、無理だ)
先輩を困らせてしまう前に、消えてしまいたい。
先輩が目をそらしてくれれば、私は消える。
早く。早く、目をそらして。
こっちの雪花の元へ行って。
これ以上、みっともないところを見ないでほしい。
先輩は何も言わなかった。
ただじっと、そこから動かずに私の前に立っていた。
やがて、雲間から明るい光が差し込んだ。いつの間にか、重たい雲がいくつかに分かれ、隙間の向こうには白みがかった空が広がっている。
先輩が、いつまでも動かない私の手にそっと触れた。
力を全く入れていないようなのに、いつのまにか顔からはがされ、先輩の手に握られている。
あわてて手をひっこめようとしたとき、先輩がぐっと力を入れた。
「――俺はさ、君の、まっすぐなところが好きだよ」
はじかれたように顔を上げると、透き通りそうなほど柔らかい瞳と目が合った。先輩は続ける。
「真面目で潔癖なところも好きだ。当たり前のように努力できるところも好きだ。自分がしてもらったことをずっと覚えている律儀なところも。こんなことにでもならない限り、弱音を吐かないところも。そんなときでも、絶対に自分から逃げないところも。……だから、そんな君に頼りにされたとき、自分を誇らしく思ったよ」
先輩の言葉が、すとんと胸の奥に落ちていく。その拍子に、我慢していた涙があふれてしまう。
「……そんなこと……、彼女がいるのに言っていいんですか……?」
そう言うと、先輩はちょっとだけ首をかしげて、片目をつむってみせた。
「きっと許してくれるよ。それに、本人に言ったら殴られそうだから、君は素直に受け取ってくれ」
それはのろけか。当てつけか。
……いいや、違う。はなむけだ。
彼女と似ている私への。先輩のいない世界へ帰る、もう一人の雪花への。
(こんな、直截的過ぎるセリフ……)
私だって本当はごめんだ。普段なら、照れ隠しに殴るマネくらいしている。
「……最悪です。先輩は、やっぱりタラシですよ。彼女以外に優しくするなんて」
やっとのことで紡いだ言葉は、今考えつく限り最大の憎まれ口。
でも、本当だ。最悪だ。
二つ、三つ。予定調和みたいなやりとりをして、それでさよならするはずだったのに。
こんなふうに、先輩の前で、涙なんて流したくなかったのに。
「おいおい。さっきと言ってることが違わないか?」
さっき、家の前で泣き崩れていた時と同じように、先輩は私を引き寄せて泣き止むのを待ってくれた。けれど、今度ばかりは無理だった。いつまでも涙が止まらない私の目元をそっとぬぐうと、困ったように微笑んだ。
それから、私の視線を促すように上空を指さす。
「あれは知ってる? ほら、彩雲って言って、雲が虹色に見えるんだ。吉兆のサインだよ」
それは、二日目の先輩に聞いた。きっと美しい現象なんだろう。
けれど私は、先輩から目をそらさない。
私と先輩、両方が目をそらしたときに、私は消えてしまうから。
一生忘れられないよう、先輩の姿を目に焼き付ける。
大きく深呼吸をして、今度は自分で涙を拭った。
「……先輩。最後に一つ、お願いがあります」
「……うん。何?」
「私、ここから走って行くので、見送って下さい」
それを聞くと、先輩はしぶい顔をした。
「体調は大丈夫ですから。さっき休んだから体力は回復してるし、顔色が悪いのは、向こうに戻れば治るんでしょう?」
それでも先輩は微妙な表情をしていたが、仕方なさそうに口元を緩めた。
「しょうがないな。でも、無理して走るなよ。倒れたって、そこに俺はいないんだから」
これからは、
(――わかっています)
口にしたら全身から力が抜けそうで、私はただ黙って頷く。
最後に先輩の姿を目にも脳裏にも深く刻みつけ、背を向けて走り出した。