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第20話

 固く目をつぶって、あふれ出そうな感情を押しとどめる。


 さよならを言って。お礼を言って。

 そうして、笑顔で消えなければ。


 そう思うのに、唇の震えは収まらない。深呼吸がしたいのに、少しでも口を開いたら気持ちがあふれ出しそうだった。


(もう、無理だ)


 先輩を困らせてしまう前に、消えてしまいたい。

 先輩が目をそらしてくれれば、私は消える。

 早く。早く、目をそらして。

 こっちの雪花の元へ行って。

 これ以上、みっともないところを見ないでほしい。


 先輩は何も言わなかった。

 ただじっと、そこから動かずに私の前に立っていた。


 やがて、雲間から明るい光が差し込んだ。いつの間にか、重たい雲がいくつかに分かれ、隙間の向こうには白みがかった空が広がっている。


 先輩が、いつまでも動かない私の手にそっと触れた。

 力を全く入れていないようなのに、いつのまにか顔からはがされ、先輩の手に握られている。

 あわてて手をひっこめようとしたとき、先輩がぐっと力を入れた。


「――俺はさ、君の、まっすぐなところが好きだよ」


 はじかれたように顔を上げると、透き通りそうなほど柔らかい瞳と目が合った。先輩は続ける。


「真面目で潔癖なところも好きだ。当たり前のように努力できるところも好きだ。自分がしてもらったことをずっと覚えている律儀なところも。こんなことにでもならない限り、弱音を吐かないところも。そんなときでも、絶対に自分から逃げないところも。……だから、そんな君に頼りにされたとき、自分を誇らしく思ったよ」


 先輩の言葉が、すとんと胸の奥に落ちていく。その拍子に、我慢していた涙があふれてしまう。


「……そんなこと……、彼女がいるのに言っていいんですか……?」


 そう言うと、先輩はちょっとだけ首をかしげて、片目をつむってみせた。


「きっと許してくれるよ。それに、本人に言ったら殴られそうだから、君は素直に受け取ってくれ」


 それはのろけか。当てつけか。


 ……いいや、違う。はなむけだ。


 彼女と似ている私への。先輩のいない世界へ帰る、もう一人の雪花への。


(こんな、直截的過ぎるセリフ……)


 私だって本当はごめんだ。普段なら、照れ隠しに殴るマネくらいしている。


「……最悪です。先輩は、やっぱりタラシですよ。彼女以外に優しくするなんて」


 やっとのことで紡いだ言葉は、今考えつく限り最大の憎まれ口。


 でも、本当だ。最悪だ。

 二つ、三つ。予定調和みたいなやりとりをして、それでさよならするはずだったのに。

 こんなふうに、先輩の前で、涙なんて流したくなかったのに。


「おいおい。さっきと言ってることが違わないか?」


 さっき、家の前で泣き崩れていた時と同じように、先輩は私を引き寄せて泣き止むのを待ってくれた。けれど、今度ばかりは無理だった。いつまでも涙が止まらない私の目元をそっとぬぐうと、困ったように微笑んだ。

 それから、私の視線を促すように上空を指さす。


「あれは知ってる? ほら、彩雲って言って、雲が虹色に見えるんだ。吉兆のサインだよ」


 それは、二日目の先輩に聞いた。きっと美しい現象なんだろう。

 けれど私は、先輩から目をそらさない。


 私と先輩、両方が目をそらしたときに、私は消えてしまうから。

 一生忘れられないよう、先輩の姿を目に焼き付ける。


 大きく深呼吸をして、今度は自分で涙を拭った。


「……先輩。最後に一つ、お願いがあります」

「……うん。何?」

「私、ここから走って行くので、見送って下さい」


 それを聞くと、先輩はしぶい顔をした。


「体調は大丈夫ですから。さっき休んだから体力は回復してるし、顔色が悪いのは、向こうに戻れば治るんでしょう?」


 それでも先輩は微妙な表情をしていたが、仕方なさそうに口元を緩めた。


「しょうがないな。でも、無理して走るなよ。倒れたって、そこに俺はいないんだから」


 これからは、この・・俺は助けてやれないんだから。


(――わかっています)


 口にしたら全身から力が抜けそうで、私はただ黙って頷く。


 最後に先輩の姿を目にも脳裏にも深く刻みつけ、背を向けて走り出した。


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