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2-10 思い出のぬいぐるみと熱々の珈琲と

 落ち着きが戻ったサリーはベッドから降りると「顔、洗ってくる」と言ってシャワールームに入っていった。

 一人残されたモーリスは、盛大にため息をつくとベッドに転がり、前髪をかき上げる。


 失恋につけこんでサリーを落とそうと、本気では思っていない。ただ、あとどれくらい好きだと言い続ければ良いのか考えることもあった。諦めきれないのは、彼が時折見せるすがるような仕草や表情のせいなのだろう。


 そんなことをふと考えていたモーリスは、ベッドの隅に置かれたウサギのぬいぐるみに気がついた。

 可愛らしいフリルの洋服を着せられたピンクのウサギは、日に焼けて大分くたびれていた。


「お前もアサゴに来てたのか。ずいぶん可愛い服着きせられてるな」


 懐かしそうに笑ながら手にとったウサギの片耳、その付け根につけられたリボンをそっとまくってみた。そこには、下手なギザギザの縫い目がある。

 一瞬、モーリスの目が細められ、武骨な指がそっとその縫い目に触れた。


 彼の脳裏に浮かんでいたのは、ぼろぼろのウサギを前にして泣き続ける幼いサリーと、それを必死に縫い合わせた幼い自分だ。


「縫い直してやればいいのに」


 リボンの向きを直してやりながら、それを元の位置に戻したモーリスは窓に視線を投げる。

 さらに雨脚が強まり、窓を落ちる雫が増えていた。


 ややあって、戻ってきたサリーは「珈琲飲む?」と言いながらミニキッチンに立った。


「あぁ、もらう。……なぁ、どうしてこのウサギの耳、このままなんだ?」

「ウサギ? 仕方ないでしょ。あたし、縫物は苦手なの」


 振り返ったサリーはすっかり化粧を落としていた。


「この耳、俺がガキの頃縫い付けたままだろ? いくら苦手でも、ガキの縫物よりはマシにできるだろう?」

「……リボンで隠れてるからいいの。そんな暇もないし」

「もしかして、背中のとことかもそのままなのか?」


 ふと疑問に思ったモーリスが再びウサギを手にすると、サリーは「ちょっと!」と悲鳴に近い声を上げた。丁度ウサギの着ているシャツを捲ったところで、その手が止まっていた。

 仰ぎ見ると、顔を真っ赤にしたサリーが不満そうに唇を尖らせていた。


「捲んないでよ、エッチ!」

「はぁ? 何言ってんだよ」

「女の子の服、捲らないで」

「ぬいぐるみだろうが」

「そういうデリカシーのないとこが、あんたはダメなのよ!」

「ぬいぐるみに、デリカシーって……」


 訳が分からないと思いながら、ウサギから手を放すと、サリーはほっと吐息をついて再び背を向けた。


「なぁ、直してやろうか?」

「いいのよ、そのままで」

「傷だらけで可哀そうって泣いてた可愛い愛翔はどこ行ったんだよ」

「……いいの、その子の傷は、それで直ってるの」

「ギザギザだけど?」

「それでもいいのよ……あんたが、傷だらけになって直してくれたでしょ」


 湯気を立てるカップを二つ手にしたサリーは、ふくれっ面で振り返った。

 安っぽいインスタント珈琲の香りがふわりと立ち上がる。


「それは、あれか。俺との大切な思い出だからってやつか?」

「……煩いわね」

「ふーん……なぁ、素直になれよ、愛翔」


 頬が緩むのを感じながら、モーリスが両手を広げると、サリーは片方のカップをずいっと差し出した。


「今回のこと、少将ちゃんに、あたしからちゃんと話すから」

「俺から話すって。存分に甘やかしてやるから、遠慮するな」


 恋仲になれば万事解決だと言うように、両手を広げたままのモーリスに、サリーの冷ややかな視線が落とされた。

 熱いカップが、さらにずいっと押し出される。


 ここはデレてくるポイントじゃないか。疑問に思いながら、笑顔を引きつらせたモーリスはカップに視線を向けた。サリーが少しでも手首を返せば、熱々の珈琲は頭のてっ辺から降ってくるだろう。


「あんたは余計なことを言うんじゃないわよ」

「……遠慮なく、頂きます」


 熱い珈琲を頭から浴びせられる未来が見え、モーリスは丁寧にそれを受け取った。

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