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第5話

 4月29日、コンクール当日。予想通り朝起きたら瑛くんはもういなかった。だけど、いつもの朝とは違った。おれの机の上に書き置きが残されていたのだ。


「〝行って来る。チケット忘れるなよ〟ってラインで良くない? 今時書き置きって……ま、瑛くんらしいけど!」


 瑛くんの字はすごく綺麗でおれは、その書き置きが嬉しくて大切な物入れにしまった。チケットは昨日のうちにバッグに入れてあるので大丈夫。おれは、こんな日でも朝のランニングはさぼらずにやってからシャワーを浴びて制服に着替えた。ちゃんとした私服がなかったので制服にした。


「よし、行くか~」


 瑛くんのコンクールは、ここから約1時間30分かかる所にある桜街にある県立音楽堂で行われる。ピアノのコンクールは大体、桜街で行われていておれが小中学生の時に出た時も同じ街の違うホールだったのを覚えている。1時間30分かけて辿り着いた県立音楽堂は、とても立派だった。


「すごー! 瑛くんこんな所で弾くんだ……」


 ただ見に入るだけでも緊張してしまうというのに……。おれは、ドキドキしながら受付でチケットを見せた。


「関係者席ですね。こちらからご案内します」

「関係者席!?」

「はい、そう書かれているチケットですけども」

「そ、そうですか」


 チケットが手元にあることが嬉しくて、細かいところまでよく見ていなかった。まさか関係者席で用意してくれているなんて。こんな経験はもちろん初めてで、おれの緊張は更に増した。瑛くんも瑛くんだ。事前に教えてくれたら良いのに。通された席は、舞台がとても見やすい真ん中より少し前の席で座席が他の所よりも立派そうだった。こんな、高校の制服を着た若造が誰の関係者なんだ、と周りから思われてしまいそうだ。 何か聞かれたらなんて答えれば良いんだろうか。小畑瑛のルームメイトであり友達です? そんな軽い関係者がこんな良い席に座って良いのか。色々と考えているうちにアナウンスが始まり、後少しでコンクールが開始される時間となった。


 このピアノコンクールは、今日までに1次、2次予選があった。それらを通過した人たちが集められた本選日が今日だ。年齢は中学生以下、中学生、高校生と分かれている。神奈川県に住む様々な学校からエントリーされているらしい。受付で貰ったパンフレットには名前と学校名、演奏曲名が書かれていた。全部門で合わせて10名しかここまで来られた人はいなかったようだ。

小畑瑛の名前はすぐに見つかった。1番最後に書かれていて、おおとりなんてさすが瑛くんだなと思った。今日、瑛くんはドビュッシーの「月の光」を弾くようだ。瑛くんにとても似合いそうな綺麗で美しい曲。瑛くんと木曜日に一緒に弾く時は本選で弾く曲は聞かせてもらえなかった。本選まで先生以外の人に聞かせたくない、というこだわりが瑛くんにあったからだ。だから、今日初めておれは瑛くんの「月の光」を聞く。


 ピアノコンクールに出ている人達は当たり前だけどすごく上手かった。そして、瑛くんの出番がやってきた。舞台に出てくる瑛くんはやっぱりオーラが他の人達と違っていた。堂々としていて、美しくて、かっこいい。この人とルームメイトで、今誰よりも近い位置にいる人間はおれなのかと思うと世界に自慢して回りたくなってしまう。瑛くんの「月の光」は惚れ惚れしてしまうくらい綺麗だ。心地の良いピアノの音色、ずっと見ていたくなるその姿。瑛くんが関係者席という良い席を用意してくれたおかげで、こんな広い会場でも瑛くんを近くに感じられて嬉しい。公民館の音響とは比べ物にならないくらい、音楽堂の設備が素晴らしいのもあって、本当に至福の時間だった。


 瑛くんの演奏が終わり、おれは大きな拍手をした。瑛くん、気が付いてくれるかなと視線を送ってみたけれど全然気が付いてくれない。真っすぐ前を見て丁寧なお辞儀をして去って行った。さっきは近い距離と思ったのに、遠い世界の人のように感じて寂しかった。早く、寮で瑛くんと話したい。あそこにいる時の瑛くんは、おれのルームメイトだから。


 全ての演目が終わり、表彰式も終わった。瑛くんは見事、1番良い成績を取っていてさすがだなぁと思った。おれは早く瑛くんに会いたくて、瑛くんのことを入口で出待ちしていた。


「瑛くん!」


 しばらくすると知らない人と一緒に出てくる瑛くんが目に入った。


「はると」

「お友達?」

「はい」

「じゃあ、僕は向こうで待ってるから」

「すみません、ありがとうございます」


 瑛くんが知らない人と会話をしている。すごく丁寧な物腰で、急に瑛くんがすごく年上に見えてしまった。


「来てくれてありがとう」

「おれの方こそ、関係者席なんて良い席取ってくれてありがと! めっちゃ良かった!」

「俺、親海外だからさ。その分」

「えぇーおれ、瑛くんの親代わりだったの!?」

「そういうことではないけど……」

「ってそんなことはどうでもよくて! 瑛くんに渡したい物があったんだ」

「渡したい物?」

「うん。瑛くん、誕生日おめでとう! これ、おれからのプレゼントっ!」


 そう言っておれは、瑛くんにプレゼントの入った袋を手渡した。


「誕生日……」

「ごめん、昨日たまたま生徒手帳落ちてたの拾って中身見えちゃって……って生徒手帳も返すの忘れてた!」

「無くしたの気づいてなかった」

「あはは、瑛くんらしいね。瑛くんの好きな物とか何も分かんなかったから迷惑かもしれないけど、良かったらもらって欲しいな」

「……ありがと。誕生日、ちゃんと祝ってもらったの久しぶりだ」

「え?」

「俺の誕生日って大体、コンクールがある時期でさ親も先生もその事ばかりで……。今日もこの後、お祝いで夕食連れて行ってくれるって言われてるけど、そのお祝いはコンクールのことで。親からもコンクール頑張ってねのメッセージしかきてなかったし……」


 そう告げる瑛くんの声は少し震えていた。コンクールが大切なのは分かるけど、それはあまりに寂しい。もし、おれが誕生日を知らなければ瑛くんは誰からも祝われることなく今日を終えていたのだろうか。


「瑛くん、生まれて来てくれてありがとうっ! おれ、瑛くんと出会えて本当に嬉しい。瑛くんのルームメイトで友達になれたこと誇りに思うよ! これからもずっとよろしくねっ」


 満面の笑みでそう伝えれば、瑛くんも嬉しそうに微笑んでくれた。


「ありがとう、はると。これ、開けて良い?」

「うん!」


 瑛くんの美しい指が、リボンを解いていく。


「ファイル……」

「うん、楽譜のファイルならいくつあっても困らないかなって。そういうデザイン性ある物好きじゃないかもしれないけど」

「嬉しい」

「ほんと!?」

「うん。これから、レッスンに持って行くファイルはこれ使わせてもらう」

「やったー!」


 おれは、周りの人が振り向くくらい大きな声で喜んでしまった。だって、使ってもらえないかもとか使ってもらえても引き出し行きかもとか下手したら捨てられるかもと思っていたから、まさか日常的に使ってもらえると思わなかったから。


「はると、本当にありがとう」

「どういたしまして! あ、それからコンクール金賞おめでとう! 瑛くんの月の光最高だったよ!」

「ありがとう。はるとが見ていてくれたから上手くいったような気がする」

「えぇ~瑛くん、おれの方なんて見なかったくせに~」

「見なくても、感じてたから」


 そう言った瑛くんの表情がとても美しくて、どくんと心臓が高鳴った。


「あ、はるとこの後空いてる?」

「空いてるけど?」

「良かったらさ、一緒に食事しようよ」

「え? 先生と食事するんじゃなかったの?」

「なんか、嫌になっちゃった」

「嫌になっちゃったって……瑛くんが大丈夫ならおれは大歓迎だよ!」

「じゃあ、ちょっと先生に話してくるから待ってて」

「うん」


 瑛くんは、先ほどの知らない人がいる方へ向かった。なるほど、あの人が瑛くんの先生なのか。雰囲気が瑛くんに似ているな、と感じた。瑛くんが事情を話しているのだろう、おれの方を2人は振り向いた。おれは、どうしたら良いか分からずとりあえずお辞儀をしておいた。


 それから少しして瑛くんは戻って来た。


「食べて来て良いって言われた」

「ほんとに? 大丈夫?」

「うん。いつも一緒に食べてるし、たまにははるとと食べたい。……誕生日だし」


 ちょっと照れ臭そうに言う瑛くんが可愛くて、おれは嬉しくなった。


「よっし、じゃあ食べに行くか! まだ門限までは時間あるしたくさん店ありそうな駅前で食べてこ~何食べたい? あ、あんまり高いのは厳しいけど……」


 瑛くんやさっきの先生の雰囲気を見るときっと二人は普段、良い食事をしているのだろうと思った。おれも貧乏ではないけれど、高いお店はちょっと苦手だ。


「ファミレス行きたい」

「え!?」

「そんなに驚く?」

「だって、瑛くんぽくないから!」

「ほんとは興味あるんだけど、親がそういう所許してくれなくて……行ったことないんだ」

「マジか。よっしゃーじゃあ、おれのとっておきのファミレス連れて行ってあげる!」

「楽しみ」


 瑛くんはそう言って笑った。それから、駅前にあるイタリアンのファミレスに入った。気高い瑛くんがファミレスにおれと一緒にいるという光景は、なんだかとても不思議な感じだ。瑛くんは物珍し気に店内を見渡していた。


「すごい賑やかだな」

「でしょ? 瑛くん何食べるー?」

「うーん、よく分かんないからはるとが好きな物食べたいかな」

「好き嫌いとかないの?」

「特にないから大丈夫」

「そっか。じゃあね~」


 おれが好きなのは、ドリアだ。約300円でお腹いっぱいになれる最強の食べ物。がっつり食べるのも良いけれど、おれはファミレスでは大体メインは安くお腹いっぱいになれる物を頼んでサイドメニューをたくさん頼むようにしている。こういう所のサイドメニューが意外とおいしいんだ。ドリンクバーにも瑛くんは感動していた。


「お待たせしました。ドリア2つとバケット、シーザーサラダ、コーンスープ、グリルです」

「ありがとうございます~」


 机に並べられていく料理を瑛くんはキラキラした瞳で見つめていた。普段凛々しい表情が多い瑛くんだから、何だか子どもみたいで可愛い。


「こんなに食べられるのか?」

「いけるいける。よーし、じゃあ瑛くんの誕生日を祝ってカンパイしよう!」


 おれ達はグラスを手に持った。


「瑛くんの誕生日にカンパイ! 改めてお誕生日おめでとう!」

「ありがとう。はるとのおかげで今までの人生で1番楽しい誕生日になったよ」

「大げさだな~ってなんかいつもと逆だね」

「確かに、いつもははるとが大げさなことばっか言うのに。でも、ほんとに俺、友達と誕生日なんて過ごしたことないしこういう普通の高校生みたいな所に来られて嬉しい」

「喜んでもらえて良かった!」


 おれ達はそれから、色々な話しをして楽しい食事の時間を過ごした。瑛くんは、おいしいと言っておれのオススメの料理を食べてくれて嬉しかった。楽しい時間というのはあっという間で、気づけばこの街を出ないといけない時間が近づいていた。名残惜しいけれど、門限を過ぎるわけにはいかない。こういう時寮ではなく、一人暮らしだったり実家暮らしならばもっと自由に楽しめるのだろうなと思うけれど……。こうやって長い時間をかけて瑛くんと2人で住む部屋に戻る時間もまた愛おしかった。


「ん~やっぱりここは落ち着くな―」

「そうだな。俺も、この部屋が1番落ち着く」


 まだ、経った1か月しか一緒にいないのにここに帰って来るのが当たり前で、ここがとても落ち着く場所にお互いなっているのは、なんて素敵なことだろう。今日は、ちょっと非日常な1日だったけれど、明日からはまた普通の日々が始まる。だけど、おれは普通の日々も好きだから明日も楽しみだなと思いながらその夜は更けていった。


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