とある駅のホーム。電車から降りてまず目に入るのは、緑豊かな山だ。この地域では数年前から山にまつわる奇妙な噂がある。
「ねぇスズ。あの山にはね、生霊がいるんだって」
「突然何言い出すのナツミちゃん!? と、登山途中なのに怖いこと言わないでよ!」
生霊が棲みついている──という噂。
肝試しで夜の山へ向かった者たちが生還している ことから信憑性は怪しい。しかし、依然として噂が消失することはない。
ナツミとスズは今春大学生になったばかりで、噂の絶えない生霊に大きな興味を抱いていた。
「今は昼だから大丈夫だよ! だってこんなに明るいんだもん」
空は至って快晴。雲ひとつない青空が広がっている。生い茂る木と木の間は開けていて、夜に霊が出るとは到底信じられない。
「夜なら死んでたかもしれないのに!?」
「噂は噂なんだしさ。ほら、探しに行くよ!」
「探すんじゃなくて、私たちは登山に来たんでしょう。もう! 待ってよナツミちゃん!」
ナツミは大きな歩幅で麓を歩く。スズはその背中を追いかけた。怪談話のおかげでスズは涙目。進む道は険しいとは言えないが、標高は意外にも高い。富士山とは見劣りしてしまうが、富士山の六分の一くらいはあった。
「それでこの前、彼氏がさ? 急に変な話をしてきてさ。『私は貴女様の椅子になりたい人生だった』ってさ。変だと思わない?」
「えぇ!? なにそれ! 変というよりかは気持ち悪いよー!」
二人は山を登りながら訳の分からない雑談に花を咲かせている。舗装された坂道を登りながらふと空模様の変化に気づく。
「……なんか、雨降りそうじゃない?」
「そう?」
「なんだか空気が湿っぽいし、さっきよりも雲が多いよ?」
スズに言われて空模様を確認してみると、泳ぐ雲は四割ほど増えていた。それに加えて、手の中が汗ばんでいる気もしなくはない。
ナツミは山頂を諦めて道を引き返すべきか迷っていた。
「もう少しで山頂だし、やっぱり頑張ろうよ」
「うん、いいよナツミちゃん。少し急ごっか」
少し小走りで山頂を目指す。頂には山の名前が刻まれた碑が立てられている。
「じゃあ、いく よ。ピースピース!」
「うん!」
二人は何かの記念と言わんばかりに碑の前でツーショットを撮影した。そして帰ろうとしたその時、雨は降り出してしまった。
「あ……」
勢いのある雨粒に衣服は濡れ、整えられた長い髪もくるりと天然のパーマがかかってしまう。スズの表情はとても曇って──否、雨が降っていた。
気まずさが山頂を支配する中、ナツミが口を開く。
「──急いで、帰らないといけないよね」
「そうだよね。私、雨降るかもしれないって言ったと思うんだけどな」
「返す言葉もございません」
スズの正論に上半身を九十度曲げるナツミ。溜め息を吐き出した後、深く深呼吸。
するとスズは下山用のロープウェイ乗り場へ向かった。登る時とは正反対に、今度はナツミがスズの背中を追う。
雨の中ロープウェイを利用する人は多く、車両の中は湿気だらけだった。濡れた衣服も相まって何とも言えない不快感が募る。
「「ああ、疲れたー!」」
ロープウェイを降りてからの第一声は、同じ台詞だった。
数日後。とあるニュースが二人を驚かせた。
報道のタイトルは「男性2人が登山中に行方不明」というもの。
内容を考えればその男性たちは遭難したと予想される。猪が出たのかもしれないし、熊が現れたのかもしれない。
しかしながら、二人の見解は違っていた。
「ねぇスズ! ニュース見た!? きっとこれ、遭難じゃなくて生霊に襲われたんだよ!」
「ニュースは見たけど、わざわざ電話までしてくること?」
「だって危ない動物もいないし、おふざけで脇道に逸れても迷わないじゃん」
「……それは確かに」
電話越しに頷く声が聞こえる。実際に何度も登っている二人からすれば道を逸れたところで迷子になることはない。木々が開けているおかげで良好な視界が確保できるためだ。
どうにかして真相を確かめたいと、ナツミの頭は先の報道で一杯一杯だった。
「今度は夜に山へ行こう!」
「えぇ!? 正気なのナツミちゃん?」
「うん正気」
甲高い声で制止するスズだったが、行こう行こうとナツミは提案を続ける。
「はぁ。一度だけなら一緒に行ってあげる」
「やったぁ! それでこそ私のスズー!」
そこで通話はブツリと途切れてしまった。何とも言えない静寂が部屋を満たす。
スズは頭を抱えていた。
──すなわち、「ああ、やってしまった」と。
***
「もう少しで道路の無いエリアに差し掛かるよー」
「うん、わかった」
夜の山。
ナツミは車のハンドルを握りながら、助手席のスズへ声をかけた。あと数百メートル先で道路は途切れてしまう。
故に車を降りて調べなければならない。ヘッドライトが前方を照らしてくれてはいるが、どうにも視界が悪かった。
不運なことに霧がかかっている。ヘッドライトの光を掻き乱し、見通しを悪くしてしまう。
「そろそろ降りよう」
ナツミの一言で車のドアを開けようとしたその時、隣から悲鳴があがる。
「き──!?」
「き? なに、どうしたのスズ?」
「だって、前に」
恐る恐る前を向く。
ヘッドライトの位置を高くして、視界の隅からすみまで確認する。
しかし何も見えなかった。
「な、何もないじゃん! 変におどかしてくるんだから……」
そう言ってナツミは重たい溜め息をつく。背筋の強ばりや恐怖心を諸共に吐き出した。
「はぁ。そろそろ行くよスズ!」
「う、うん……」
二人は恐る恐る前方のドアを開ける。しかしドアを開けても何も起こらない。
「ほらね! 流石に幽霊はいな──」
「きゃあああああ!! ナツミちゃん! う、後ろ……」
甲高い声が鼓膜を震わせる。背筋の凍るような感覚と、久々に顔を出した恐怖心。
「え、ええ!? 何? 何が見えるのスズ?」
「っ…………!」
ナツミは後ろを振り向けなかった。
背中に何かがいると、ピリピリとしたものを感じていたからだ。項にかかる吐息に腕は粟立っていた。
「ひ……」
声が出ない。喉が枯れてる訳でもなく、ただ純粋に声を出すという行動をとれない。それが離れていくのをじっと待つ間も、ナツミは震えていた。
「え、何も……なかった?」
吐息の正体は──木々の間を縫うような小さな隙間風。
霧に光が散乱し、その影が偶然にも生霊に見えたのだろう。そのように二人は考えた。
「あ、ああー! もう、さっきまでのはなんだったのか、不思議と肝が冷えたよ」
「ナツミちゃん、不思議じゃなくて。肝が冷えて当然だよ」
「そうだよね」
途端に肩の力が抜けていく。背中を丸めた後、背筋を伸ばして深呼吸。先程までの嫌な気分を入れ替える。
「それじゃあ帰ろっか、スズ」
ナツミの催促にぐっと頷くスズ。帰路に着こうと車のドアを開けた。
「うわぁぁあっ!」
「な、なに!?」
突然の激しい風。
思わず目を瞑ってしまう二人だったが、目を開けた次の瞬間、
「「赤い……人影?」」
雑木林の少し奥の方に見える怪しい影。色は真っ赤で、顔色は窺えない。
否、顔がないと言った方が正しい。赤色の何かが風に舞い、偶々人を象ったような様子であった。
人影は二人に気がつくと、緩やかに近づいてくる。
「「ひっ!」」
恐怖心に身を寄せ合うが、二人はその場を離れることが出来なかった。足が言う事を聞いてくれないのだ。
その間も真っ赤なシルエットは迫っている。
人間一人分の隙間まで近づいた人影は赤い右手を差し出してきた。
「握手?」
ナツミは促されるように握手をする。次に人影はスズとも握手を交わした。
何かがおかしい。どこかがおかしい。
言葉に表せない『違和感』に気づく。ふと手を見下ろしてみれば、手は赤黒く爛れていた。
「う、うわぁぁぁぁぁぁぁあ!!」
焼けるような痛みと、何故か込み上げる咳。
喉も爛れてしまったのだろうか、灼熱感が込み上げてくる。咳を幾度も吐き出したが、数分後には額が熱い。
「げほっ! 痛い!! 痛い……!」
痛みに喘ぐ二人を『魔人』は優しく抱擁した。
真っ赤な手が触れた 肩と項は痛々しく腫脹する。
喉の灼熱感に魘されては、高熱に魘されて。
…………。
二人が倒れたその五十センチほど先。そこにはブナの木が倒れていた。
──赤く赤く腫れ上がった、髑髏を覗かせながら。