「私は、神だ!」
ゼロが叫び、オッサンの眉間に銃口が向けられる――。
私はその手前でガソリン缶を開いて液体を撒いた。
「待った! 何かにおわないか?」
オッサンが鼻を鳴らす。
「ん、確かにくさいな。ガソリンのにおい……だと?」
「ガソリンはコップ一杯で家が吹き飛ぶぞ!」
そう、ガソリンはヤバい。
小さな火や静電気、衝撃の火花などでも簡単に引火し、爆発的に燃焼する。
そして、その爆発力も半端ない。
蒸気となって空気と混ざると可燃性範囲(約1.4%~7.6%の濃度)内で爆発的な燃焼を起こす。このとき、急速な燃焼により圧力波が発生し、それが爆発の威力となる。
特に閉鎖空間では圧力が蓄積しやすく、破壊力が増大する。
ガソリン1リットルが完全に気化して爆発した場合、理論的には約31~34メガジュールのエネルギーを放出。
これはTNT爆薬に換算すると約7~8g程度の爆発力に相当する。
頭がいいやつらなら、必ず動きを止められる。
動揺しているすきに、机の下に隠れていた私は飛び出す。
目を丸くした博士にスタンガンを放つ。
「いぎゃぁああああああ」
ゼロはみっともない声を上げて転んだ。
勝負を左右するのは、いつも一瞬のスキであり、予想外の展開だ。
そのスキ、脳の混乱を生み出すため、私はガソリンの匂いがする液体を作った。
気化爆発を知るものであれば、銃を撃つ訳にはいかず、どうすべきか一瞬思考してしまう。
そのスキを突いた。
「ロク!」
叫んだオッサンが、なぜか私の体を抱きしめ、床に転がる。
「は? え?」
抱きしめられている。
こんなの初めてで、頭が混乱する。
私は必死にオッサンを振りほどいた。
確かめるまでもなく、顔が熱い。
「あれ? 爆発しない? スタンガンで引火するかと……」
「これ、ガソリンじゃない。油断させるため、そういう匂いつくっただけ」
突き放されたオッサンは、安心したのか大きく息を吐いた。
スーツ姿で髪を上げ、ヒゲを剃った姿はなかなかのイケオジだ。
「つか、何でここに」
――という言葉の返答として、正拳を突き刺す。
オッサンが、腹をくの字に曲げてもだえる。
無事を確認できてよかった。
その気持ちをこめて殴っておいた。
照れ隠しじゃないからな。
心の中で三回くらい繰り返す。
防弾チョッキで無事だったナナナが、壁に手をついて立ち上がった。
痛む腹部を抑えながら、気絶したゼロの身体をロープで縛る。
途中、ナナナはゼロの鼻先を蹴り上げた。
ブーツなのでこれは痛いだろう。
覚醒したゼロの鼻先に、ナナナが顔を近づける。
「よぉ、ゼロ、よく聞け。私はお前を絶対に許さない。ずっと、ずっと、お前のことだけを考え、居場所を突き止め、殺すことだけを考えてきた。ようやくその日が来た。ここからは私のターンだ。どんな手を使ってでもお前のすべてを絞り出す。覚悟しておけ。真の狂気を、楽しませてやる」
普段、丁寧口調のナナナの凄みがある言葉に、ゼロが縮み上がる。
そして、ナナナはこちらを見ると、ニヤニヤと笑った。
全部、全部、全部、予想通り、という顔だ。
オッサンを追って、切り札のジョーカーとしてこの場に私が現れる。
渋谷ロクはそういうヤツだ。ナナナはそう評価した。
ナナナはここまでの一連を読み切っていたのだ。
ナナナは東山病院の一連を「テスト」と呼んでいた。
――だが、そうではない。
あれは今の状況を組み立てる為の「情報収集」だったのだ。
そして、ナナナのコマとして動かされた。
そんなナナナの前に歩き、私はグーパンした。
顔を殴られ、鼻血を流すナナナはしかし満面の笑み。
「これでチャラだと思うなよ。クソサイコ女」
殴った拳も痛い。
ナナナは防弾チョッキで無事だったジュウをゆさぶり起こし「聞きましたか? ジュウ。友達できましたよ!」と叫ぶ。
「はぁ? 友達とかありえねー」
目覚めたジュウが壁に手をついて立ち上がった。
「待ってくれ、渋谷ロク」
「ん?」
ジュウは苦しそうに息を荒げていた。
クスリが切れているのもあるかもしれない。
ジャンキーと疑ってごめんね。
心の中で謝っておく。
「もう……会えないかもしれないから……最後に言わせてくれ」
何を言い出すのか分からなさ過ぎて眉間にシワが寄る。
「好きです、付き合ってください」
一瞬、場が凍った。
それこそ、ガソリン臭作戦のように、今の私は無防備だろう。
オッサンとナナナの笑い声で、正気に戻る。
「死ね」
返事は簡潔に行った。
あの短期間で何を感じて私なんぞ好きになったのか。
まるで理解不能だ。
でも、ジュウは雨に濡れた仔犬のように目を潤ませ、肩を落としていた。
私はオッサンの無事を確認したので、もうやることはない。
ドアを開ける。むちゃくちゃに疲れた。
帰ろう。
オッサンは私に何かを言おうとして、やめた。
「……ありがとな」
「何だよ、気持ち悪い」
私はそれ以上の会話をやめてドアを開けた。
素直に言葉が出ない自分が嫌になる。
「こっちこそ………………」
ありがとう。
聞こえていないだろうけど、ちゃんと口にはできた。
ヘルメットを被り、商店街を抜ける。
行きかう人々は皆ヘルメットで窮屈そうだ。
でも、この見慣れた風景もじきに終わるのだろう。
住宅街の脇、舗装さえた川沿いの道を歩く。
私は例の歌を口ずさみながら、オッサンとの出会いを思い返した。
ただの汚いホームレスのオッサンだった。
利害だけの関係だった。
バカみたいな言い合いは退屈しなくて、適当なところがあるけれど、仕事は生真面目で。
裏切られたと思ってショック受けて。
でも、かっこよく私を助けてくれて。
あんたのお陰で、私は変わろうと思えた。
あんたみたいに、この人生と戦おうと思えた。
まだ、恥ずかしくて素直には言えないけど、いつか――。
ちゃんと面向かって礼が言えるといいな。
「人生、いいことなんて何もない~」
次の日、私はスマホの着信音で目覚めた。
のそりと布団から出てスマホの画面を見る。
知らない電話番号だ。
つか、集中モードにして音鳴らないようにしているはずだけど?
その時点で悪い予感がして、取らないでいると――。
何と勝手に通話状態になった。
どんな細工をしたらそうなるんだ。
そして、こんなことをするのは、あいつ――ナナナしかいない。
「聞いてください、マイフレンド」
電源を落とそうとしても何故か効かない。
だから、どうやっただよ!
私はスマホを壁に投げつけた。
「ヒスは止めてくださいよー! おもしろい話持ってきたんですから」
ヒスだとこのやろう。
「おもしろくなかったら殺す」
「大丈夫でーす。私、めっちゃ笑いましたから」
「で?」
「ゼロを拷問したんですけど、ワクチンの作り方教えてくれなかったんです」
「全然おもしろくないんだけど。つか、切るぞ」
「待ってくださーい。おもしろくなるのはここからです。それで、分かったんですけど、ゼロ、ウイルスは作れたけど、ワクチンを作る気は最初からなかったんです」
「は?」
「だからワクチンの作り方なんて分からないんですってw ぎゃははははは!」
「全然、笑えねー!」
私たちを巻き込んだ年単位の計画が水の泡ってことだろ?
弟ジュウの余命も残りわずかなんだろ?
何笑ってるんだこのサイコ女。
「だから、あなたの頭脳を貸してほしいんです。私と一緒にワクチン作りませんか?」
とにかくソッコーで断って、スマホは布団の中に突っ込んだ。
恐らくこれから何度も口説かれる。
正直、少しワクワクしたし、最終的にはワクチン作ることになるだろう。
でも、まぁ、すんなり言う通りというのも癪に障るし、二、三日は抵抗してやる。
おわり