「朔ちゃんおはよ!」
翌朝、部活に向かうバス内で聞き覚えのある声がした。車内広告の「たんぽぽ薬局」というポップな字から目を逸らしてそちらを見やる。同じ中学から進学したもう一人の女子が、温かそうなオレンジ色のマフラーを巻き、いつものポニーテール姿で手をひらひらさせてバスに乗ってきた。
一つ前の座席に座ると、笑顔で「試験はどうだった?」とこちらを見てきた。プシューと閉まる扉の音に被せて「まあまあかな」と答えると、彼女がいたずらっ子のような目になる。
「朔ちゃんのまあまあはできたって意味だからな、その台詞は信用できない」
朔也は内心苦笑した。これまでの試験ではクラス一位、学年順位五位以内をキープしている。が、クラス順位も学年順位も張り出されるわけではない。誰に点数や順位を聞かれてもいつも適当に濁しているが、彼女とは中学時代で学年トップを競っていた仲だ。互いに見当がついている。
「今井はどうだった?」
「あたし? あたしもまあまあかなー」
嫌味でない程度に照れ笑いする様子に朔也もつられて笑った。
「今井のまあまあって、ホントにまあまあのときだよね」
「朔ちゃん鋭い! 今回は地理が意味不明でした! 地図の読めないあたしに外国の気候は無理だよ」
「でも、学年順位は一桁だろ」
「それが、前回十五位に落ちちゃって」
朔也たちの高校は一学年七クラスある。偏差値もそこそこあるこの高校での十五位をどう捉えるかは自由だが、彼女本来のできを考えれば不本意なのだろう。
「前回は古典がね。序詞とか縁語とか訳し方は難しいし、勅撰和歌集を挙げよの問いに万葉集って書いたらバツになったし」
「あれは暗記モノ。それに、万葉集は有名だけど勅撰じゃないし」
「チョクセンってどういう意味だっけ?」
「教科書に載ってるよ」
「朔ちゃんって意地悪だなー」
気負うことなくぽんぽんと会話が成り立つ彼女とはなんだかんだで縁がある。同じクラスで出席番号は今井と折原で前後だし、同じく書道パフォーマンスに憧れて進学したので部活も同じだ。小学校は学区が違ったが書道教室は同じなので、幼稚園の頃から隣で筆を握ってきた幼馴染みと言っていい存在である。
そこでふと黒髪マスクの彼を思い出した朔也は「なあ」と改めて声をかけた。
「なんで毎回山宮と点数競争するの? いつまでやるつもり?」
するとクラス委員長でもある彼女が大袈裟に肩をすくめた。
「山宮君、勉強に真剣に向き合ってなかったからもどかしくって。それで勝負しようって言ったのが始まり。なんの科目かは交代で決めてる。今回はあたしが数学って決めた」
いかにも姉御肌の今井が考えそうなことだ。半分納得しつつも、クラスで自分と一、二を競っているはずの彼女と赤点スレスレの山宮では勝負にならないのではとも思う。
「山宮、勉強ができそうな雰囲気はあるんだけどな」
実際、山宮基一というクラスメイトの第一印象は「真面目キャラ」だ。休み時間でも本を読んでいるところを見かけるし、授業中に注意されているところは見たことがない。いつも淡々とした態度で、普段からつけているマスクのせいか、あまり笑わないし喋らない。
だが、陰キャに徹しているわけではないらしく、誰かに話しかけられれば答える。今井や副委員長などのクラスの中心メンバーと話している印象が強い。
と、今井の声が続く。
「山宮君って、ちょっと朔ちゃんと似てるでしょ? だから応援したくてあたしが意地になって競争してるところもあるかな」
「山宮とおれが似てる? どこが?」
すると彼女はふふっと含み笑いをした。
「だって、山宮君って」
と、そのときピンポンと音が響いた。次は終点という車内アナウンスが流れ、人々が降りる準備を始める。彼女がさっと立ち上がり、朔也の肩をぽんと叩く。
「朔ちゃん、急げば十二分の電車に乗れそうだよ」
明るい声に朔也もバッグを肩にかけて席を立つ。ブレーキで揺れる床に足を踏ん張った。
終業式までの自宅学習期間、運動系の部活はほぼ毎日活動している。午前の部活を終えて食堂へ行くと、「朔ー!」と遠くから声がかかった。ジャージ姿の見知った顔の男子たちが集まっている。朔也は食膳をもらうとすぐにそちらへ行った。
「おはよ。今日のA定食、チキン南蛮とか最高」
その台詞に食べ始めていた皆が笑った。
「朔、大盛りって、これ以上背を伸ばしてどうすんだよ」
「書道部なら筋肉は必要ねえだろ」
「そうそう、大盛りは運動部用だぞ」
男子の囲うテーブルには、生姜焼き定食や鶏マヨ丼、唐揚げの詰まった弁当箱などと一緒に、字のごとく山盛りのご飯茶碗が並んでいた。
「うちの書道部は半分運動部だよ。体操部のそっちこそバク転とかするのに筋肉必要なんじゃないの。肉食べな」
朔也がごくりとお茶を飲みつつ言うとまた笑いが起こる。
「それ、体操部あるあるだから。体操部だとバク転できるって思われる」
「そんな簡単にできねえっての」
「ごめん。おれ、できる」
スポーツも得意な朔也が言うと、このヤロ、と頭をわしゃわしゃっと掻き混ぜられた。部活中はピンで留めている前髪がふわふわする。
「朔って地味にいろいろできるんだよなあ」
「その才能ちょっと分けろ」
「あと身長な」
三年生が引退した今、朔也は書道部唯一の男子部員だ。部活中は常に女子が周りにいるので、こうして休み時間に男子と軽口をたたけるのは気分転換になる。と、一人が「あれ」と朔也の後方を見た。
「山宮じゃん。あいつも部活か」
そちらを振り返ると、ちょうど彼が食券を窓口に渡すところだった。昼食だからか、マスクを外している。それが不意に昨日告白してきたときの彼を思い出させた。
「あいつがマスクしてないの久々に見た」
「山宮って何部?」
「知らねえな。あんま喋ったことないし」
つけ合わせのキャベツを頬張った朔也も首を傾げた。
「おれも知らない。今日やってる部活ってなんだろ」
そう答えながらも、内心彼が学校にいるのは補習のためではないかと思った。教科によって異なるが、赤点でなくとも一定以下の点数をとると補習が行われることがある。が、朔也はその対象になったことがないので、詳しいところは知らない。
「山宮……部活じゃなくて、図書委員とか?」
本好きのイメージを抱いているのは皆同じらしい。一人がそう言ったが、別の一人が「うちの図書委員は女子だろ」と首を横に振る。
「保健委員とか?」
「それはマスクからのただの連想」
「あいつにはマスクをつけておけ。女子をとられる」
とられなくてもお前のところには来ねえよ。一人の言葉にわっと笑いが起きる。すぐに話題は山宮から逸れ、朔也は椅子に座り直して肉にかぶりついた。じゅわっと出る肉汁と甘酢ダレの酸っぱさが混ざった絶妙な味が口いっぱいに広がる。
「できる子の朔ちゃん、君はそのへんどうなのよ?」
「書道部って女子多いだろ」
「かわいい先輩からアタックされたりしねえの?」
朔也は濁して笑った。後ろにいる男子に複数回告白されているとは口が裂けても言えない。
「そんな空気サッパリないよ。皆、おれのこと女子と思ってるのかも」
こちらの笑みにつられたように皆もあははと声をあげる。
「一八〇センチ超えの女子はなかなかいねえよ」
「朔も寂しいクリスマスを迎えるのか」
友人らの話に耳を傾けながら、朔也はやわらかな日の差す空間に目を細めた。冬の暖かい昼は眠気を誘うように心地よい。
担任や委員長副委員長の性格もあるのだろう、クラスメイトたちは性別に関係なく全体的に仲がいい。また、進学校ではあるものの、付属大があるので勉強が全てという校風でもない。特に試験が終わり冬休みを待つ校舎には、いつになくのんびりとした空気が漂っている。中学時代、ここから抜け出したいとあがいていた頃とは違う、平和で穏やかな空間だ。