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第9話

 高校生活にも慣れてきたある日の放課後、体育館に書道部全員が集合し、大会で使うサイズの真っ白な紙を前にして予選に通過したことを告げられた。

予選は実技を披露するのではなく、それを撮影した映像や写真を提出して判定を行う。それらに関しては新一年生入学前に作成したものであったから、朔也も心から喜んだ。先輩たちはすごい、この高校に進学してよかった、これで自分もパフォーマンス甲子園に参加できるのだと。


 だが、本戦に出場する十二名の選手の名前を呼ばれると、夢は一瞬にして砕け散った。補員として今井の名は呼ばれたのに、朔也はそこでも呼ばれなかった。紙を押さえる要員にもなれなかった。部員は二十名ほど。なんの役も与えられないほうが少ないのだ。


 そのまま目の前で始まった初のパフォーマンス練習。朔也はぐっとくちびるを噛みしめ、冷たい体育館の床で正座して自問を繰り返した。


 どうして? おれのなにが悪かった? おれの字になにが足りなかった? 自主練にも必ず参加していたおれのどこがいけなかったんだ?


 誰も答えを教えてくれない疑問だけが頭を渦巻いて、筆を持つ部員たちを食い入るように見つめることしかできなかった。


 書道パフォーマンスはチームワークで行うものだ。試合する横のベンチで応援するスポーツ選手がいるのと同じように、仲間の応援も参加の一つである。だが、これまで字が上手いと褒められ、勉強や運動で上位にいるのが当たり前だった朔也は、人生最大の挫折を味わうことになった。


 練習は予選通過の興奮のうちに終わった。選ばれなかった部員たちは顧問から一人ひとり励まされ、朔也も労いとともに助言された。これからは上手い字だけでなく味のある字も書けるようになりなさい、と。


 これまで手本に忠実に書くことで褒められてきた朔也は、価値観が足元からひっくり返されて全てがガラガラと崩れていくような気がした。


 あとのことは覚えていない。ショックと混乱でなにから考えればいいのかも分からず、誰とも話せずに一人きりこもってしまったのだ。




「え、なんで、それ、知ってんの……」


 すると、説明するのもめんどくさいと言わんばかりに山宮がこちらをじっと見据えた。


「あの日、部活を終えて帰ろうとしたんだわ。だけど、下駄箱に委員長のローファーがあったから、変だなと思って教室に行ったわけ。そしたら委員長が一人困った顔しててさ、こう言うわけよ。お前がトイレに行ったきり戻ってこない、他の女子たちも心配してたけど下校時刻になったから帰った、でも自分はこの状況で先に帰れないってな」


 朔也はその日の帰りを思い出そうとしたが、どうもよく分からなかった。動揺していて他のことなど意識の埒外だったのだろう。今井がそんな理由で朔也の戻りを待っていたなどと考えもしなかったに違いない。彼女と帰りが重なるのは普段からあることだし、強烈な印象が残るわけでもない。


「委員長じゃ男子トイレに入れねえだろ。だから俺が行った。外からでもお前が泣いてんのが分かって、どうするか迷ったわ。だけど、見回りの先生も来るだろうし、仕方ねえとトイレに入った。で、音で俺が来たことに気づいたんだろ、慌てて出てきたお前とすれ違った。お前はこっちのことなんか見てなかったけどな」


 それを聞いてますます恥ずかしさがこみ上げたが、一方で山宮がいたことを覚えていない自分にも驚いた。それほどまでに混乱していたのか。いや、きっと、彼が言うように、人のことに関心がなかったのだ。


「……うわ……めちゃくちゃ恥ずかしい……皆にもばれてたとか……誰もそんなこと言ってなかったのに……」


 立てた膝に頬杖をついた山宮が、非難するような目でこちらを見てくる。


「翌日委員長にお前の様子を聞いたけど、委員長が選ばれたことばっかり口にして、笑顔を崩さなかったって。あたしはなんにも言えなかったって言うから、委員長の責任じゃねえだろって言った。他の女子たちもお前に話しにくかったんだろ。簡単に言うと、全部折原が悪い。お前は委員長に気を遣ったのかもしんねえけど、あいつがお前に話してほしかったこととは違うんじゃね。お前ら、幼馴染みなんだってな。だったらそんくらい気づけよバカ折原」


 完璧なまでに一刀両断され、朔也の頭が下がった。


「返す言葉もないです……」


 だが、山宮は再びざっくりと切り込んでくる。


「で、その日お前のこと観察してたけど、部活のことなんておくびにも出さなかったもんな。宿題が難しかったとか、昼ご飯になに食べたいかとか、当たり障りのねえことばっか笑顔で喋ってた。こいつ、誰に本音を言うんだろって思ったわ。トイレじゃ『なんで駄目なんだ』『来年は必ず』『絶対諦めない』とかぶつぶつ言いながら泣いてたくせに。『笑顔だ笑顔』『耐えろおれ』とか自分を言い聞かせるようなことも呟いてたけど、そもそも笑顔の使い方と耐え方間違ってんだわ。お前っててんで駄目だな」


 山宮の台詞に朔也は顔から火が出る思いがした。泣いていたことを知られた以上に言葉を聞かれていたとは。思わず頭を抱え込む。


「……あの、具体的な言葉とか、いいから……なんで覚えてんの、ホントやめて……」


 だが、山宮は容赦ない。


「本音さらしたくねえなら家帰るまで泣くんじゃねえよ。男子高校生のあんな泣き顔初めて見たわ。でかいから俯いても見え見えなんだよバカ折原」

「……それは、山宮君が、小さいからです……」

「そうやって話を逸らそうとするのが駄目なんだよ。言えばいいだろ、そうですすげえ悔しくて泣いてましたって。バレてんのになに繕ってんだよ、バカじゃね」


 何度も山宮がバカを繰り返すので、次第に恥ずかしさより悔しさが上回ってきた。


 こいつ。ここぞとばかりにバカバカ言いやがって。そんなに言わなくたっていいだろ。


 ぐぐっと芯から湧き上がる感情を堪えて声を抑える。


「バカバカ煩い……駄目駄目ムカつく……」

「やっと本音が出たか。折原ってめんどくせえわ」

「……めんどくせえとか最低……あと、山宮すごいS……」

「Sじゃねえわ。誰もお前に本音を言えねえから言ってやってんだ、感謝しろよな」

「……マジでふざけんな、この、チビ山宮……」

「折原、次チビって言ったらもっと恥ずかしいこと言うからな。どんな泣き声だったかどんな顔してたか詳しく説明すっから」

「……マジでふざけんな、この、イケメン美形線対称……」

「なんだそれ。悪口言い慣れてないいい子ちゃんか。イケメンでも美形でもねえわ」

「……美形は名前の話……基一、線対称の名前羨ましい……」

「結局それに戻るのか。どこまでいっても書道バカなのな、お前」


 ぐぐぐっと朔也のこぶしに力が入った。


 ああ、こんなにもストレートにバカにされたのは初めてだ。もんのすごく清々しいまでに山宮がムカつく。


 朔也はすうっと大きく息を吸った。勢いをつけて顔をあげるとびしっと山宮を指さす。


「黙れ! この赤点スレスレチビマスクハスキー!」


 いつぞや頭に浮かんだ罵りがそのまま口から飛び出したが、朔也はすぐに気づいた。


「あ、今、マスクしてなかった」


 すると一転、山宮がぷはっと噴き出した。部屋の空気が途端に変わる。むっとした朔也が睨んでも、山宮は腹を抱えて笑い続けた。


 やべえ、折原ウケる、天然か。ひとしきり笑ったあと、こちらを見、それでも堪えきれないように腹が痛え、と肩を震わせる。機械のつまみやボタンまでつられて笑い出しそうだ。


「ははっ、折原ってマジ笑えるわ! てか、赤点云々は否定できねえけど最後のハスキーってなに。俺、ハスキーボイスじゃなくね」

「それ、ハスキー違いだから」

「意味分かんね。あ、でもチビって言ったから言うけど、あんときお前」

「わあ、やめろ!」


 慌てて声をあげると、山宮が再び噴き出した。


「お前、いつもそうしてりゃいいんじゃね」


 くくっとおかしそうに笑ってこちらを見た。


「そうやって普通にしてろよ。誰とでも仲良しこよしの優等生よりよっぽど人間らしいわ」


 山宮の顔は心底楽しそうで、いつの間にか不快な気持ちは消えていた。

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