目次
ブックマーク
応援する
いいね!
コメント
シェア
通報

第30話

「折原君、これ」


 朔也は渡された白いたすきの端を口に挟み、左の下からぐるりと回して心臓の上できゅっと結んだ。腕を動かし、浅葱色の袂が邪魔にならないか確認する。少し短めの袴もおかしくないようだ。裸足で立つ廊下の冷たさが今は心地いい。


 廊下に並べられた墨池に今井が真剣な顔で墨汁を注いでいたが、別の部員が彼女に声をかけてたすきを渡した。第一体育館から卒業生たちが歌う校歌が聞こえてきて、パフォーマンス直前の書道部員たちの顔が引き締まる。


「皆、集まって」


 部長の声に高揚感と緊張感に包まれた十数人が小さな輪になる。部長が中央へ手を出すと、全員がそこへ手を合わせた。


「このメンバーでこのパフォーマンスを披露できるのは一回限り。泣いても笑っても二度とできないパフォーマンスよ」


 部長の凜とした声に、朔也もぐっと気持ちを引き締めた。


「先輩たちに恥ずかしくない最高のパフォーマンスにしよう!」

『はい‼』


 皆の大きな声が重なる。


 体育館のほうから別の合唱が聞こえてきた。在校生による送別の歌だ。


 卒業生は退場曲とともに体育館から校舎二階へ移動する。校庭を囲うコの字型の廊下に卒業生が並び、書道パフォーマンスを鑑賞したあとにそれぞれの教室へと帰っていく。卒業生にとっては体育館から教室に戻る隙間の時間だ。


 だが、その隙間の時間に書道部は全てをかける。


 朔也は自分の筆を握った。ぐっと中指に力を入れて持つ。大丈夫だ、違和感はない。


「さあ墨池と筆を持って。校庭に出よう!」


 部長の合図で部員たちは校庭に飛び出した。真っ白な紙の周りを二手に分かれてぐるりと回るようにスタート地点へと向かう。空を振り仰げば真っ青な快晴で、日差しの強さがそこまで来ている春を思わせる。


 ふと校舎を見て朔也は驚いた。三階や四階の窓からたくさんの在校生たちが興味津々でこちらを見ている。手を振るクラスメイトたちを見つけて、そうか、と思った。体育館にいる在校生は二年生だけ。部活や委員会の先輩たちを送る一年生は校舎内で待機しているのだ。


「書道部、整列!」


 部長の言葉に朔也は定位置で背筋を伸ばし、校舎を見上げた。太陽がそちらの方向にあって、眩しさに目を細めたくなる。


 そこへパッヘルベルのカノンと拍手が聞こえてきて、暫くすると涙に目を押さえた卒業生たちが出てきた。口元に笑みを浮かべていた彼ら彼女らが、校庭に敷かれた真っ白な紙と袴姿のこちらに気づく。「書道部だ!」と誰かの叫ぶ声がした。たちまち二階が卒業生で溢れかえる。一緒に初詣をした先輩の顔も見えた。


 ざわめきと校庭に吹き抜ける風の中、朔也は深呼吸をした。


 泣いても笑っても、これが一年の集大成。大会の選手になれずに泣いた。パフォーマンス用の字を目指して、自分の字を見失った。書道に背を向けて逃げようとしたことも、怪我に恐怖したこともあった。そうやって自分と向き合いながら、大切なものを見つけることができた。


 校庭に面した放送室のガラス窓を顧問が小さく叩く。いつもと違って灰色のカーテンが開いている。すると音楽が始まり、声が流れ出した。


「これより、書道部から卒業生へ、贈る言葉の書道パフォーマンスを行います」


 朔也はくるりと背を向け、足を広げて筆を構えた。──見てろ、山宮。おれは絶対にこのパフォーマンスを成功させる。


「参加いたします部員は、一年、今井はるか、折原朔也……」


 名前を呼ばれた瞬間、朔也は筆を紙に落とした。呼吸を整え、勢いよく、力強く。


 わああとあがる歓声と太陽を背負い、一歩ずつ下がりながら筆を動かす。左右にいる今井と先輩の袴の裾が見えた。


──躍動感がほしい。


 顧問の言葉を思い出し、朔也は体全体で筆を払った。


 もう迷わなかった。筆の入りは紙のどこか、どちらへ向かって跳ねるのか、並んだ横線のどれが一番細いのか、線のどこが強くてどこが弱いのか、全て見えている。


「三年生の皆さん、ご卒業、おめでとうございます……」


 部員紹介が終わると、贈る言葉の代読が始まる。名前を読み上げていたときの落ち着いたアナウンスからトーンがあがって明るい声になり、突然辺り一面に桜の花びらが舞い散るような空気に変わった。拍手はいつの間にか手拍子になっている。


 背に当たる日差しが熱い。額から噴き出した汗が顎からしたたり、髪先にもぽたぽたと粒が連なった。筆に墨を足せば指に墨汁がつき、筆を落とすたびに足の甲にも黒い点が飛ぶ。だが、そんなことは気にならなかった。


 楽しい、楽しい、楽しい。


 朔也の心の奥から気持ちが湧き水のように溢れ出した。


 正確なおれの字が書ける。音楽の持つ躍動を感じながら筆を動かせる。これまで培ってきたものの全てから字を生み出すことができる。


 筆を動かす腕が痛い。曲げた腰が痛い。全身運動に息があがり、口からはっはっと息が漏れる。それでも筆は止まらなかった。呼吸がビートを刻み、それに合わせて紙に濃墨が駆け抜ける。


 線と線がつながって文字へ、文字と文字がつながって言葉へ、言葉と言葉がつながって文へ、そして、部員一人ひとりが書いた文がつながって一つの文章になる。真っ白だった紙に筆先から部員全員心を合わせて命を吹き込み、山宮の声が思いを伝える。


──そうだ、これこそが、おれのやりたかった書道パフォーマンス。


「整列!」


 部長の声に我に返ると、筆と墨池を手にはあはあと息を切らし、裸足の足がコンクリートの校庭を踏んでいた。目の前には、校庭を覆う白い紙と、そこに踊る黒の文字が竜のように伸びやかに遠くまで広がっている。


 さあっと風が襟元を吹き抜けて、朔也は顔をあげて振り返った。休めの姿勢をとって校舎を仰ぐ。そこには割れんばかりの拍手をする笑顔の卒業生たちがいた。


「ありがとう!」

「書道部最高‼」

「感動したよ!」

「ホントに、本当にありがとう‼」


 歓声が飛び交う中、部長の「ありがとうございました!」という声が響く。皆で「ありがとうございました!」と声を合わせ、そのまま駆け足で外廊下から校舎内へと走り込む。


 気づくと、職員室前の廊下に書道部全員が輪になって集まっていた。手足や腕だけでなく顔まで墨汁で汚れ、女子たちの結んだ髪は崩れ、たすきで結んだ袂も大きくずれている。演技をやり遂げた部員たちの様子は、ぼろぼろだった。


 突然「う……」と部長が筆を握ったまま泣き出した。すぐさまそれが伝染し、皆がそれぞれ泣き始める。目を真っ赤にさせて「頑張ったよ、頑張った」と慰める者もいて、朔也と同じく、一度もパフォーマンスに参加できていなかった一年の女子が今井に抱きついて号泣している。朔也の目にも涙が浮かびそうになったとき、校庭につながる扉が音を立てて開いた。


 そこには、透明なケースに入ったCDと台本を握りしめた山宮がいた。


「書道部の皆さん、お疲れのところすみません。この音源をお返ししたくて」


 すると今井が「山宮君!」と声を遮って側に駆け寄った。


「音楽と放送をありがとう! パフォーマンスができたのは山宮君のおかげだよ!」


 笑顔の今井の言葉にすぐに他の部員たちも山宮を取り囲んだ。


「アナウンス、きれいな声だった!」

「原稿を間違えずに読んでくれてありがとう」

「名前を呼ばれてすっごく嬉しかった!」


 口々に飛び出す賞賛と感謝の嵐に、袴に囲まれた山宮が慌てたように首と手を振った。

「い、いや、俺は、そんな、全然」


 照れたように口元に手をやり、マスクがないことに気づいた彼が照れたように俯く。その様子に、つい声が出た。


「山宮!」


 朔也の声に弾けるように彼がこちらを見た。声が大きかったからか、その周りの女子たちがお喋りをやめて朔也を見る。


 山宮。言いたいことがたくさんあるんだ。ありがとうと言いたいことがあるんだ。山宮がいなかったら今日のおれはいなかった。


「山宮のパフォーマンス最高だった! ありがとな‼」


 朔也が両手を掲げると、山宮の顔が花が咲きほころぶように満面の笑みになった。ハイタッチにパンッと爽やかな音が鳴る。


「折原、お前もな!」


 再びわっと沸きかえった輪の中で、朔也は目尻に浮かぶ涙を拭った。

この作品に、最初のコメントを書いてみませんか?