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第37話

 新学期は無事スタートした。春休みに喋る機会が多かった体操部の男子がクラスに数人いて、移動教室のときなどなんとなく声をかけ合う。書道部員では中村という女子が同じクラスになったので、部活に一緒に行くことで男女両方と気さくに喋る男子の位置を確保した。


 山宮とやりたいと言っていた項目は、最初にスポーツテストのシャトルランにチェックがついた。出席番号の偶数番で呼ばれたグループが同じだったからだ。


 シャトルランは、二十メートルのラインの間を次第にスピードアップする音楽に合わせて折り返して走り、その回数で体力を見る持久走だ。高二男子の平均は約九十一回で、音源は百五十回まで流す。教師の説明を聞き、ぐっと顎を引く。百五十は運動部のためだろうが、最後までかじりつきたい。


 教師がコンポのボタンを押すと、いつも通りの説明が流れる。


 ド・レ・ミ・ファ・ソ・ラ・シ・ド。


 頭の中で去年の音楽を思い出し、音楽とともに走り始める。足の速さだけでなく、ペース配分を考えて。最初は余計な力を抜いて走り、体力を温存する。


 頭の中でだんだんと早くなる音源に合わせて音楽を数える。七十三回で最初の脱落者が出た。この二倍を行きたい。瞬間くじけそうになったが、これは対人ではなく己との戦いでもある。ちらっと山宮を見たが、息切れしている。山宮は八十一回で終えた。


 百回を超えると人数は半数以下になった。自己紹介で覚えている限り、殆どが運動部だ。汗がジャージの半袖に滲み、額からも汗が流れる。


 百三十回を超えたとき、朔也ともう一人になった。案の定もう一人は陸上部。体育座りで見ている皆が「すげえ」と感心した目でこちらを見ている。


 絶対負けない。絶対勝つ。


 かなり速くなったドレミファソラシドに食らいつく。二十メートルのラインを踏んで踵を返すと、床がキュッと音を立てた。だが、かなり息が苦しい。はあはあという自分の息遣いで耳がいっぱいだ。負けない負けない、絶対負けない──それだけを考えたとき、「百四十三」という声が聞こえた。運動靴のつま先がラインまで届いていなかった。


「折原、百四十二回」


 ペアの男子の声に膝に手をついてぜいぜいと肩で息をつくと、「おお」と拍手があがった。汗が止まらず、体操服で拭う。ちらりと隣を見れば、陸上部の男子も同じ回数で終わっていた。


「お疲れー」


 喋ったことのない彼に思い切って声をかけて、ハイタッチの要領で手をあげる。すると髪を短く刈り上げた彼が「おう」と笑顔でタッチを返してきた。新学期のそわそわした春の体育館にパンッと乾いた音が鳴る。


「折原って何部?」

「おれは書道部」

「文化部なのにそれ? 化け物かよ」

「陸上部ってやっぱりすごいんだな。まだ余裕そう」

「ラインを踏み外したぜ」


 このスポーツテストがよかったのか、体育終わりの着替えから数人のクラスメイトに話しかけられた。どうやら今年のクラスも男子は和気あいあいとした空気になりそうだ。山宮から「負けず嫌い発動」とメッセージが来て、「これでノートにチェックが一つついたね」と送り返した。


 そんな山宮とは、クラス内ではただのクラスメイトで接点なく過ごしていた。やはり放送室で過ごすときだけお互い素になれる。春時間で最終下校時間は三十分延長した。その放送が終わっているときは部活の女子たちと帰り、そうでないときは放送室に寄って、下校放送を行うまでの数分間を二人で過ごす。


「山宮、一緒に帰ろ」


 部活終了後、そうやって放送室の扉を開けると、山宮は必ず帰り支度を済ませてマイクの前でスタンバイしていた。


「下校放送まで待ってろ」

「オーケー」


 定位置へすとんと腰を下ろし、山宮がチャイムを鳴らす黒のデッキを見つめる。最終下校時刻の六時半までいつも数分。その数分を山宮は黙ってマイクを見つめ、その真剣な表情を朔也も黙って見つめる。するとほどなくチャイムが鳴り、微動だにしなかった山宮の白い指がつまみを押し上げるのだ。背筋の伸びた背中が膨らみ、マイクの前で口が開く。


「最終下校時刻になりました。校内に残っている生徒は、すぐに下校しましょう」


 目の前で山宮の口から独特の声が流れ出す。目を瞑ると、マイクを通じて山宮の声が響く校舎内の様子が浮かんだ。


 山宮の声が放課後の終わりを告げると、春の校舎は一日の活動を終える。


 部活で使った黒板もきれいに消され、黒板の桟にはオレンジや白、黄色などの色とりどりのチョークが並ぶ。窓が閉まって風が閉め出され、カーテンがタッセルでまとめられる。机にきちんと椅子が収まった教室はパチンと電気が消え、リノリウムの廊下に反射するのは緑の誘導灯の光のみ。昇降口の並んだ下駄箱には、明日を待つ上履きがきちんと収まる。花の揺れる中庭も校舎の影に沈み、明日の朝を待つだろう。


 山宮の声を書道室で聞くのもいいが、やはり目の前で聞くのは特別感がある。聞き取りやすいゆっくりとした中に、凜とした芯のある声は校内放送でしか聞くことができない。


 山宮の声が学校の時計を操っている。山宮がそんな大仕事をしていることを、他の皆は知らないのだ。


「六時三十分です。最終下校時刻になりました。校内に残っている生徒は、すぐに下校しましょう」


 山宮の声って本当にきれいだ。


 朔也はしみじみとその声に聴き入り、頭の中で山宮の下校放送を聞くという文言に何度目かのチェックをつけた。

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