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第17話 約束

「ねえ。私は今、一応ミレニア側の人間ってことになってるんだよね。私のこと、裏切り者ってことにできないかな」

「裏切り者?」


 遊佐が首を傾げた。突拍子もない提案だと思ったのだろう。私は思いついたまま、息を吐くように続けた。


「そう。私が母を裏切った。そう思わせるの。きっと、母は怒り狂って私に会いに来る。そうすれば、母を捕まえられるよ」


 一瞬、場の空気が留まった。

 だが、それも束の間。安吾はすぐに首を横に振ると、真っ直ぐ私を見つめ返してきた。その瞳は、今までで一番、厳しい光を宿していた。


「だめだ。お前はここにいろ」

「でも、私なら…」

「何度も言わせるな。その提案はなしだ」


 いつになく鋭く「壁」のように感じられる安吾の言葉。


 でも、私も本気だった。


 遊佐ではきっと母に接触できない。安吾も、ミレニアにとって重要な立場ゆえに、厳重に監視されるはず。しかも目を覚ましていることがバレた今、母はさらに慎重になるはずだ。


 今一番、接触できる可能性が高い人物──それは私なのだ。


「馬鹿にしないでくれない?」


 私は静かに、声に力を込めた。安吾は厳しい眼差しのまま、じっと私を見つめている。


「遊佐は散々危険を冒して、私たちに情報を流してくれた。安吾は、故郷を襲われて記憶も失くして、十年もここに閉じ込められた。SPTだって、きっと命懸けで母を捕まえに来る。それなのに、娘の私がただ黙って見てるなんて、そんなのできるわけないじゃん」


 安吾は何も言わず、しばらく険しい眼差しを保ったままだった。だが、私の意志を感じ取ったのか、その顔に一瞬、影が宿る。私は安吾の手を取り、いつも通り笑った。


「やらせて。お願い。それにね、ひとつ確信があるの」


 私はくるりと振り返り、遊佐を見る。彼もまた、私の言葉の意味を測りかねているようだった。


「実はね、私…何度も母に殺されかけてるの。首を絞められたり、包丁を向けられたりね。でも、いつも殺せなかった。その理由は……」


 私は息を大きく吸い、心を整える。そして静かに、その言葉を口にした。


「母は、私に殺される日を待ってるの」


 言い終えた瞬間、二人の肩が僅かに揺れた。意外だったのだろう。

 虐待されていた時、母はよくこう言っていた。「私を憎いなら殺せ」と。包丁を私に握らせ、自分の首筋に押し当てたことも一度や二度じゃなかった。


 私がそれを拒むと、母は決まって泣き叫んだ。安吾と遊佐と出会って、私は母の思想──「終末思想」を知った時にようやく気付いた。あの狂気じみた言葉の裏にあったのは、母の歪んだ「本音」だったのだ。


 だが、母はそれを他人には決して委ねない。

 彼女は完璧主義者。支配的で、自分の心の奥底を誰かに覗かれることを嫌っていた。そしてそれを、きっと血の繋がりのある私以外の人間にやらせるのを許さない。


 あの人はミレニアの女帝。その一方で、とても弱くて、壊れた心を抱えている人。


 今もそうであると不思議と確信できるのは、この世でただ一人。娘の私だけだろう。


 私は安吾の手をぎゅっと握り、顔を上げた。その瞬間、自分でも驚いた。彼の顔がぼやけている。気づけば、私の頬を、一筋の涙が静かに伝っていた。


 十六年。母を恨み、憎み、彼女が犯した罪の数々を嫌というほど目の当たりにしてきた。


 母のせいで傷ついた人たち。

 母の狂気に呑まれ、信者となって壊れていった人たち。


 それでも、私は最後まで、あの人の娘なのだ。

 娘の私がこの場所で足を止めるなんて、そんなことはできない。

 安吾のためにも、そして母のためにも。


 私は誤魔化すように手を離し、パッと袖で涙を拭う。そして、小さく笑いながら二人にこう告げた。


「でもさ、私ただの一般人だから、武器もないのはちょっとね。どうにか捕まえる方法ないかな?気絶させる方法とかさ」


 一瞬の沈黙。

 すると、遊佐が神妙な顔で歩を進め、部屋の棚の下へ手を伸ばし、ゆっくりと何かを取り出した。


「…スタンガンでございます」


 私は思わず、目を見開いた。


「万が一に備えて、咲良様にお渡しするつもりでした。桂木芙蓉は人狼族の──安吾様の血を取り込んでおりますが、常に人狼化しているわけではございません。生身の状態なら、気絶させることも可能かと」


 遊佐はそう言いながら、ゆっくりとスタンガンを差し出した。それを受け取ろうとしたところ、安吾の手が遊佐の手首をそっと掴む。安吾はそのまま、私をじっと見つめた。先ほどまでの厳しさとは違い、思いつめたような、優しさを滲ませた眼差し。胸の奥にじんわりと温かなものが広がり、また涙が出そうになる。私は天井を仰いで、必死にそれを誤魔化した。


 そして、しっかりとスタンガンを受け取り、素早くポケットへ仕舞う。それから私は、両手でパンっと安吾の頬を軽く叩いた。


「そんな顔しないの!別に死にに行くわけじゃないんだから!母を止めるために行くの。わかった?安吾は焔と会えたら枷を壊してもらって!そんでもって、ちゃんと私のこと迎えに来てよね!迎えに来なかったら、ボッコボコにしてやるから」


 すると、安吾はきょとんと目を丸くし、その後で小さく笑った。

 そして彼はゆっくりと、私と遊佐に向き直る。


「…二人とも、私のわがままを聞いてくれないか?」

「わがまま?」


 安吾は頬を緩ませ、柔らかい声色でこう続けた。


「この後、ひと暴れさせてくれ」


 この言葉に、遊佐は盛大に仰け反った。


「何を仰るのです!そんなことをすれば…」

「お前の盗聴器と発信機を壊した時点で、私がもう起きていることは気付かれている。とはいえ、ミレニアにとって私は奴らの生命線。それに時紡石発動の鍵なんだろ?少々暴れたところで、絶対に殺されはしない」

「一体、なぜ…?」


 遊佐の問いに、安吾は笑みを浮かべる。その視線は、確かな光が灯っていた。


「この屋敷には、SPTの密偵がまだ潜んでいるかもしれない。私が暴れれば、SPTに情報が伝わる。人狼族の御影安吾はここにいるのだと。私は、SPTのある人物に、自分の状況をどうしても伝えたいのだ」


 その言葉に、私は息を呑んだ。

 安吾が無事をどうしても伝えたい人物、それはたった一人しかいない。


 彼の考えを確信した私は、早口で遊佐に言葉をかける。


「お願い、遊佐!安吾がしたいようにさせてあげて!」


 遊佐は僅かに目を泳がせた後、渋々頷いた。

 そして、彼はそのまま腕時計に目を落とし、焦りを滲ませながら、扉へと視線を向ける。


「仕方ありませんね。具体的にどうしますか?あと三分もすれば、ミレニアの者がこの部屋に来ます」

「遊佐、お前には少し怪我をしてもらう。痛いかもしれんが、我慢しろ」


 この発言にギョッと目を見開く遊佐。

 その後、覚悟を決めたように肩を落とし、絞り出すように声を漏らした。


「…了解です。加減、お願いします」


 遊佐の言葉に、安吾は淡く笑みを浮かべる。


「あとは私が盛大に暴れる。せっかくだから敵の頭数を減らしておくか。十年分の鬱憤うっぷんが溜まっているからな」

「安吾!」


 思わず声を上げる私。安吾はハッとした表情で私に視線を向ける。


「…殺すのは絶対にだめだからね」


 彼は一瞬だけ黙り、小さく頷いた。

 そして次の瞬間、彼は自らの頭を、私の肩にそっと乗せた。


「…安吾?」

「抱きしめたいのに、枷が邪魔だ」


 唐突な言葉を受けて、一瞬で顔が熱くなる。

 遊佐の前で、こんな大胆なことを言うとは…!

 横目で遊佐を見ると、見て見ぬふりをするように、うつむいている。


 私は照れながらも、安吾の両肩をそっと押して体を離す。だが、安吾の寂しそうな目を見た瞬間、彼への想いが一気に溢れる。

 私は自分から安吾の首に腕を回し、彼の頬にそっと唇を寄せた。


「次に会えた時、抱きしめて」


 願いを託すように、私はそう告げた。

 すると、安吾はふわりと微笑み、お返しとばかりに私の頬に唇を寄せた。確かな約束を、胸に刻むように。


 それから数分後。

 ミレニアの者たちが一斉に部屋へと踏み込んで来たのと同時に、安吾はすかさず陰の気を放出し、動揺する敵から武器を奪うと、瞬時に襲い掛かった。騒然とする場。私は安吾の名を叫び、そのまま捕らえられた。


 最後に安吾と目が合った時。彼はいつもと変わらぬ、静かで優しい笑みを浮かべていた。私は目を逸らさず。その顔を瞼の奥に焼き付ける。


 この先何があっても、安吾を思い出せば私は前を向ける。


 遊佐とも短く頷き合った。すべてが終わったら無事にまた会おうと、そんな思いを視線に込めて。


 そして私は、心の中で祈った。

 どうか、あの人の想いが、離れ離れになった焔に届きますようにと。

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