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第15話

その服はお買い上げすることにしたけれど。


「俺が払う」


私が準備するよりも早く、矢崎くんがカードをカウンターに滑らせる。


「え、自分のものだし自分で買うよ」


「可愛い奥さんを可愛く着飾らせるのは、夫の勤めだろ?」


右の口端を持ち上げ、彼がにやりと笑う。


「じゃ、じゃあ、お言葉に甘えて……」


……そんな顔されたらもう、断れなくなっちゃうよ。


どきどきと心臓の鼓動が速い。

私だけではなく店員も、頬を赤らめて視線を逸らしていた。


その後もあちこち見て回り、どこでも矢崎くんが払ってくれた。


「こんなに買ってもらって悪いよ」


矢崎くんの手には持ちきれないほどの紙袋が握られている。


「俺が可愛い純華が見たくて買ったんだから、いいの」


なんて彼は謎理論を繰り出してきて、笑うしかない。


「ねえ。

寄ってもいい?」


化粧品も取り扱うバラエティショップの前を通りかかり、足を止めた。

服の見目がよくなった分、もうすこしメイクを頑張ってみようかと思う。


「んー、ここはまた、な」


「あっ」


しかし矢崎くんは私の手を引っ張り、強引にその場を去ってしまった。


「私がメイクするのは反対?」


もう、それしか考えられない。


「いや?

俺だってもっと可愛い純華が見たいよ?

でも、買うのはここじゃなくてもいいだろ」


「はぁ……」


なんだかわからないが、彼がなにか考えているのだけは理解した。

なら、メイク道具は保留かな。


一度、車に荷物を置きに戻り、今度は予約してある宝飾店へ行く。


「矢崎様、お待ちしておりました」


私たちよりも少し年上の男性店員が出てきて、個室へと通された。


「すぐにご準備いたしますので」


彼がいったん下がったあと、待っているあいだにコーヒーが出される。

もしかして個室対応のお店なんだろうか。

お店選びは矢崎くんに任せたので、わからない。


「お待たせしました。

本日は婚約指環と、結婚指環のご相談でよろしかったでしょうか」


「はい」


少しして先ほどの店員が戻ってきて、私たちの前に指環を並べていく。


「うかがったご予算から、オススメのものを選ばせていただきましたが……」


「えーっと。

矢崎くん?」


目の前の指環を見て、顔が引き攣る。

そんな私と対照的に、矢崎くんは涼しい顔でコーヒーを飲んでいた。


「ご予算って、どれくらい?」


「教えない」


ずいっと顔を寄せたものの、彼はすいっと顔を逸らした。


「教えないってさー」


並んでいる指環は、中央以外にもダイヤが一周埋め込まれていたり、一粒でもかなり大きなダイヤがついていたりしている。

絶対に平均的な、婚約指環の価格ではないはずだ。


「私は普通のでいいんだよ、普通ので。

なんなら、その辺の雑貨店に売ってる、数千円のでもいいし」


矢崎くんの肩を掴み、勢いよくぐらぐらと揺らす。

仮初めの結婚相手にこんな高級なもの、買わなくていい。

とはいえ、彼は私の都合など知らないのだけれど。


「うるさいなー。

俺は純華に、これくらいのものを贈る価値があると思うから、これくらいにしたの。

なんか文句ある?」


「うっ」


じろっと眼鏡の奥から睨まれ、言葉に詰まった。

しかし、これくらいで引いてはいけないのだ。


「わ、私にそんな価値、ないよ」


矢崎くんは私を買いかぶりすぎだ。

いや、私を可愛いと言ったり、私と結婚したがるような人だから、女性に対する価値観がおかしいのかもしれない。


「……はぁっ」


彼から呆れるようにため息を落とされ、びくりと身体が震える。


「純華は自分を低く評価しすぎ。

言っただろ、純華には純華のいいところがあるんだって。

俺はそれに、これくらいの価値があると認めた。

だからこれでいいの」


「ふがっ」


真面目な顔して矢崎くんは、私の鼻を摘まんできた。


「別に俺にとって負担になる金額じゃないしな」


「……そうでした」


矢崎くんはあのマンションが楽に維持できるくらい、お給料以外に稼いでいる。

今日のお買い物に使っていたのも、プラチナカードだったし。


「だからほら、好きなの選べ?

気に入るのがないっていうなら、他の持ってきてもらうし」


話を聞いていた店員が、うんと頷く。


「いや、でもさ……」


それでも一般庶民の私としては、気後れしてしまうわけで。

しかも一時の結婚相手にこんな大金を出させるなんて申し訳なさすぎる。


「そういうのが純華の可愛いところだけど」


言葉を切った矢崎くんが、一気に迫ってくる。

おかげで背中が仰け反った。


「まだなんか言うなら、その口塞ぐぞ?

てか、塞ぐ」


言うが早いか彼の唇が重なる。

しかも間抜けにも僅かに開いたままだった、私の唇からぬるりと侵入してきた。

後ろに下がって離れようとするが、背中に回った手がそれを阻む。

さらに後頭部に回された手にしっかりホールドされてしまった。


……店員さんが見てるんですけど!


私の心の叫びが彼に聞こえるはずもなく、こんなところなのにがっつり貪ってくる。

パニックになりながらちらりと見ると、店員はそっと部屋を出ていくところだった。


「……んっ、……んんっ」


最初は逃げ回っていたものの、矢崎くんの熱を移されてそのうち瞼が落ちる。

それを見計らっていたかのように、彼は離れた。


「やっと静かになったか」


自身が濡らした私の唇を、彼の親指が拭う。


「……静かになったか、って」


矢崎くんを抗議の目で睨みあげたものの。


「まだなんか言うなら、またキスするぞ」


真顔で彼の顔が迫ってきて、黙った。


「失礼します」


口紅を引き直した頃、店員が戻ってきた。


「お客様のイメージからこちらもよろしいかと思いまして、ご用意いたしました」


なんでもない顔をして彼が、さらに数点指環を並べてくる。

私はなにも見ていません、新しい指環を用意するために席を外していただけですって雰囲気を彼は醸し出しているが、さすが一流のお店だ。


「ほら、純華。

どれがいい?」


「あー、うん」


諦めの境地で指環を見る。

これ以上なにか言っても、その気になるまでキスされるだけだ。

キスだけならいいが、その先までおよばれても困る。

なら、無理矢理納得して選ぶしかないのだ。

そのときが来たときは、こんな高いものを買わせてしまったのを謝ろう。

……それに。

私にこれだけの価値があると言ってくれたのは、嬉しかったのだ。


「これがいい」


それでも一粒ダイヤで、その中でも小さめのを選んだ。


「それでいいのか?

もしかしてまだ、遠慮してないか?」


それにううんと首を振る。


「シンプルなのが好きなの。

だから、これがいい」


納得させるようににっこりと彼に微笑みかける。


「純華がいいならそれでいいが」


矢崎くんも納得してくれて、ほっとした。


結婚指環でまた揉めた。

だって矢崎くん、やたらと高いの選びたがるんだもん。


「あのな、純華」


はぁーっと呆れるようなため息が矢崎くんの口から落ちていく。


「うちの会社クラスの社長が、安い指環を身につけていたらまわりから馬鹿にされるの。

わかる?」


「わ、わかる……ケド」


「それなりの地位にいる人間は、それなりのものを身につけなきゃいけないの」


言い含めるように彼が言ってくる。


「わかる、ケド。

でも、矢崎くんは今、ただの一般社員じゃない」


再び彼の口からため息が落ち、怒られるのかと身がまえた。


「この指環が会社でも着けられるようになる頃には、俺はただの一般社員じゃなくなってる。

わかるか?」


その言葉になにも答えられなくなって俯いた。

今の仕事が上手くいき、次期後継者として認められたら私を両親と祖父母に紹介すると矢崎くんは言っていた。

それはすなわち、この関係の終わるときだ。

ならば、着ける機会のない指環をわざわざ買わなくていい。

しかし、それを彼に伝えるわけにはいかない。


「……わかる、ケド」


私から出た声は、暗く沈んでいた。

私だって本当は、彼との結婚指環が欲しい。

でも、無駄なものはなるべく買わせたくないし、……それに。

想い出になるものもできるだけ残したくない。


「また、純華の言えない事情か」


背後に回った手が、背中をあやすようにぽんぽんと軽く叩く。

黙って頷いたら、頭上でため息の音がした。


「なら、聞かない」


きゅっと一度、強く抱き締めたあと、彼が私を離す。


「結婚指環は保留にしよう。

代わりのこれがあるしな」


矢崎くんの指先が、私の胸もとに下がるアクアマリンを揺らす。

今日も買ってもらったネックレスを、着けていた。


「でも俺はスーツじゃない日、着けるものがないしなー。

……そうだ。

休日に着ける、ペアのネックレスを買おうか。

プチプラのヤツ」


にかっと笑い、彼が私の顔をのぞき込む。

それで気持ちが幾分、解けた。


「それならいいよ」


私も彼に、微笑み返した。

……しかし。

矢崎くんにとってプチプラでも、私にとってはプチプラではないわけで。

また揉めたけれど。

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