二〇二〇年七月二十三日の午後。
ついに、塔京ゴリンピア大祭の開会式が始まった。
「守本会長に続きましては、矢部総理からのご挨拶でーす!」
司会進行役の勝利の女神ニケが、翼をはためかせて控えの席に手を向けると、総理大臣の矢部新造が壇上に上がった。
「えー、会場、並びにJGCの皆様、私はこの美しい国日本で、ゴリンピック大会が開かれる事を大変名誉に思います。皆様もご承知の通り、我が国ではコロリウイルスという予期せぬパンデミックにより、一時はゴリンピックの開催が危ぶまれました」
矢部総理は間を置き、競技場に集まった七万人の観客に目をやった。
「しかし、古の神々の復活により、ここに塔京ゴリンピア大祭が実現しました。今回の祭典では原点への回帰を掲げ、古代ゴリンピックで行われていた武装競技を解禁いたします。
えー、これは野蛮な競技ではないかとのご批判があるかも知れません。ですが、本来のゴリンピックは平和のための祭典などではなく、神であるゼウスに身を捧げる宗教儀式にほかなりません。目潰しと噛み付き以外は何でもありの格闘技、パンクラティオン。二十一台による潰し合いのレース、
観客席からざわめきの声が漏れる中、矢部総理は一礼して壇上を下りた。
「誰だよ、こいつ?」
と、画面に映る自分の姿を見て、矢部総理は言った。
総理大臣である矢部新造本人はあたしの目の前に居る。では、先ほど生放送で開会の挨拶を述べたあの男は、一体誰だというのだ?
あたしは十数回目のリダイヤルをしたあと、電話の受話器を置いた。
「やはり、博士とはまったく連絡が取れませんね」
「ふむ。何かの間違いであってくれれば良いと思っていたが、これで彼の
ヘラクレスとの戦いのあと、荷稲博士は我々の前から忽然と姿を消した。矢部総理は即刻ゴリンピア大祭の中止を指示したが、すでに競技場の入り口はナノロイドたちによって封鎖され、中には誰も入る事ができなくなっていた。
BSRの検査を終え、七万人の観客のほとんどは競技場に入場していたが、彼らにヘラクレス暴走のニュースは伝わっていない。
これは、政府の情報統制などではない。
TV放送、ラジオ放送、ツルッターにインスタクラブにUチューブ、ありとあらゆる方法で塔京ゴリンピア大祭の中止を呼びかけようとしたが、全てのメディアが使い物にならなかった。例えばSNSにナノロイドの暴走という記事を投稿すると、記事は瞬時に消されアカウントも停止になった。TVやラジオなども同様で、その手のニュースを流そうとすると画面や音声が乱れて一時中断してしまうのだ。
つまり、荷稲博士によって全てのメディアが検閲されていたので、競技場の観客を始め、日本じゅう……いや世界じゅうの人々が、ナノロイドの暴走した事実を知らされていなかったのだ。
一体、どんな方法を使って?
あたしにはまるで想像もつかなかったが、あの悪魔のような天才科学者に不可能は無いのだろう。
「総理、映像解析が終わりました」
警視庁の花園警部が、デジタル解析したデータを持って会議室に戻ってきた。
「ふむ。何か不審な点が見つかったかね?」
「この部分をご覧ください」
警部は正面の壁に取り込まれた大型スクリーンに、先ほどの矢部総理の画像を映し出した。壇上に上がる直前、総理の首の後ろに何かがキラリと光った。その箇所をぐんぐんと拡大して補正すると、そこには金属プレートに刻まれた〔Made in Caina〕の文字が表れた。
「私に似せたナノロイドかっ!?」
「はい……。首筋の確認が取れたのは総理だけですが、こちらに居られる守本会長が偽物でなければ、最初に挨拶をしていた男もナノロイドに違いありません」
当然、考えられる局面だった。
翼や角のある異形の神々は別として、ナノロイドの見た目はどこからどう見ても本物の人間にしか見えないほど精巧に作られている。この世に実在する人間にそっくり似せる事だって、可能と考えるのが筋だろう。
「そ、それよりも、陛下はご無事なのか?」
JGCの守本会長が青ざめた顔をして問い質した。
「いえ、それが……政府の要人はまだ入場していなかったのですが、陛下らは一足先に競技場へ向かっていたらしく……」
矢部総理は苦虫を噛み潰したような顔をして、スクリーンを睨みつけた。
「本物の陛下が人質になっておるのか」
中継ではちょうど、天脳陛下の開催宣言が行われていた。
「第三十二回ゴリンピアードを祝い、ここにゴリンピアの開催を宣言する」
会場から割れんばかりの拍手が巻き起こる中、今度は競技場に黄色いローブを身に纏った少女が現れた。ムーサ少女隊の歌姫、女神カリオペだ。
何もない競技場の中央まで歩いて来ると、カリオペは
マァアァデェエェ
あまりの美しい歌声に、観客たちは拍手も忘れ静まりかえっていた。
そりゃそうだろう。女神の……まさに人間離れした声帯で、競技場の隅々にまで響き渡る国歌を聞かされたのだ。殺人ロボットの仲間だと知っているあたしでさえ、この歌声には魅了される。
カリオペが一礼すると同時にファンファーレが高らかに鳴り響き、場内に行進曲「戦艦」が流れ始めた。
まずは、大きなゴリンピック旗を手にしたナノロイドたちが現れた。
真っ赤なローブを身に纏ったアポロンを先頭に、仲良く鎧で重武装をしているのは守護神のアテネに軍神のアレス、狩猟の女神アルテミスは弓を、半神の英雄アキレウスとペルセウスはそれぞれ槍と剣を片手に行進している。酒の神であるディオニュソスだけが旗の端を持たず、ふらふらと酒壜を抱えてあとを追っている。
聞いていたプログラムでは、八人のナノロイドたちが旗を持って行進するハズだったが、やはり英雄ヘラクレスの姿はそこにはなかった。
可愛らしい姿のクピドーが戦艦マーチを
さらに百腕の巨人ヘカトンケイル、独眼の巨人キュクロプス、馬の下半身を持つケンタウロス、鳥の下半身を持つセイレーンといった異形の神々もゲートから登場し、パレードはさながら百鬼夜行の様相を呈してきた。
「総理、少しは休んでください」
あたしは淹れたてのコーヒーをテーブルに置いた。
「うむ。すまんな」
矢部総理は、赤い巨人と戦うあたしの写真を凝視していた。
総理大臣の権限で、セーラー服を着たまま秘書官の職務を続けてはいたが、ただの小娘であるあたしが、おそらくナノロイドの中でもっとも力の強いヘラクレスを倒したのだ。どう考えても普通ではない。
「しかし紫音、お前空手なんぞ習ってたか?」
「叔父さん、やはりあたし、拘束してもらった方がいいんじゃ……」
総理は手にしていた写真を投げ出すと、不機嫌そうな顔をして睨んだ。
「馬鹿者、殺人ロボットを倒してくれた人間を牢屋に入れる理由が何処にあるというのだ。それよりも、そのセーラー服……のように見える強化服、後ほど技本の塚本さんにでも検査してもらった方が良いな」
「はい……」
生身の頭蓋を壁に打ち付けられても、怪我どころか擦り傷ひとつ負わない。そんな強化服なんてあるわけがない。あたしは自分の肉体がどうなったのか、おおよその見当は付いていたが、今は叔父である矢部総理の言葉に従おう。
「総理、国立競技場付近の映像が届きました」
花園警部が持ってきた録画データをセットしていると、ソファで
「むう、陛下を御救いせねば」
大型スクリーンに新国立競技場の映像が映し出された。
屋内への入り口はAからHまで八カ所あったが、その全てが閉鎖され、下級神のパンやケンタウロスたち数名が門番に立っていた。
「警護に付いていたSPらの報告によると、乃村秘書官がヘラクレスに襲われた際、M37で計十六発を発射、うち十三発が肩、背中等に命中したようですが、傷一つ付かなかったそうです。全てのナノロイドがヘラクレス並みのスペックを有してはいないでしょうが、それでも人間の十倍以上の筋力を備えていると推測されます。我々警察隊だけでゲートを突破するのは困難かと」
数々のテロ事件を扱ってきたという花園警部だったが、今回の異常な事件にはどう対処してよいか分からないのだろう。
「うむ。先ほど陸自の澁谷くんともやっと連絡が付いた。あとは陛下を含め七万人の観客を人質に取られている競技場に、どのタイミングで戦鎧師団を突入させるかという判断だが……」
「式典は間もなく終了しますし、犯行声明があるのでは?」
「そうだな……。存外そのまま観客を解放してくれる可能性もある。取り敢えず、式典終了後の挙止を見てから判断するとしよう」
矢部総理は独り言のように応えた。
翼のサンダルを履いたヘルメスが、競技場の天蓋部から舞い降りた。
聖火の灯ったトーチをプロメテウスが受け取ると、彼は聖火台に続く三百段もある階段を一気に駆け上った。
「おおぉ、此度は人間に脂身に包まれた骨を与えよう!」
プロメテウスは謎の言葉を大声で叫び、聖火台に火を投げ入れた。燃え盛る炎に場内の興奮はクライマックスへ達し、滝のように激しい拍手と人々の歓声で埋め尽くされた。
これで開会式は終了のハズだけど……。
今度はゲートから巨大な
競技場の中央に神輿が止まり、博士の顔がスクリーンに大写しになると、彼はマイクを手にして立ち上がった。
博士は
その途端、隣にいたゼウスとヘラの肌が赤く染まった。アポロン、アテネ、アレス、アルテミス、アキレウス、ペルセウス、ディオニュソスの肌が赤く染まった。
可愛らしい姿のクピドーも、美の女神アプロディーテも、九人のムーサやニュンペー、パン、サテュロスらも赤く染まった。
異形の神々ヘカトンケイル、キュクロプス、ケンタウロス、セイレーン……いや、競技場に並ぶ全てのナノロイドたちの肉体が、あのヘラクレスと同じように真紅に染まったのだ。
「い、いかん、すぐに戦鎧師団を突入させろっ!!」
矢部総理はスクリーンの前で叫んだ。
セイレーンたちが観客席に向かい、悪鬼の形相で声ならぬ声を上げた。
シャヤアアアアァァァアアアアァァアーーーッ!
会場の観客たちは、最後のパフォーマンスであろうとさらに拍手喝采を送った。だがその直後、場内の拍手は一斉に止まり、まるで時間が停止したように人々の動きが固まった。
そして七万人の頭部が赤く染まり、スタジアムの傾斜をコロリコロリと転がった。
「何てことよ……」
この光景は全世界に向けて配信された。