春の陽光が差し込む大学の図書館。数学科3年の
「また解けない...」
蓮が小さくため息をついたその時、隣の席に誰かが座る気配がした。振り返ると、栗色の髪をポニーテールにまとめた女性が、彼と同じ問題集を開いている。
「あの...すみません」
美咲が恐る恐る声をかけると、蓮は顔を上げた。
「はい?」
「もしよろしければ、この問題を教えていただけませんか?どうしても理解できなくて...」
美咲が指差したのは、複素数の極限に関する問題だった。蓮の表情が少し和らぐ。
「あ、これですね。実は僕も今、同じところで詰まってたんです」
「え?数学科の方でも?」
「はい。数学って、一人で考えてると視野が狭くなることがあるんです。よろしければ、一緒に考えませんか?」
蓮の提案に、美咲の顔がぱっと明るくなった。
「ぜひお願いします!私、佐藤美咲です」
「高橋蓮です。よろしくお願いします」
二人は机を向かい合わせ、問題に取り組み始めた。蓮が丁寧に解法を説明し、美咲が文系ならではの発想で質問を投げかける。
「この『i』って、虚数単位ですよね?なんだか不思議です。存在しないはずの数なのに、計算に使えるなんて」
「そうですね。でも、虚数があるからこそ解ける問題もあるんです。まるで...」
蓮は一瞬言葉に詰まった。美咲の純粋な疑問に、数学の美しさを改めて感じていた。
「まるで?」
「まるで、見えない力が働いて、複雑な問題を解決してくれるみたいです」
美咲は微笑んだ。
「素敵な例えですね。私には数式は呪文みたいに見えるけれど、蓮さんが説明してくれると、まるで詩のように聞こえます」
蓮の頬が少し赤らんだ。
「詩、ですか...?」
「はい。『恋のエッセンス』を方程式に加えたら、どんな答えが出るんでしょうね?」
美咲の何気ない言葉に、蓮の心臓が高鳴った。
「それは...」
蓮は慌ててペンを握り直し、ノートに何かを書き始めた。
君 + 僕 = ?
「答えは未知数ですね」
美咲がその式を見つめ、くすりと笑った。
「でも、この方程式なら、一緒に解いてみたいです」
夕日が図書館の窓を染める頃、二人は複素解析の問題を解き終えていた。しかし、新たな方程式が彼らの前に現れていることに、まだ気づいていなかった。
恋の方程式は、答えを求めるほどに複雑になり、同時に美しくなっていく。
蓮と美咲の物語は、この春の午後から始まった。
「数学に正解は一つでも、恋には無限の解がある」
それから一週間後、蓮は図書館で美咲を待っていた。二人は約束を交わしていた─今度は美咲が苦手とする微分積分を一緒に勉強しようと。
「お疲れさまです!」
美咲が息を切らせながら駆け込んできた。手には缶コーヒーを二本持っている。
「遅くなってすみません。文学のゼミが長引いてしまって...」
「大丈夫です。僕もさっき来たばかりです」
嘘だった。蓮は約束の30分前から図書館にいた。美咲に会えることが楽しみで、いつもより早く家を出てしまったのだ。
「はい、これ。お疲れさまの気持ちです」
美咲が缶コーヒーを差し出すと、蓮の手が一瞬触れた。電気が走ったような感覚に、二人とも少し驚く。
「あ、ありがとうございます」
蓮は慌てて缶を受け取り、席に着いた。美咲も向かいに座る。
「今日は微分積分ですね。実は...」
美咲が申し訳なさそうに切り出した。
「実は、微分積分が何の役に立つのか、全然わからないんです。変化率とか面積とか言われても、日常生活でそんなこと考えないし...」
蓮は優しく微笑んだ。
「それ、とてもいい疑問だと思います。例えば...」
蓮はノートに曲線を描いた。
「この曲線を、美咲さんの心の動きだとしましょう。横軸が時間、縦軸が...えっと...」
「縦軸が?」
「...幸福度、でしょうか」
美咲の頬が少し赤らんだ。
「微分というのは、その瞬間の変化率を表します。つまり、美咲さんの幸福度が今、どのくらいの速さで上がっているか、下がっているかがわかるんです」
「なるほど...でも、幸福度なんて数字で表せるんですか?」
「数学的には表せます。でも実際は...」
蓮は少し考え込んだ。
「実際は、もっと複雑ですよね。人の心は方程式では表せない」
「蓮さんにしては、文系的な発言ですね」
美咲がくすりと笑うと、蓮も笑った。
「美咲さんと話していると、僕の固い頭も少しやわらかくなる気がします」
二人は微分の問題に取り組み始めた。美咲が解法に詰まると、蓮が丁寧に説明する。その繰り返しが、いつの間にか自然なリズムになっていた。
「あ、わかりました!」
美咲が突然声を上げた。
「この問題、答えは3x²ですね!」
「正解です」
蓮が嬉しそうに答えると、美咲は飛び跳ねるように喜んだ。
「やった!生まれて初めて微分の問題が解けました!」
その無邪気な喜びようを見ていると、蓮の胸が温かくなった。
「蓮さんって、教えるのが上手ですね。将来は先生になるんですか?」
「いえ、僕は研究者になりたいんです。純粋数学を極めて、まだ誰も知らない定理を発見したい」
「素敵ですね。私には想像もつかない世界です」
「美咲さんは、将来何になりたいんですか?」
「私は...」
美咲は少し照れながら答えた。
「小説家になりたいんです。人の心を動かすような物語を書きたくて」
「小説家...すごいですね。僕には文章を書くセンスがまったくありません」
「そんなことないと思います。蓮さんの説明を聞いていると、数式にも物語があるように感じるんです」
「物語、ですか?」
「はい。『xがyに向かって変化していく』とか、『関数fがaに収束する』とか、まるでドラマみたいです」
蓮は目を輝かせた。
「そんな風に考えたことがありませんでした。数学を物語として...面白いですね」
時計を見ると、もう図書館の閉館時間が近づいていた。
「今日はありがとうございました。おかげで微分が少し好きになりました」
「僕の方こそ、ありがとうございました。数学の新しい見方を教えてもらいました」
図書館を出ると、夜桜がライトアップされていた。
「きれいですね」
美咲がつぶやくと、蓮も空を見上げた。
「そうですね。でも...」
「でも?」
蓮は美咲を見つめた。桜の淡いピンクの光が、彼女の横顔を優しく照らしている。
「桜よりも、美咲さんの方がきれいです」
その言葉に、美咲の心臓が高鳴った。
「蓮さん...」
「あ、す、すみません!変なこと言って...」
慌てる蓮を見て、美咲は微笑んだ。
「変じゃないです。嬉しいです」
二人の間に、春の夜風が優しく吹いた。
数学の公式では表せない、心の変化率が確実に上昇していることを、二人とも感じていた。
ゴールデンウィークが明けた5月。蓮と美咲の勉強会は週2回のペースで続いていた。図書館の角の席は、いつの間にか二人の定位置になっている。
「今日は複素数の応用問題ですね」
蓮がテキストを開くと、美咲は少し浮かない表情をしていた。
「どうしました?何か心配事でも?」
「あ、いえ...実は昨日、友達に言われたことがあって」
美咲は俯きながら続けた。
「『美咲、最近数学科の男子と一緒にいるけど、大丈夫?理系男子って付き合いにくいよ』って」
蓮の表情が曇った。
「そう...ですか」
「違います!」
美咲が慌てて手を振った。
「私はそんなこと全然思ってません。ただ、蓮さんに迷惑をかけてないかな、って...」
「迷惑だなんて、とんでもない」
蓮は真剣な表情で美咲を見つめた。
「美咲さんと過ごす時間は、僕にとって何よりも大切な時間です」
二人の視線が交差した瞬間、気まずい沈黙が流れた。
「あ、えっと...複素数の話に戻りましょうか」
蓮が慌てて話題を変える。
「複素数って、実数部と虚数部から成り立っています。a + bi という形で表現されて...」
「蓮さん」
美咲が蓮の説明を遮った。
「今の私の気持ちも、複素数みたいに複雑です」
蓮の手が止まった。
「実数部は『蓮さんと一緒にいると楽しい』という気持ち。でも虚数部には『これって恋なのかな』という、まだよくわからない気持ちがあるんです」
美咲の言葉に、蓮の心臓が激しく鼓動した。
「美咲さん...」
「蓮さんは、どうですか?」
蓮は深呼吸をした。数学では論理的に物事を考えることができるのに、今は頭の中が真っ白だった。
「僕の気持ちも...複素数です」
蓮はノートに式を書いた。
僕の気持ち = 美咲さんへの想い + i × 不安
「不安、ですか?」
「はい。僕なんかが美咲さんの隣にいていいのか、わからなくて」
美咲は蓮の手に自分の手を重ねた。
「大丈夫です。複素数だって、実数部と虚数部が合わさって一つの数になるんですよね?」
蓮は頷いた。
「私たちの気持ちも、複雑だからこそ美しいのかもしれません」
その時、図書館に山田健太が現れた。数学科の同級生で、蓮の親友だ。
「よ、蓮!今日も勉強会か?」
健太は美咲を見ると、意味深な笑顔を浮かべた。
「君が佐藤さんだね。蓮からよく話を聞いてるよ」
「え?」
美咲が驚くと、蓮は真っ赤になった。
「健太!何を...」
「『美咲さんは本当に素敵な人で、一緒にいると心が安らぐ』とか、『彼女の笑顔を見ていると、微分方程式よりも複雑な気持ちになる』とか」
「健太!」
蓮が健太の口を塞ごうとするが、健太は楽しそうに続けた。
「あ、そうそう。『美咲さんに告白したいけど、どうやって気持ちを伝えたらいいかわからない』とも言ってたな」
図書館の静寂に、蓮の絶望的な声が響いた。
「健太...君という友人を持ったことを、深く後悔している」
美咲は目を丸くしていたが、やがてくすくすと笑い始めた。
「蓮さん、そんなこと思ってくれていたんですね」
「あ、あの、これは...」
「嬉しいです」
美咲の素直な言葉に、蓮は動きを止めた。
「私も、実は...蓮さんに特別な気持ちを抱いていました」
健太が「おお!」と小さく歓声を上げる。
「でも、どうやって伝えたらいいか分からなくて」
蓮と美咲は見つめ合った。
「僕たち、同じ方程式で悩んでいたんですね」
「そうみたいですね」
健太が咳払いをした。
「えー、この美しい数学的恋愛方程式の解を見届けたいところだが、僕は席を外そう」
健太が立ち上がりかけた時、蓮が声をかけた。
「健太、ありがとう」
「何が?」
「君のおかげで、勇気が出た」
蓮は美咲の方を向いた。
「美咲さん、僕と...」
「はい」
美咲が微笑みながら答える。
「僕と、一緒に恋の方程式を解いてみませんか?」
「はい。ぜひ、お願いします」
健太が小さくガッツポーズをした。
図書館の午後の陽だまりの中で、二人の恋の方程式がついに解かれた瞬間だった。
複素数のように複雑だった気持ちが、今はとてもシンプルに感じられた。
蓮 + 美咲 = 愛
「...って、初めて一つの数になるんですよね」
美咲の言葉に、蓮は小さくうなずいた。
「はい。a + bi も、それが '一つの存在' として定義されているように…僕たちの気持ちも、今は不完全でも、きっと一緒なら意味があるはずです」
二人は静かに笑い合った。
その日、複素数の応用問題は半分も解けなかった。でも、それ以上に大切な“答え”が、二人の間に確かに存在していた。
梅雨入りが近づく6月、雨音が静かに図書館の窓を叩く午後。蓮と美咲は、線形代数の課題に向かい合っていた。
「行列って、なんだか無機質ですね。数字がずらっと並んでて、息苦しくなります」
美咲が苦笑すると、蓮は優しく答えた。
「たしかに。でも、この数字の並びには意味があります。位置によって、全体の形や性質が変わる。たとえば…」
蓮はノートに2×2の行列を書いた。
| a b |
| c d |
「この4つの数字が、全体として何を表すかを決める。つまり、どの数字も欠けちゃいけないんです」
「まるで…」
美咲が呟く。
「まるで、人間関係みたいですね」
「え?」
「誰かがいなくなると、全体のバランスが崩れてしまう。たとえそれが小さな数字でも、大事な役割がある」
蓮はしばらく黙っていたが、やがて笑った。
「美咲さんの視点、やっぱり素敵です」
「ありがとう。でも…」
「でも?」
「私、蓮さんにとって、どんな位置にいるんでしょう」
一瞬の静寂が流れる。
蓮は、そっと自分のノートに書き足した。
| 美咲 僕 |
| 支え 想い |
「この行列が崩れないように、僕は努力します」
美咲は、ノートを見つめたまま、そっと微笑んだ。
外の雨は止み、雲間から少しだけ光が差し込んだ。
恋という名の方程式は、まだ途中式のまま。 けれど、確実にふたりは答えに近づいていた。
「行列が示すのは数だけじゃない。想いの重なりと、ふたりの距離。」