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第35話  佐藤さんと高橋くんの場合

春の陽光が差し込む大学の図書館。数学科3年の高橋蓮たかはしれんは、いつものように複素解析の問題集と格闘していた。黒縁眼鏡の奥の瞳は真剣そのもので、ペンを握る手は止まることを知らない。


「また解けない...」


蓮が小さくため息をついたその時、隣の席に誰かが座る気配がした。振り返ると、栗色の髪をポニーテールにまとめた女性が、彼と同じ問題集を開いている。


佐藤美咲さとうみさき─文学部2年。数学は苦手だが、教職課程のために数学の単位を取らなければならず、今日も図書館で悪戦苦闘していた。


「あの...すみません」


美咲が恐る恐る声をかけると、蓮は顔を上げた。


「はい?」


「もしよろしければ、この問題を教えていただけませんか?どうしても理解できなくて...」


美咲が指差したのは、複素数の極限に関する問題だった。蓮の表情が少し和らぐ。


「あ、これですね。実は僕も今、同じところで詰まってたんです」


「え?数学科の方でも?」


「はい。数学って、一人で考えてると視野が狭くなることがあるんです。よろしければ、一緒に考えませんか?」


蓮の提案に、美咲の顔がぱっと明るくなった。


「ぜひお願いします!私、佐藤美咲です」


「高橋蓮です。よろしくお願いします」


二人は机を向かい合わせ、問題に取り組み始めた。蓮が丁寧に解法を説明し、美咲が文系ならではの発想で質問を投げかける。


「この『i』って、虚数単位ですよね?なんだか不思議です。存在しないはずの数なのに、計算に使えるなんて」


「そうですね。でも、虚数があるからこそ解ける問題もあるんです。まるで...」


蓮は一瞬言葉に詰まった。美咲の純粋な疑問に、数学の美しさを改めて感じていた。


「まるで?」


「まるで、見えない力が働いて、複雑な問題を解決してくれるみたいです」


美咲は微笑んだ。


「素敵な例えですね。私には数式は呪文みたいに見えるけれど、蓮さんが説明してくれると、まるで詩のように聞こえます」


蓮の頬が少し赤らんだ。


「詩、ですか...?」


「はい。『恋のエッセンス』を方程式に加えたら、どんな答えが出るんでしょうね?」


美咲の何気ない言葉に、蓮の心臓が高鳴った。


「それは...」


蓮は慌ててペンを握り直し、ノートに何かを書き始めた。



君 + 僕 = ?



「答えは未知数ですね」


美咲がその式を見つめ、くすりと笑った。


「でも、この方程式なら、一緒に解いてみたいです」


夕日が図書館の窓を染める頃、二人は複素解析の問題を解き終えていた。しかし、新たな方程式が彼らの前に現れていることに、まだ気づいていなかった。


恋の方程式は、答えを求めるほどに複雑になり、同時に美しくなっていく。


蓮と美咲の物語は、この春の午後から始まった。



「数学に正解は一つでも、恋には無限の解がある」




それから一週間後、蓮は図書館で美咲を待っていた。二人は約束を交わしていた─今度は美咲が苦手とする微分積分を一緒に勉強しようと。


「お疲れさまです!」


美咲が息を切らせながら駆け込んできた。手には缶コーヒーを二本持っている。


「遅くなってすみません。文学のゼミが長引いてしまって...」


「大丈夫です。僕もさっき来たばかりです」


嘘だった。蓮は約束の30分前から図書館にいた。美咲に会えることが楽しみで、いつもより早く家を出てしまったのだ。


「はい、これ。お疲れさまの気持ちです」


美咲が缶コーヒーを差し出すと、蓮の手が一瞬触れた。電気が走ったような感覚に、二人とも少し驚く。


「あ、ありがとうございます」


蓮は慌てて缶を受け取り、席に着いた。美咲も向かいに座る。


「今日は微分積分ですね。実は...」


美咲が申し訳なさそうに切り出した。


「実は、微分積分が何の役に立つのか、全然わからないんです。変化率とか面積とか言われても、日常生活でそんなこと考えないし...」


蓮は優しく微笑んだ。


「それ、とてもいい疑問だと思います。例えば...」


蓮はノートに曲線を描いた。


「この曲線を、美咲さんの心の動きだとしましょう。横軸が時間、縦軸が...えっと...」


「縦軸が?」


「...幸福度、でしょうか」


美咲の頬が少し赤らんだ。


「微分というのは、その瞬間の変化率を表します。つまり、美咲さんの幸福度が今、どのくらいの速さで上がっているか、下がっているかがわかるんです」


「なるほど...でも、幸福度なんて数字で表せるんですか?」


「数学的には表せます。でも実際は...」


蓮は少し考え込んだ。


「実際は、もっと複雑ですよね。人の心は方程式では表せない」


「蓮さんにしては、文系的な発言ですね」


美咲がくすりと笑うと、蓮も笑った。


「美咲さんと話していると、僕の固い頭も少しやわらかくなる気がします」


二人は微分の問題に取り組み始めた。美咲が解法に詰まると、蓮が丁寧に説明する。その繰り返しが、いつの間にか自然なリズムになっていた。


「あ、わかりました!」


美咲が突然声を上げた。


「この問題、答えは3x²ですね!」


「正解です」


蓮が嬉しそうに答えると、美咲は飛び跳ねるように喜んだ。


「やった!生まれて初めて微分の問題が解けました!」


その無邪気な喜びようを見ていると、蓮の胸が温かくなった。


「蓮さんって、教えるのが上手ですね。将来は先生になるんですか?」


「いえ、僕は研究者になりたいんです。純粋数学を極めて、まだ誰も知らない定理を発見したい」


「素敵ですね。私には想像もつかない世界です」


「美咲さんは、将来何になりたいんですか?」


「私は...」


美咲は少し照れながら答えた。


「小説家になりたいんです。人の心を動かすような物語を書きたくて」


「小説家...すごいですね。僕には文章を書くセンスがまったくありません」


「そんなことないと思います。蓮さんの説明を聞いていると、数式にも物語があるように感じるんです」


「物語、ですか?」


「はい。『xがyに向かって変化していく』とか、『関数fがaに収束する』とか、まるでドラマみたいです」


蓮は目を輝かせた。


「そんな風に考えたことがありませんでした。数学を物語として...面白いですね」


時計を見ると、もう図書館の閉館時間が近づいていた。


「今日はありがとうございました。おかげで微分が少し好きになりました」


「僕の方こそ、ありがとうございました。数学の新しい見方を教えてもらいました」


図書館を出ると、夜桜がライトアップされていた。


「きれいですね」


美咲がつぶやくと、蓮も空を見上げた。


「そうですね。でも...」


「でも?」


蓮は美咲を見つめた。桜の淡いピンクの光が、彼女の横顔を優しく照らしている。


「桜よりも、美咲さんの方がきれいです」


その言葉に、美咲の心臓が高鳴った。


「蓮さん...」


「あ、す、すみません!変なこと言って...」


慌てる蓮を見て、美咲は微笑んだ。


「変じゃないです。嬉しいです」


二人の間に、春の夜風が優しく吹いた。


数学の公式では表せない、心の変化率が確実に上昇していることを、二人とも感じていた。


ゴールデンウィークが明けた5月。蓮と美咲の勉強会は週2回のペースで続いていた。図書館の角の席は、いつの間にか二人の定位置になっている。


「今日は複素数の応用問題ですね」


蓮がテキストを開くと、美咲は少し浮かない表情をしていた。


「どうしました?何か心配事でも?」


「あ、いえ...実は昨日、友達に言われたことがあって」


美咲は俯きながら続けた。


「『美咲、最近数学科の男子と一緒にいるけど、大丈夫?理系男子って付き合いにくいよ』って」


蓮の表情が曇った。


「そう...ですか」


「違います!」


美咲が慌てて手を振った。


「私はそんなこと全然思ってません。ただ、蓮さんに迷惑をかけてないかな、って...」


「迷惑だなんて、とんでもない」


蓮は真剣な表情で美咲を見つめた。


「美咲さんと過ごす時間は、僕にとって何よりも大切な時間です」


二人の視線が交差した瞬間、気まずい沈黙が流れた。


「あ、えっと...複素数の話に戻りましょうか」


蓮が慌てて話題を変える。


「複素数って、実数部と虚数部から成り立っています。a + bi という形で表現されて...」


「蓮さん」


美咲が蓮の説明を遮った。


「今の私の気持ちも、複素数みたいに複雑です」


蓮の手が止まった。


「実数部は『蓮さんと一緒にいると楽しい』という気持ち。でも虚数部には『これって恋なのかな』という、まだよくわからない気持ちがあるんです」


美咲の言葉に、蓮の心臓が激しく鼓動した。


「美咲さん...」


「蓮さんは、どうですか?」


蓮は深呼吸をした。数学では論理的に物事を考えることができるのに、今は頭の中が真っ白だった。


「僕の気持ちも...複素数です」


蓮はノートに式を書いた。



僕の気持ち = 美咲さんへの想い + i × 不安



「不安、ですか?」


「はい。僕なんかが美咲さんの隣にいていいのか、わからなくて」


美咲は蓮の手に自分の手を重ねた。


「大丈夫です。複素数だって、実数部と虚数部が合わさって一つの数になるんですよね?」


蓮は頷いた。


「私たちの気持ちも、複雑だからこそ美しいのかもしれません」


その時、図書館に山田健太が現れた。数学科の同級生で、蓮の親友だ。


「よ、蓮!今日も勉強会か?」


健太は美咲を見ると、意味深な笑顔を浮かべた。


「君が佐藤さんだね。蓮からよく話を聞いてるよ」


「え?」


美咲が驚くと、蓮は真っ赤になった。


「健太!何を...」


「『美咲さんは本当に素敵な人で、一緒にいると心が安らぐ』とか、『彼女の笑顔を見ていると、微分方程式よりも複雑な気持ちになる』とか」


「健太!」


蓮が健太の口を塞ごうとするが、健太は楽しそうに続けた。


「あ、そうそう。『美咲さんに告白したいけど、どうやって気持ちを伝えたらいいかわからない』とも言ってたな」


図書館の静寂に、蓮の絶望的な声が響いた。


「健太...君という友人を持ったことを、深く後悔している」


美咲は目を丸くしていたが、やがてくすくすと笑い始めた。


「蓮さん、そんなこと思ってくれていたんですね」


「あ、あの、これは...」


「嬉しいです」


美咲の素直な言葉に、蓮は動きを止めた。


「私も、実は...蓮さんに特別な気持ちを抱いていました」


健太が「おお!」と小さく歓声を上げる。


「でも、どうやって伝えたらいいか分からなくて」


蓮と美咲は見つめ合った。


「僕たち、同じ方程式で悩んでいたんですね」


「そうみたいですね」


健太が咳払いをした。


「えー、この美しい数学的恋愛方程式の解を見届けたいところだが、僕は席を外そう」


健太が立ち上がりかけた時、蓮が声をかけた。


「健太、ありがとう」


「何が?」


「君のおかげで、勇気が出た」


蓮は美咲の方を向いた。


「美咲さん、僕と...」


「はい」


美咲が微笑みながら答える。


「僕と、一緒に恋の方程式を解いてみませんか?」


「はい。ぜひ、お願いします」


健太が小さくガッツポーズをした。


図書館の午後の陽だまりの中で、二人の恋の方程式がついに解かれた瞬間だった。


複素数のように複雑だった気持ちが、今はとてもシンプルに感じられた。




蓮 + 美咲 = 愛


「...って、初めて一つの数になるんですよね」


美咲の言葉に、蓮は小さくうなずいた。


「はい。a + bi も、それが '一つの存在' として定義されているように…僕たちの気持ちも、今は不完全でも、きっと一緒なら意味があるはずです」


二人は静かに笑い合った。


その日、複素数の応用問題は半分も解けなかった。でも、それ以上に大切な“答え”が、二人の間に確かに存在していた。




梅雨入りが近づく6月、雨音が静かに図書館の窓を叩く午後。蓮と美咲は、線形代数の課題に向かい合っていた。


「行列って、なんだか無機質ですね。数字がずらっと並んでて、息苦しくなります」


美咲が苦笑すると、蓮は優しく答えた。


「たしかに。でも、この数字の並びには意味があります。位置によって、全体の形や性質が変わる。たとえば…」


蓮はノートに2×2の行列を書いた。


| a b |

| c d |


「この4つの数字が、全体として何を表すかを決める。つまり、どの数字も欠けちゃいけないんです」


「まるで…」


美咲が呟く。


「まるで、人間関係みたいですね」


「え?」


「誰かがいなくなると、全体のバランスが崩れてしまう。たとえそれが小さな数字でも、大事な役割がある」


蓮はしばらく黙っていたが、やがて笑った。


「美咲さんの視点、やっぱり素敵です」


「ありがとう。でも…」


「でも?」


「私、蓮さんにとって、どんな位置にいるんでしょう」


一瞬の静寂が流れる。


蓮は、そっと自分のノートに書き足した。


| 美咲 僕 |

| 支え 想い |


「この行列が崩れないように、僕は努力します」


美咲は、ノートを見つめたまま、そっと微笑んだ。





外の雨は止み、雲間から少しだけ光が差し込んだ。


恋という名の方程式は、まだ途中式のまま。 けれど、確実にふたりは答えに近づいていた。



「行列が示すのは数だけじゃない。想いの重なりと、ふたりの距離。」






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