小学5年生の夏だったか。
学校行事の一環として、学年全員でキャンプをした事があった。
みんなで協力してカレーを作るという一大イベントを終え、待ちに待った夕食だ、と不恰好なジャガイモをすくい上げたところで「慎三郎、一緒に食べよう」と穂乃果が僕の隣にやって来た。
「うん、いいよ」
特に断る理由もないので、その申し出を受ける僕。
そんなやりとりを、丸太で作られた木製テーブルの向側で見ていたクラスメイトの一人が、面白おかしく騒ぎ立てた。
「何だよお前ら、夫婦みていじゃん! ケッコンしてんじゃねーの? ケッコン、ケッコン!」
呆気に取られる僕だったが、穂乃果はというと心底不思議そうに、そして多分に憐れみを含んだ目でそのクラスメイトを見やり、言った。
「あのさ、今日本では男は18歳以上、女は16歳以上じゃないと結婚できないんだけど、知らないの?」
穂乃果の性格的に、煽ってるわけではないのだろう。相手の無知をただ純粋に指摘しているだけにすぎない。そんな事も知らないなんてバカじゃないの、という侮蔑の感情も当然含んでいるだろうが。
「は!? いや! 知ってるし! 俺はそう言う事を言ってるんじゃねーから!」
「知ったかぶりは恥ずかしいから、やめた方がいいよ」
「ちげーよ! 俺はお前らが男と女なのに仲良くしてっから、恥ずかしい奴らだって思ったの!」
「私のお父さんとお母さん、男と女なのに仲良いよ。君のうちはそうじゃないんだ……。大変だね」
「そんな事ないし! うちのパパとママも仲良いし!」
「あ、パパとママって呼んでるんだ。美咲ちゃん(穂乃果の友達だろう)と一緒だね。かわいいね」
「うわああああ」
何だか噛み合わない二人の会話を聞きながら、空腹にたえられなかった僕は、すでにカレーの三分の一を食べ終えていた。
あの時のカレーは、何だか妙に甘かった。
△
バーベキューグリルの中では、やっと火のついた備長炭が、熱を発し続けている。
備長炭は正方形のグリルの角に二つの山を形成している。その上に網が敷かれ、山の片方に鍋、もう片方にはナンが置かれている。
鍋の中はもちろんカレーだ。なんとなくそれっぽい食材をぶち込み、カレースパイスを投入してひたすら煮込んだ、究極のカレーだ。
ご飯を炊くのは面倒なので、今回はスーパーで買ったナンを炭火で炙って食す事にした。その選択が、むしろ本場っぽい雰囲気を醸し出している。ナンの上にちょっぴりバターを乗せるとなんとも芳しい匂いが漂う。
100均で買ったシェラカップにカレーを注ぎ入れる。ぶち込んでいた鶏の手羽元は、お互い同じ数に分けないと不要な争いの火種となるため、細心の注意を払わねばならない。ナンを千切ってカレーに浸し、口へと運ぶ。
熱が口の中で赤く爆ける。
それは次第に、スパイスの後引く刺激へと姿を変え、その後ろから顔を出すのは、数多の食材が産み出す複雑な旨味。
ダメ押しで、ビールを流し込む。
「ーーーーーーーー!」
「ーーーーーーーーーーーー!」
顔を見合わせ、声にならない会話を繰り広げながら、僕たちはナンとカレーを貪った。
肉体労働の疲労により、身体が肉と、脂と、塩分と、アルコールを求めている。
日常生活においては何処かでリミッターをかけなければならないそれらの欲求だが、今日は、今夜は、このキャンプの夜だけは、正常な判断力は焚き火に焼べてしまって構わない。
ナンはあっという間に食べ尽くされた。
しかし、ここで終わりではない。
カレー鍋に鰹出汁の麺つゆを注ぎ入れ、冷凍うどんを2玉投入。
ナンを焼いていた側の網で焼肉を楽しみながら待っていると、出汁とカレーの混ざり合った芳香が、グツグツと噴き上がってくる。
「カレーうどん完成!」
右手の親指を立て、ウインクする穂乃果。
「うおお! 満を持して、ガツガツ食おう!」
僕も右手の親指を立てる。
熱々のカレーうどんは、一本啜るだけで熱と旨味が口一杯に広がる。コシのあるうどんは二、三回嚙み切り、後は胃へと流し込む。喉を抜けるうどんの感覚が、暴走する食欲を除去に満たしていく。
冷凍うどんを開発してくれた企業に、ぼくは感謝状を送りたい。
この味、この食感は当然として、冷凍で保存が容易い上、正方形の形状はクーラーボックスの底に綺麗に収まり、保冷剤の代わりとしても活用できる。
まさに神の作りし聖具だ。
カンダタの掴んだ蜘蛛の糸、化身と崇められる白い蛇ーー
白くて長いものは、神がかりで尊い物と古今東西決まっているのである。
椅子にもたれかかり、僕は夜空を見上げた。
ランタンの明かりの向こう側で、夜空に星が散りばめられている。
カレーのスパイスみたいだな、と僕は思うのだった。
△
夕食を終え、炊事場で食器を流せば、後はのんびり自由時間である。
ランタンの光の下でできる事であれば、何をやったって咎められる事はない。そりゃ、大声で騒ぐような輩は咎められてしまうだろうが、幸いな事にそう言った類の方々はいらっしゃらないようだ。
初めて使うガスランタンの光量を神経質に調整し、僕は持参したガンプラの箱を開けた。流石に塗装や墨入れは出来ないが、やすりがけくらいは出来るだろう。パーツの合わせ目に出来てしまう隙間は、接着剤で溶接し、はみ出た部分をやすりがけする事で、綺麗に消す事ができる。
キャンプに来てまでプラモ、と思う人もいるかもしれない。
しかし、シチュエーションを代わり映えしない部屋から屋外に移すだけで、全ての事柄が別の何かに生まれ変わる。
川上君が「他人に迷惑さえかけなければ、何をするのも自由」と言っていた。
プラモを作る人、本を読む人、みんなでカードゲームをやる人、ただ黙々と肉を焼いて食べる人、延々と酒を飲む人、スマホでゲームをする人、煙草をふかす人。
多分このキャンプサイトの各所で、各々が自身の喜びを追求しているのだろう。
穂乃果は持参した漫画を読んでいる。
焚き火の揺れる火が陰影を作り、真剣にマンガを読む穂乃果の目の、その長いまつ毛を際立たせている。
不意に、スマホの着信音がなった。
穂乃果が膝の上に置いていたスマを拾い、画面を操作する。
その表情が、一瞬、困惑に染まった気がした。
ん? 僕が表情の変化に気づいた次の瞬間には、また元のマンガを読む真剣な表情に戻っていた。
気のせいだろうか。
「何、こっち見てんの?」
「あ、いや、悪い。何でもない」
「ならいいけど。何作ってんの?」
「えっと、1/144のEz-8」
「何それ?」
「08小隊に出てきた陸戦型ガンダムの改修機体というか」
「あー、なるほど、全然わからない事がわかった」
「野外ってシチュエーションがピッタリの機体だから、今後キャンプの時専用で作ろうと思って」
「うん、意味わからん」
「そっちは何読んでんの?」
「え、カイジ」
「カイジなんだ」
「うん、カイジ」
「へー」
「何よ」
「なんか、女でマンガのカイジ読む人っているんだな。実写映画は見てる人多いと思うけど」
「そりゃいるでしょ。そういう男女差別的な発言は良くないよ」
「そっすね」
やはり気のせいかもしれない。
いつもの穂乃果だ。
そして、二人での初キャンプの夜は更けていくのだった。