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第二章⑥


《 丘の向こうの宝物

  あなたとの出会いを祝福して

  一緒に手を握りましょう

  同じ道を歩きましょう    》


 悠都のように、甘く高い音色は出せない。


「満砕の低い音は落ちついていて、耳に良く届くから好きだ」


 立憐の言葉には嘘偽りはなかった。


 今も立憐は満砕の膝の上に頭を置いて、目を瞑っている。長椅子にだらりと四肢を投げ、すっかりくつろいでいる。歌を聞き入ってくれている姿に、こちらも安心して歌い続けられた。


 最後の節まで歌い終わると、立憐は部屋に響いた音にまで耳をそばだてている。目は閉じられたままだ。


 ゆっくりと紫色の目を見開いて、満砕を下から見上げてくる。しばらくぼうっとしていた立憐に「満砕」と呼びかけられた。


 頭をなでながら、「どうした?」と穏やかに聞き返す。


「何か、気になることでもあるの?」


 その問いに、満砕はどきりとした。察しの良い立憐にばれなかっただろうか。


 満砕は表には一切感情の揺れを出さないよう気をつけながら、いつも通りを演じて返す。


「何にもないけど?」


「そう……なら良いのだけど」


 立憐はときどきこのように予見めいたことを言う。巫子の力が何か作用しているのかと思ったが、単に満砕の微々たる言動の変化を見抜いているだけだろう。


 満砕も、立憐の変化を逐一見抜く芸当は身につけている。お互い様だな、と笑うしかない。


 それ以上、立憐が言及してくることはなかった。


 流伽から聞かされた反巫子派のこと。


 首謀者が宮廷の上位者である斉丞相であること。


 懸念が頭の中に渦巻いていたせいで、立憐にまで動揺が伝わってしまったのだろう。わざわざ話題に出してまで、立憐の心まで乱す必要もないと黙っていた。


 嘘とはいかないまでも、これ以上気にかけさせたくはない。立憐は今でさえ、巫子としての立場で精一杯なのだから。


 満砕の高めの体温が温かったのか、立憐のまぶたは次第に閉じられていった。何度も開けようとあがく姿に、思わず笑みが込みあげる。眠ってもいいのだと伝えるように髪をすいてやる。まぶたは完全にくっついて、そのうちに小さな寝息が聞こえてきた。


 頭を持ちあげ、膝の下に手を入れる。子どもの体は軽く、苦もなく簡単に持ちあげられてしまう。起こさないよう、起こさないよう気をつける。ゆっくりと歩を進め、寝室に向かった。羽毛のように軽い体を、上質な寝台の上に乗せる。


 胸が上下するのを見て、安堵してその場を離れた。


 巫子の私室を出たところで、こちらに向かってくる吏安の姿を目に留めた。せっかく穏やかに昼寝ができた立憐に用だろうか。


 近づくにつれて、吏安が面の下で固い顔をしていることに気づく。


「巫子様は?」


 簡潔に尋ねられ、たった今眠ったばかりだと伝えた。


 すると吏安は固い顔のまま「ちょうど良かった」と言った。


「巫子様のお耳には入れたくはなかったので」


「……何か良くないことでも?」


「あなたにお客様がいらしています」


「俺に?」


 巫子の護衛兵に用のある人間がいるのだろうか。夏陀だろうか、と思考をやって、それならば吏安がこれほど難しい顔をしている意味が分からない。


 吏安は短く息を吐いてから答えを言う。


「斉丞相が、あなたにお会いしたいそうです」


 応接間にいると伝えられる。そのときの自分の顔が随分と険しかったからか、吏安も同様に苦い顔を濃くさせた。


 吏安に立憐を頼み、すぐさま応接間に向かう。


 ――なぜ俺のところに……?


 頭の中には疑問ばかりが浮かんでくる。


 満砕が斉丞相と相まみえたのは、巫子と丞相の謁見のときだけだ。あの場に同席したのだから、当然ながら斉丞相が満砕の存在を知っていてもおかしくはない。


 だが、なぜわざわざ名指ししてまで会おうとするのか。満砕はただの巫子専属の護衛兵だ。満砕の価値はそれだけである。


 つまり、斉丞相が求めているのは、巫子専属の護衛兵ということになる。


 流伽の言葉がよぎった。


 反巫子派。


 立憐の立場を危うくする派閥の首謀が、すぐそばまでやって来ている。


 満砕は気持ちを落ちつけるように大きく息を吐いて吸ってから、応接間の扉を叩いた。


「入りたまえ」


 まるでこの部屋の、もしくはこの神殿の主であるかのような返答に、わずかな苛立ちが生まれる。最初からこの調子ではいけないとかぶりを振って、声を上げてから入室した。


「斉丞相にお目通りいたします。巫子護衛兵の瓏満砕と申します」


 拱手をして待つと、斉丞相は体勢を直すことを許可するため、片手を上げた。


 顔を上げた先には、優雅に椅子に腰かけている斉丞相の姿があった。長い髭を見せつけるようになでている。狡猾そうな笑みを浮かべ、見下す目を隠そうともしない。


 何から何まで鼻につく野郎だ、と内心で思いながら、無表情のまま口を開いた。


「何か御用でしょうか?」


「まあ固くなるな。そこに座りなさい」


「いえ、自分は一兵卒なので」


 固辞すると、斉丞相は二度も進めてはこなかった。彼もまた、同じ目線で話をするつもりは最初からなかったのかもしれない。


 扉の前に陣取って、満砕は話を聞く姿勢を取った。


「おまえは巫子制度についてはどこまで知っている?」


 高圧的な口調で、斉丞相は切りだした。


 斉丞相の意図を計れないため、満砕は当たり障りのない答えをする。


「一般的に民が知らされている情報までです」


「ふむ。巫子制度とは、当代の巫子が就くまで、およそ六百年以上前に制定された国防制度だ」


 その年月の長さに、満砕は一瞬気圧されそうになった。


 ――六百年。そんなに長いこと、巫子たちは……。


 国のために、民のために、守り続け――死んでいったのか。


 息を呑んだ満砕には関心を向けず、斉丞相は語り続ける。


「その間、八十一人の巫子たちが結界を張り、献栄国を護ってきた。巫子は死ぬ前に、次代の巫子を選定する。その巫子を迎え、また国を護る結界を張る。その繰り返しにより、献栄国は繁栄してきたのだ」


 六百年の間に八十一人の巫子。それは同義として、八十一人の生贄だった。


 立憐は八十二人目の巫子だ。犠牲者を増やさないことを祈り、献栄神に祈り、献栄国を護っている。


 熱に浮かされるような、真冬の外に投げだされたような、途方もない心地に陥った気分だった。頭がひどく痛い。耳鳴りが遠くの方で鳴っている。


 反して、斉丞相は平然としている。はてしない数を口にしても、統計を発表しただけのように。「だがな」と重苦しい声音を演じて斉丞相は続ける。


「そもそも、たった一人の民に国の防衛を一任するなど、おかしいとは思わんかね」


 さももっともらしいことを言う。満砕が何も知らないと思っている。


 内情は、長く在任している立憐が邪魔になっただけだろうに。


 国を護るための結界を張るたびに、巫子は力を使い、いずれ力尽きてしまう。今までも六百年間、八十一人の巫子が誕生した。その誰もが十年と生きられず、国のために死んでいった。だからこそ、宮廷もわざわざ巫子を政治にかかわらせることはなかった。だが、今代の巫子は違う。


 神殿の頂点に立つ巫子――立憐を、斉丞相は扱いにくく感じている。

ゆえに、新たに別の巫子を樹立したい。斉丞相が後ろ盾となることで、神殿の力さえも握ろうとしているのだ。


 おまえの目論見はすべてお見通しだと、非難できたならどれほど良かっただろう。立憐を護る立場が、満砕の理性を繋ぎとめていた。


 満砕の反応が芳しくなかったからか、斉丞相は不満げに口を曲げた。


 あなたこそ自分の味方だと、歓喜に震える演技でもすれば良かったのだろうか。


 斉丞相は不満げな顔をそのままに口を開く。


「おまえは当代巫子の幼馴染だと聞いた。昔馴染みが成長もせず、国の傀儡となって生き続けているのは、いったいどんな心地か。おまえは、友を助けたいとは思わんのかね?」


 誰よりも、満砕は立憐を救うことを望んでいる。


 ――おまえに何が分かる!


 そう、叫んでしまいそうだった。後ろ手に組んだ腕をぎゅっと握りこむ。耐えろ、と自分に言い聞かせた。


「巫子の座から、友を解放してやるのだ。おまえの手で、友を救ってやるのだ」


 斉丞相が満砕にさせようとしていることを、ようやく理解した。


 立憐を巫子の立場から解放するため、満砕に手をかけろと言っているのだ。巫子に最も物理的距離が近い護衛兵にならば、それが可能だから。


 ――おまえは、献栄国の丞相でいながら!


 内心の怒りに呼応するように斉丞相は言ってのける。


「当代巫子が亡くなったところで、また新しい巫子が現れる。探すのには苦労するだろうが、当代巫子に死ぬ前に居場所を聞けば良い。その説得はおまえに任せよう」


 この汚い口を塞ぎたい。そのためならば、満砕は手を血で汚すこともできる気がした。


 優しい立憐が巫子の責任から解放される代わりに、ほかの子どもを犠牲にするわけがない。満砕もまた、友にそのような酷な選択をさせるつもりはない。


 そして、満砕が立憐を殺すなんて、そのような悪夢はあっていいはずがない。


 怒りでふらつく頭を抑える。斉丞相にどう思われようと、今は行動を起こさないようにするので限界だった。


 満砕は黙っていることに斉丞相が訝しげな視線を向けてくるのが分かった。


 前髪を乱暴にかき上げ、眉間にしわを寄せて声を上げた。


「あなたはなぜそんなにも力にこだわるんですか?」


 声はわずかに震えていた。音を外に出すことで、感情の波が止まらない。


「立憐が、巫子たちが、今までの献身的に、国のために仕えてきたのを、あなたは――!」


 怒りのままに飛びだしていく言葉が、最後の冷静さが押しとどめた。冷静に分析した、斉丞相の本質は――。


「あなたは、どうでも良いんですね」


 自分以外、何もかもどうでも良いからこそ、巫子に対しても国に対しても非道でいられるのだ。


「国の未来も、安寧も、どうでも良いんだ。自分の生きている今が満足できれば、それで……」


 斉丞相は目もとを弓なりにゆがめる。


「人間なんてものは総じて身勝手だと思うが?」


 粘ついた笑みに、満砕の中で嫌悪感が走った。


 凍りついた満砕を見て、斉丞相は愉快そうに笑い声を上げた。


「私はね、自分がしたいことをするのだよ。最初はね、力を欲した。だから丞相にまで上りつめた。その先を目指そうとした。道中に巫子という邪魔者が立ちはだかった。ならば、それを排除するだけではないかね?」


 同じ人間とは思えなかった。満砕とも、立憐とも違う。


 強欲の化け物だ。斉丞相ほどの自分本位な人間に、権力を与え、野放しにして良いはずがない。


 震える喉を、唾を呑みこむことで抑え、満砕は斉丞相をにらみつけた。


「あなたの考えは分かりました。俺は立憐を救いたいし、死があいつを助けられる唯一の道だって思考も、なかったわけじゃない」


 だけど、と即座に、力強く満砕は続けた。


「俺が巫子様を蔑ろにすることは絶対にありません」


 立憐は死にたいわけではない。巫子でいることを受けいれている。


 それほどにも覚悟を決めた立憐を、満砕が自分の気持ちを優先して終わりにして良いはずがない。


 斉丞相は満砕にらみをまっすぐと捉えた。そして、不快そうに長い吐息をもらす。


「やはり平民風情か」


 満砕を取りこむことは不可能と悟った斉丞相は、椅子から立ちあがった。満砕を一瞥することもなく、声をかけることもなく、応接間から出ていった。すでに護衛兵など用済みだと言うように。


 怒りに満ちていた頭は段々と冷めていく。何かに容赦なく八つ当たりしたい気分だった。攻撃的な思考に陥っているのを自覚して、満砕は目もとを覆った。


 感情が高ぶりすぎて、無性に泣きたかった。


 立憐の穏やかに眠りについた顔を思いだす。ただ安心して眠れる場所にいてほしい。それだけの、たったそれだけの願いなのに。


 その願いは、はるか遠くの、はてしない夢だった。








 護衛を強化する案を練っていたときの、突然の訃報だった。


 立憐の父、亞侘が病死したという。


 定期的に交わしていた優蘭からの文が遅いことを心配して文を送り、その返信が亞侘の死を知らせるものだった。


 自室で文を開け、満砕は呆然と立ち尽くす。頬を伝っていく涙を、ぬぐう余力さえない。悲しみと、それに覆いかぶさるかのような動揺が押し寄せてくる。


 どう、立憐に伝えろというのか。死に目に会うこともできず、母に寄り添ってやることもできない。行き場のない消沈を彼に負わせるのは酷だ。


 乱暴に涙を手の甲でぬぐった。泣いたことを、立憐に悟られるわけにはいかない。満砕は急いで顔を洗うと、鏡で念入りに目の充血がないかを確認した。

気落ちを隠して、呼吸を落ちつかせてから立憐の待つ奥の間に向かった。


「満砕、どうしたの?」


 満砕は亞侘の死を言わないことを選んだ。しかし、友の目は欺けない。立憐はすぐに満砕の不調を見破った。


「体調がよくないの?」


 添えられた手が満砕の頬を優しくなでる。元から気持ちを我慢することが苦手だ。抑えこんでいた悲しみは、勝手にふたを開けて噴きでてきてしまう。


「どうして泣いてるの?」


 立憐の変化のない顔を見つめながら、満砕はただ一言「ごめん」と告げる。何一つ知らないはずが、立憐ははくっと息を呑んだ。


「……そう」


 それだけをつぶやき、立憐はすべてを悟った瞳をした。


「少し……一人にしてくれないか」


 立憐は自分の体を抱えこむように抱き寄せると、小さな声でそう言った。その声に温度はなく、悲しさよりも困惑が強く現れている。


 満砕は涙を裾でぬぐうと、奥の間の外に出た。本当は立憐を一人にしたくはない。一人で抱えこまないでほしい。そう言えたなら、どれほど楽だっただろうか。


「満砕殿、巫子様は……」


「今は、一人にしてやってくれ」


 茶杯を運んでやってきた吏安に、奥の間の扉の前に座りこんだ満砕は伝えられる言葉が思い浮かばなかった。


「巫子様はだいぶ人間らしくなられましたね」


 何か察する部分があったのか、吏安は静かにそう言った。床に盆を置き、丁寧に茶杯を扱って、まだ温かい茶を注ぐ。黄金色の液体が銀杯にゆるやかに落ちていき、水面を揺らした。


「……そう見えるか」


「ええ。満砕殿がいらしてから、巫子様は楽しそうにされています」


 茶杯を渡され、拒否する必要もないため受けとる。温かい器の熱はじんわりと広がり、体温になじんでいく。茶の中に、自分の情けない顔が映っていた。


 悲しさを、教えたくはなかった。寂寥から無縁の場所で、笑っていてほしかっただけだった。泣き方さえも忘れてしまった友に、もどかしさを知ってほしかったわけではなかったというのに。


「ままならないな」


「それもまた人生であり、神が与えられた試練かもしれませんよ」


 吏安が信者でもない満砕に、神官らしいことを言うのは稀だった。


 神がいなければ、立憐が巫子になることはなかった。神を怨めしく思っても、吏安を責めるのは筋違いだと分かっていて、苦笑をこぼす。


「立憐が解放される日は来るんだろうか」


 立憐が巫子の役目を終えるということは……と考え、その先を考えたくはない。その先に未来は存在しないと痛いほど分かっている。もし、奇跡が起きて、立憐のほかに巫子が生まれ、巫子の任を解かれたら立憐は神殿を出るだろうか。


 それもまた、あり得ない。


 立憐は自分の苦しみを、ほかの子どもが味わうことをよしとしない。立憐とは、心優しく自己犠牲的な人間なのだ。


「嬉しい、腹立たしい、悲しい……あといくつ感情に名をつければ、立憐は生きやすくなるだろう」


 茶の湯気が段々と消えていく。温度もぬるくなって、手のひらだけが温かい。


 生きていてほしいと願うのは、満砕の身勝手な願望なのかもしれない。生を終えた方が立憐は安らかに眠れる。そう考えずにはいられない満砕は、ただただ立憐の笑顔を願っていた。




 満砕が巫子の護衛に就いてから、およそ二年が経過していた。


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