麗らかな春の風は空の上にも吹いている。周りの人間たち、僕と同じ新任操縦士たちはあちらこちらを伺うように見ては頬を赤らめている。足元に目を遣れば今にも駆け出しそうだ。
一方、白線の向こう側から僕たちに微笑んでいる者たちがいる。自律型戦闘人形だ。人形はどれもこれも精巧に作られた美術品のように美しい造形をしている。
新任操縦士たちは人形を目の前にして浮き立つ気持ちを抑えきれない様子だ。当たり前か。今から搭乗する自律型戦闘人形を選ぶのだから。
自律型戦闘人形は公私にわたるパートナーだ。妥協したくないと考えるのが当然だろう。
けれど、僕は周りのように気持ちが浮わつかない。むしろ気が重い。喉がつかえてしまう。
司令官の号令と共に新任操縦士たちはそれぞれ意中の自律型戦闘人形のもとへ走り出す。
僕にはそれができなかった。
迷っているからではない。迷えるほど興味を抱けないからだ。僕にとって搭乗機は道具でしかない。道具は使えればいい。好みなんてない。。
気づけば周りには誰もいなくなっていた。そろそろ搭乗機を選ばないと上官たちが疑いを持ちかねない。この期に及んで思惑に気づかれる訳にはいかない。ぎこちなく見えないように意識して歩を進める。けれど、違和感を隠せずに歩けない。
たかが道具を選ぶだけ。簡単な選択だ。なのに人間に似せた顔が付いているせいで選択が重く感じる。
いけない。冷淡にならなくては。
すると背の高い男性型の人形が僕に向かって歩いてきた。僕の様子を見かねたのだろう。
人形は僕の目の前で立ち止まる。そして不思議そうに小首を傾げた。人形は西洋の神様の彫像のように美しい相貌をしている。
「きみはどの機体にも興味がないのか」
問題なく戦えるならどれでもいい。思ったままを答えると人形は瞼を伏せた。長い睫毛が人形の顔に影を作る。
「ならば、私でも構わないか」
人形は目の前で跪いた。それは新任操縦士が人形を選ぶ際に行う儀礼。立場が逆だ。
人形は戸惑う僕を気に留めず、僕の手の甲に口づけた。これじゃあ古い西洋の恋愛映画の真似事だ。
芝居がかった動作に呆れてしまう。けれど、僕は人形が行う真似事を拒む理由を持っていない。
「分かった。応じるから、もう、いいだろう」
手を振り払うと人形は顔を上げて微笑んだ。身震いするほど美しい。
僕の目論見を知ったら人形はどんな表情を浮かべるのだろう。そう考えたら胸の奥がわずかに痛んだ。
「私の個体名はアーテルという。きみの名前は」
「……真白」
「マシロ。これからよろしく頼む」
苗字は言わなかった。伝えたら家の力が、規定年齢より若く操縦士になった事実が知れてしまう気がしたから。
幸いアーテルと名乗る人形は伝えた以上には追求しなかった。呼称する名前を必要としていただけのようだ。
「では、パートナー認証を行おう。手を私の胸元に」
再び手を取られる。ホログラフィが現れて行動指示の音声が流れる。
『新規登録開始。操縦士と操縦機、両者の掌を合わせてください』
掌を合わせる。二回り以上に大きさが違う。男性型の自律型戦闘人形は手足が大きめに設計されているとは知っている。それにしても大きさの差を思い知らされる。僕の手を容易く捻ってしまえる程だ。
なんて考えているうちに僕とアーテルの指は絡み合っている。まるで恋人同士のようだ。
「掌を合わせるだけじゃないのか」
僕が過度の接触に対する不満を訴えるとアーテルは首を傾げた。
「何か不足があるだろうか」
「逆だ。指を絡ませるのは過剰じゃないのか」
僕の訴えにホログラフィの音声案内が割り入った。
『承認しました。両者の掌を離してください』
音声案内が手を離すように指示をしてもアーテルは絡めた指を解こうとしない。
「もう承認された。手を離してくれ」
ようやくアーテルは僕の手を離した。
「それじゃあ、僕はこれで。明日からよろしく」
小さく会釈をして踵を返し、廊下を走り出す。心臓が高鳴ってしまう。不可解だ。。
「よろしく頼むよ。マシロ」
アーテルはしばらく手を振っていた。僕が私室のドアを閉めるその瞬間まで。
私室には既に荷物が届いていた。段ボール一つ分しかない荷物を開封して、木枠のフォトフレームを取り出す。たった一枚だけ持ち出した、姉と僕が映る写真。
このときはまだ、姉を唐突に喪うなんて思ってもいなかった。
姉は結婚初夜の明け方に自殺を図った。
望まぬ結婚だった。姉には想い人が別にいた。想い人は姉の世話を務めていた青年。身分違いの叶わぬ恋、だった。
古めかしい話だけれど、僕の生家は古めかしい家だから。
彼を見つめるとき、姉の瞳は伏し目がちに潤み、頬は赤みを帯びていた。
「姉さまはあのひとが好きなの?」
僕がそう訊ねると、姉は小さく頷いた。
「誰にも言わないでね」
姉は声を潜めて僕に耳打ちをした。
「あのひとにも?」
「ええ。お互いの重荷になるもの」
姉は淋しい声で囁いた。
今なら分かる。姉は籠の鳥だった。風切羽を切られた小鳥。籠の外を知らず、空を飛べない可哀想な小鳥。だから恋を秘め隠したまま、父が決めた婚約を承諾した。
「姉さま、あのひとじゃない、違う人と結婚するの?」
姉は黙って頷いた。駆け落ちしたっていいのに。そう頭に浮かんだけれど、言えなかった。姉の眼差しは焦点が合わない、がらんどうの目をしていたから。
結婚の準備は早々と進んでいった。僕の気持ちを置き去りにさたまま。
姉は日を追うごとに物憂げに窓の外を眺めている時間が多くなっていった。僕には胸に秘めた想いをひとつひとつ取り出して、捨てているように見えた。
そうして迎えた挙式前夜、姉は僕を抱き締めて別れを告げた。
「本当は真白ちゃんとお別れしたくないわ。でも、他に道なんてないの……」
姉の涙をその夜、初めて目の当たりにした。僕は戸惑ってしまった。姉は負の感情を露わにする人ではなかったから。
「道って?」
僕は姉が口にした意味を掴めずに訊ねた。途端に姉は息を呑み、野生の小動物のように辺りを見回す。それから姉は息を吐き、笑みのかたちに目を細めた。けれどぎこちない。
「いえ、気にしないで」
姉は怯えているように見えた。
「お父様と兄さんたちには内緒にしておいてね。泣いていたなんて知られたらきっと叱られてしまうわ」
姉は従順で力ある者に逆らえない人だった。とりわけ父をひどく恐れているように見えた。
僕がどんな言葉を返していたら姉は死なずに済んだのだろうか。
でも、僕が引き留めたところで結末は変えられなかった。姉は婚約が結ばれた時点で自らを終わらせる覚悟を決めていたのだから。
挙式は煌びやかだった。花嫁である姉は終始控えめに微笑んでいた。まるで、おとぎ話のお姫様のように可憐だった。
僕はこの日を境に姉が遠くなるのだと淋しい気持ちでいた。とはいえ再会が出来ないとまでは思っていなかった。
挙式から一日経たずして、姉は五つ星ホテルの最上階のスイートルームの窓から身を投げた。
夜明け前の暗い空に吸い寄せられるように。
夫になった人にも、それ以外の誰にも思惑に感づかれないように初夜という義務を果たして。
その上で確実に死に至るように身を投げた。
姉の人生は、叶わぬ悲恋はこうして終わった。
そのはずだった。
けれど、父と婚家の人々は姉を生き返らせてしまった。
培養細胞は欠損した肉体を、分断された神経を取り戻した。
「どうして。身体を治しても姉さまは……」
父も兄たちも誰も僕の問いに答えない。それどころか僕なんて存在しないかのように目の前を素通りしていく。空しい。自分の声の反響だけが病棟の廊下に残った。
それから一ヶ月後、姉は奇跡的に意識を取り戻した。僕たちは回復の報せを受けて病室に到着した。病室の扉を開く。そこには一面の血溜まりが広がっていた。
白百合が僕の腕から零れ落ちて赤く染まっていく。華やかな白百合の香りが鉄錆のような血の臭いに変わっていく。
生き返った姉に花を渡したかった。香りを贈りたかった。彼女が愛した花を手渡せば生きる望みを得られると思った。でも、そんな考えは甘かったんだ。
姉のもとへ駆け寄りたくても規制線が張られて近づけはしない。年配の警官は「子供は見ちゃいけない」と僕の肩を掌で押して病室の外へ追いやった。
血溜まりの真ん中で横たわる姉の身体は再生不可能なほど無惨に、あるいは丁寧に殺されていた。
姉の想い人は姉の死体の傍らで首の横を切って死んでいた。
今なら彼の動機も分かる。姉の尊厳を守るため、あるいは姉の想いに応えるためだったのだろう。
棺の中の姉は殺されたにもかかわらず表情に苦悶はなく、むしろ嬉しそうに見えた。そして生気を失ってなお美しかった。それはエンバーマーが施した死化粧のせいではない。
葬儀の最中ですら父や兄たちは常々眉を顰めていた。壊れた道具を厭うように姉の亡骸を見下ろしていた。彼らは政略を台無しにされた苛立ちを、姉を蔑む態度を隠しもしなかった。
僕は遂に思い知ってしまった。姉は政略結婚のための駒でしかなかったのだと。意思ある一人の人間とは見做されていなかったのだと。
翌朝から実機を用いた操縦訓練が始まった。操縦は訓練校のシミュレーターとさして変わらない。本当ならもっと気を張るべきなのだろうけれど。
アーテルは搭乗機体に変形しても人間態の状態と変わらず僕の名を柔らかく呼ぶ。とはいえ操縦席、アーテルの内側で彼の声を聞くのは不思議な気持ちになる。
「マシロ、高さには慣れたか」
「問題ないよ」
「それなら良かった。そろそろ切り上げて食事に行くといい。なるべく多くの種類の食べ物を、なるべく沢山食べるように。きみは身体が細いから心配になってしまう」
パートナー機という存在はお節介を焼くものらしい。周囲の新任操縦士たちはカフェテリアにまでパートナー機を連れてきている。これじゃあデートスポットだ。僕にはそれが煩わしく、息苦しく感じる。
身体が細いのは仕方がない。本来、僕の性別は女なのだから。
姉の死を経て、いずれ自分も姉と同じように政略の駒として扱われるのだと悟った。
望まぬ道に進む前に死ななくては。そう思い至って夜中に首を吊った。けれど姉と同じように生き返らされてしまった。
病室で目覚めて感じたのは悔しさと虚しさ。目覚めた僕に父は言い放った。
「その程度で死ねると思ったか。小童め」
見下ろす眼差しは冬の海の冷たさそのものだった。
自らの意思で死ぬ自由すら無い。僕は絶望を抱いた。
それを機に僕は女の子をやめた。
まず背中まで伸ばしていた髪を短く切り落とした。
それからスカートやワンピースをクローゼットの奥にしまい込んだ。捨てようとしたが捨てられなかった。それらを捨てるには姉との思い出があり過ぎたから。
そして進路として自律型戦闘人形の操縦士になる道を選んだ。軍属を選んだのは兄たちの進路にその道があったから。何より致死率が高い職業だったから。遠く離れた空の上での名誉の死なら許されると信じて。
僕は今、死ぬために空にいる。
日々は瞬く間に過ぎていく。食事と睡眠の時間以外はアーテルに搭乗して訓練ばかりしていた。標的を撃って、走って、撃って。時間の限界になるまで繰り返していた。
「マシロ。熱心さは素晴らしいが、根を詰め過ぎていないか」
アーテルは僕の背を撫でる。温かみがない感触が柔らかく触れる。
「気にしないで。無理はしないから」
少しでも早く実戦投入されたい。アーテルに搭乗していなければ、訓練をしていなければ感傷に飲み込まれてしまう。感傷は底なし沼で、じわりじわりと足元を崩していく。
そうやって訓練に費やしていた明くる日、報せが届いた。
「マシロ。明日から実戦投入されることとなった」
「そう。予想していたよりも早いね」
これで戦って死ねる。もう培養細胞を用いて無理矢理に生き返らせられたりなんてしない。
とはいえ思惑がバレてしまうわけにはいかない。慎重に進めなくては。メンタルチェックで引っかかったら元の木阿弥だ。
だから十回は普通に戦場に赴いて戦果をあげよう。死ぬのはそれからだ。
「マシロ。この先きみは優秀な戦果を挙げるのだろう。だが私は……」
アーテルは目を逸らし、言葉を濁した。兵器である自律型戦闘人形が戦いを躊躇うのは不思議だ。でも理由を問いはしなかった。今はアーテルが戦いを躊躇う理由なんて知りたくない。知ってしまったら重石になってしまうから。
初めての出撃はほんの少しだけ高揚した。他の新任操縦士たちはそれ以上に昂っているように見えたけれど。
三回目の出撃で僕たちは単独の戦果を挙げた。
アーテルは「マシロ。よく頑張った」と僕の髪を撫でた。不思議と頬が熱くなった。
七回目の出撃は苦戦した。何しろ敵の数が多かったから。排除に時間がかかってしまった。
十回目の出撃。空の青が濃い朝だった。アーテルは整った顔できれいに微笑む。
「マシロ。帰還したら一緒に彗星を見よう。今夜、基地の上空を通るそうだ」
頷く。今から僕はアーテルを用いて自殺を図るつもりなのに。
アーテルは僕の思惑に気づかないのか「きみは何を願うんだ」と訊ねる。
願いごとなんてひとつだけしかない。計画通りに死ねますように。それしかないのに。
背中が冷たい気がした。季節は晩春、寒い時期じゃないのに。
アーテルは機神兵態に変形して、すぐさま僕に問う。
「右前方に35体、左前方に28体。マシロ、どちらを先に倒すべきだ」
「左前方の方が速度が早い。こっちが優先だ」
「承知した」
レーザーガンを構えて走る。敵の機体の中心部に当たると橙色に火を噴き、遅れて爆ぜた。
けれど敵の進軍は止まらない。アーテルを囲んで倒す気なのだろう。
誘導弾を半月の形に撃つ。三発撃ったところで敵は撤退を始める。追ってその背中を撃ち抜く。何発も、敵の動きが止まるまで。
「マシロ。右前方も片付いた。帰還しよう」
「ごめん。僕は帰れないんだ」
緊急脱出用の搭乗機形態解除のボタンを押す。アーテルの装甲が解けて、僕は十数メートルの上空から落ちていく。
ああ、これでようやく僕は死ねる。僕の名を叫ぶアーテルの声が聞こえる。
巻き込んでしまってごめん。次の操縦士は僕と違ってまともでありますように。
無責任な願いだ。僕は自殺という目的を遂げようとしているのに。それでも、僕のために悲しみは捧げられるべきじゃない。アーテルが今度はまともな操縦士と出会えますように。
さようなら。ごめんなさい。
目を開ける。視界の先は眩い天国ではなく、暗い地獄でもない。そこは僕たち以外は誰もいない戦場。
身体はそれなりに痛い。けれど致命傷はない。誰かが受け止めてくれたとしか思えない。受け止める誰かなんて考えられる可能性は一つしかない。アーテルだ。
また僕は死に損なってしまった。また僕は生き延びてしまった。
アーテルは黙したまま痛みを堪えるような表情を僕に向ける。
「……どうして」
跳ね起きてアーテルの胸部装甲を殴った。
「どうして僕を死なせなかった」
アーテルは淡々と答える。
「我々は搭乗者を護るように作られている」
そんなの知ってる。分かってる。でも納得はできない。できなくて、アーテルの胸部装甲を殴って、殴って、力尽きて、その場にへたり込む。
「戦場に長居すべきではない、帰還しよう。立てるか」
立てるわけがない。首を横に振る。
「マシロ。私は、きみを生き永らえさせる。たとえ、その選択がきみ自身の意思に背くとしても」
アーテルはしゃがみ込んで手を差し伸べる。向き合えなくて顔を背けた。
アーテルは僕を抱き上げた。駄々を捏ねる子供を連れて帰るように。
「帰還したらビチェリンを作ろう。これから先については明日になってから考えよう」
これから先なんて考えられない。僕は今日、僕を終わらせるつもりだった。この先を生きていくなんて頭にない。どうすればいいのかわからない。