ちょこんと、斜めに歪んだ戸の影から、彼は顔を出した。味のない酒のような、妙な香りが一瞬、漂う。
「また来たのか」
返事はないが、彼は軽い足取りで店の中へ入ってくる。返事をしないのは、そう、言い聞かせたからだ。
『絶対に、返事をするな。だが、俺の声を聞いているだけならば良い』
元々は黒い髪を、茶色に染めた、少年と青年の間くらいの人間の男の子だ。
「何度ここへ来れば気が済むのやら」
彼は、店の奥に座る俺を振り返って、にんまり笑う。ずっとくる。そう言いたいのだろう。
「……それは、出来ぬことだ。お前は、今、懸命に治療を施されている。それに、お前の帰還を待つものたちがいるのだから、速く帰れば良いだろう」
彼は何も答えない。そして、一冊の本を取り出すと、そこに紙を挟み込んで、そして書棚へ戻した。そして「また来るよ」と言い残して、去って行く。こうして、彼は、俺に、何通も手紙を書いている。
今日の手紙は、どんなものか……。
『店番なのにお酒を飲んでいたでしょう。俺が今、住んでいるところは千年の桜の樹の下で、花びらが舞い落ちて綺麗です。一緒にお酒を飲みませんか?
あなたの銀色の髪と、その二本の角と、瑪瑙みたいな爪は、きっと桜の下に映えると思います。インスタに載せたい』
ふざけているのか、なんなのか。ただ、こうやって、俺を誘い出そうとするし、時には、まっすぐ、『あなたに一目惚れをしました。あなたの側に居たい』などと書いてくる。それも、ふざけているのかも知れないが。
彼は、人間の世界で事故に遭った。そして、肉体は現在人間の世界で治療を受け、魂はこの狭間の世界に彷徨っている。最初、この狭間の世界で、亡者どもに襲われていたのを助けてやったら、懐かれてしまった。
『ああ、本当にありがとう……、なんなんですか、あの、怖い奴ら』
『ここは、本屋さんですよね。なんか、すごい、古い本ばかり在るような気がするけど。それと、喉が渇いてしまって……』
水を貰えませんか、という彼に、俺は返した。
『ここは本屋で間違いない。そして、ここでは一切飲み食いをしてはならない。帰れなくなる。……そして、俺の言葉に返事をするな。それもまた、帰れなくなる。解ったのならば、速く元の世界へ戻れ』
だが、彼は戻らずに、ぱらぱらと本を捲り始めた。
『うわー、すごい古……骨董品みたいだ……。そうそう、俺は、あなたの言葉に応じちゃいけないなら、帰っても行けないと言うことだと思うんで……また、来ます』
揚げ足取りをして、去って行ったのが新月の夜。
かくて彼は、毎日、この店先にやってくるようになった。
おそらく、新月の逢魔が時。ここへの入り口が偶然に開いたのだろう。それから、満月を越えあと少し時間が経てば、また、新月が来る。
つまり、人間の世界の彼は、一月もの間、昏睡状態でいると言うことだ。
そのままでは、いずれ、肉体と魂が離れてしまうだろう。
俺の書店などに、通っている場合ではないのだ。
翌日も、彼は、店に来た。
また、今日も、手紙を本に挟んで行くのだろうかと思ったら、違った。
「今日は、ここに居させて」
泣きそうな顔をして、彼は言う。俺は、胸を……鋭い何かで貫かれるみたいな、酷い痛みを覚える。彼が何かをしたのだろうか。そんなことはない。
「……あんたが、許してくれなくても、ここに居る」
彼は、店番をする俺の側に座った。それを、近所の子鬼たちに見られて、はやし立てられる。『食っちまえば良いのに』と笑っているようだった。
「なあ、鬼ってさ。人のこと、食うんだろ? あいつら、そういってたじゃん」
俺は、なんと答えて良いのか迷った。
食う。確かに、そうだ。だが、食わずとも生きていくことは出来る。
「俺……あんたになら、食われたいよ」
黒い瞳が、俺を見上げている。彼は、俺の腕を掴んで、「俺を食ってよ」と訴えている。冗談じゃない。俺は、たち上がって彼を抱え上げた。そのまま、店の外へ、連れ出して、戸を閉める。
彼が、戸を、必死に叩いている。
「なあ、お願いだから、側に居させてよ。頼むよ……」
一目惚れなんだよ。一緒に居たいんだよ。
そう、彼は訴えるが……どうせ、俺たちは、寿命も違う。「また来る」と言っても、明日は人間の世界へ戻っているかも知れない。そうなったら、ここでのことなど忘れて、生きていくのだろう。俺だけ残して。
「なあ、頼むよ。……お願いだから。せめて、名前だけでも教えてよ」
俺は、小さく、頭を振った。
教えない。どうせ、忘れる人間に、教えたくない。
「今夜、新月なんだ。もし良かったら、桜の下に来てよ。……その時は、お酒を飲ませて?」
俺は、桜の下へ行かなかった。
いくものか、と思った。あの人間は、身勝手だ。勝手に一目惚れをして、勝手に気持ちを押しつけて、毎日毎日、手紙を本に挟んで行く。
俺は、必要もないのに、本の整理を始めた。
いや、書店の主が、商品を棚卸しするのは、普通のことだろう。特に、しばらくやっていなかったから、どうも乱雑だ。横着して二、三冊一緒に取りだしたら、そこから、ひらり、と紙が舞った。
「……なんだ?」
手に取って、ドキッと、心臓が跳ねた。あの、人間が入れた手紙だ。
「えっ……?」
まさか、と思って、片っ端から本を開いていく。いつの間に、仕込んだんだ。解らない。バサバサと本をひっくり返して振り動かすと、紙が花のように優雅に舞った。すべての本に、手紙が入っている。
「な……」
拾いあげて、中に目を走らせる。
『居眠りしてる姿も、結構可愛いです』
『ここまで気づいてないでしょ』
『今度は、ちゃんと、一緒にお酒を飲ませて』
『一目惚れだけど、ちゃんと、あなたを、愛しています』
『あなたが、俺を、受け入れてくれなくても、絶対に、また、俺はここに来るから』
気がついたら、無我夢中で走り出していた。
途中、子鬼とすれ違うと『馬鹿め』『ばかばか』『あの人間、もうすぐ帰るよ』とはやし立ててくる。
まさか、ずっと一緒に居ると言ったのに?
信じられなくて、桜の木の下へ急ぐ。
ああ、でも明日もまた来ますと、彼は言わなかった!!
無我夢中で走ったのは、何千年ぶりだろう。俺は、桜の木の下に向かうと、舞い降りる花びらが、空を登っていく竜のように渦を巻いていた。
「お前っ!!!!」
なぜ、彼の名前を聞かなかったのか。こんな時に、俺は呼びかける名前を持たなかった。
彼は渦の中心にいた。
轟音と共に巻き上がる桜の花びらの中心にいるから、おそらく、音は聞こえない。
だが、もう一度、俺は叫ぶ。
「人間っ!!!!」
気付いてくれ。俺の願いもむなしく、彼の身体は、すう、と浮いた。こうなると、俺は手出しが出来ない。桜の結界は、鬼には、破れないからだ。
どんどん、彼の姿は高いところへ持ち上げられて、そして、消えようとしている。その瞬間、ほんの一瞬だけ、彼と目が合った。思い込みではないだろう。彼は、ひらひらと手を振ってから、立てた小指を俺に向けて―――そして、去って行った。
あいつは、嘘つきだ。
ここに居たいと言いながら、居なかった。
また来ると言ったのに、来なかった。
俺は、毎日、あいつの残した膨大な手紙を最初から、読み返している。些細なこと、すべて、覚えていたかった。あいつが、笑っていた顔も。最後に、一緒に居させてくれと懇願した声も。
けれど、あいつは来ない。
「……人間は、嘘つきだ……」
何万回、そう言っただろう。
やがて、何十回も季節が巡った頃、「すみません」とちょこんと、斜めに歪んだ戸の影から、老人が顔を出した。
「……長いこと掛かって済みませんでした。今は、とりあえず、やることは全部やって、老衰で、もうちょっとしたら、天国いきらしいんですけどね。そっちは別に良いんで……桜の下で、酒、呑みましょうよ」
老人の姿は、俺の良く知る姿に変わっていた。俺はどちらでも、構わなかった。無我夢中で彼の身体を掻き抱いて、彼の言葉に応じた。
「ああ、一緒に、酒を飲もう。その前に、お前の名前を教えてくれ。ずっと不便だった」
そして俺たちは顔を見合わせて笑い合う。
今度は、ずっと、二人で一緒に暮らしていく。
了