朝7時。
潮風が私の耳から体温を奪っていく。
「ひゃあ!」
思わず手で覆った。
わたしの耳は大きい。というか普通の人みたいに耳が寝ていない、立っている。まるでヨットの帆みたいに。
冬など木枯らしをまともに受けて、すぐしもやけになってしまうから外を歩く時はいつも耳あてが欠かせない。
ただでさえ目立つ耳が、しもやけになって〝ポテポテちん〟に赤く腫れたりなんかしたら、よけいに何か言われそうだ。
「良い耳してるなぁ~!」と大人たちは褒めてくれるが、褒めてるんじゃない。『福耳』的なダサいセンスで評価している。
違う! 私は耳が立ってるだけで、別に福耳じゃないし。
女の子に福耳とか言うの褒め言葉になってないから、マジやめて欲しい。
そんな耳だが、今日は潮風が吹く海岸で冷たくなってジンジンしている。
お気に入りの可愛い毛糸の耳あては、汚したくないので家に置いてきた。
今日は『どんと焼き』の日なのだ。
なぜ汚れるのかと言うと………………。
──冬の日本海は鉄の色に見える。いつも見ているのに、なぜか今日はいっそう硬い液体に見えた。
足元には湿り気を帯びた冷たい砂浜。髪を撫でる乾燥しきった寒波の息吹。
入江の向こうの島影を越えて、朝日がオレンジ色に集まった人々を照射する。
少し神々しい気分だ。
だがどんなに日差しがアピールしようとも太陽なんか誰も見ていない。
見つめるのは『どんと焼き』の炎。
ごおごおと野太い音を立てて巨大な炎が激しく舞う。
どんと焼きは、小正月の1月15日頃に行われる伝統的な行事だ。
お正月に飾った門松やしめ縄、お守りなどを神社なんかに持ち寄って燃やすという「お焚き上げ」的な儀式。
このあたりではそれを早朝の砂浜でやる。
その火にあたると今年一年のあいだ無病息災だとかなんとか……。
この島に引っ越してきて、初めて見た時はびっくりした。
炎の高さが10メートルか、それ以上くらいにそそり立つのだ。
木や藁や竹や飾りのミカンやらが
地鎮祭っぽい竹と縄を張った結界の中にうず高く積み上げられて盛大に燃やされる。
近づくと燃え盛る炎の熱射で顔が、ぶわああっと熱くなるぐらいの紅蓮の炎。
娯楽の少ないこの島では結構なお祭り気分だ。
なので、普段はひとけのない海岸に大勢の人が集まって、こんな早朝から、やんややんやと炎を囲んでいる。
わたしら子どもたちも登校前にこうして参加。
もう朝ごはんも食べて、あとは学校に行くだけ、どうせ通学途中にある海岸なんだから、カバンを持ってきた方が良さそうなものだが、多くの子がランドセルなんか持ってきていない。
それには理由があった。一旦家に帰らなければならなくなるからだ。
……特に女子はね。
やんちゃな男子たちがニヤニヤ目配せしたり小声で囃し立てあったりしている。
女子もそんな男子たちを横目に嬉しそうにソワソワしている。
済まし顔でいるつもりの普段はクールビューティーな二階堂さんも、隠しきれずに頬が時折ゆるむのが見て取れる。
やれやれ……、なんだこの空間は。
わたしはその空間が醸し出す空気に馴染めなかった。
そう、そろそろ始まるのだ。「アレ」が。
すると二階堂さんの向こうにタカシくんが見えた。
オレンジ色の光線にサラサラの髪が輝くタカシくんは、いつもよりずっと『山切りパン』みたいだった。
『山切りパン』
それが私のタカシくんへの印象。
悪口じゃない。
島の子は、ここの男子らの印象は、みんな『おにぎり』だ。
重くどっしりとしていて、中身があって、粘りがあって、黒光りする海苔を身に纏う、見るからにエネルギッシュな何か。
大きいおにぎり。小さいおにぎり。すばしっこいおにぎり。
そんなタイプばっかりだ。
でも、そんな中にイレギュラーなタカシくんが居た。
タカシくんは、柔らかくて、背が高くて、いい匂いがして、ふんわりと重さのない感じがする。わたしなんかよりずっと転校生っぽい垢抜けた男子だ。
タカシくんが、二階堂さんと何かお話ししている。その周りには自然と他の女子も集まる。そんな男子だ。
まるで、ひな祭りの七段飾りっぽい。
お雛様は二階堂さんで、お内裏様がタカシくん。
その周りを官女や随身たちが楽しげに囲んでいる。
──そこだけ桃の花が咲いてそうだ。
そう思いながら私は遠巻きにそれらを見ていた。
「きゃー!」女の子の叫び声がした。
一番やんちゃ盛りの低学年の悪ガキの小僧がやりはじめた。「アレ」を。
悪ガキの両手は真っ黒だ。
出来立ての燃えススを集めて海水でドロドロにした即席の墨汁。
それを女の子の顔になすりつける。
このとんでもないイタズラが『無病息災になる』という大義名分を得て堂々と行える。それが今日、『どんと焼き』の醍醐味なのだ。
この一見、男子にしか。それも女の子にイタズラしてやろうとかほくそ笑んでる悪ガキにしかメリットが無さそうな行事。
実際、昔は低学年の一部の悪ガキしかしなかったらしいのだが、時が経つにつれ別の意味が含まれるようになり。大多数へと波及するに至った。
それは、なんというか……。
少年少女のコミュニケーションというべきか。例えるならバレンタインデー的な、いやそれほどでもなくても。
うっすらそういう感じがある。と、普段は鈍感な私でも分かる。東京から来たのにぜんぜん垢抜けてない、可愛くもオシャレでもない。そんな私でも。
「アンタほんとに野暮ったいねぇ、メガネをコンタクトに変えてみる?」なんて親にも姉にもミカンを食べながら言われている私。
母も姉も美人タイプだ。
分厚い半纏を着込んで、ワイドショーがけたたましく鳴るテレビの前でこたつに入ってミカンをむさぼり食いながら、わたしに向かって無神経なことをのたまっていても、やはり二人は美形だ。
姉は高一で、この島に来てたった一年ですでに4人目の彼氏という名の下僕を従えている。
母と姉は私とは違う人間だ。向こう側の人種だ。
私の顔は、丸いタヌキ顔。思いっきりお父さん似だ。なぜなんだ神様。
お父さんと一緒にいると、初めて会う人にも親娘だとすぐに分かったと言われる。そして彼らの話が弾む。父はすごく嬉しそうだ。
父も会う人も悪気もなく笑うが、私は美人に生まれたかった。
なんでも思ったことをずけずけ言える母や姉なんて、まんまるなタヌキ顔でいいじゃないか。口べたな私こそ黙っていても許される美人に生まれるべきじゃなかったのかと言いたい。
男子に追いかけられる女子たちの悲鳴があちこちで始まった。
男子はシベリアの狼のごとく連携プレイで女子を追い回し、追い込んだり待ち伏せたりと次々狩猟を成功させ、女子の顔に墨を付けてゆく。
女子の一団が追いかけ回されて、とうとうタカシくんの背後に逃げ込んだ。
タカシくんも、一応両手に墨をべったりと持たされてはいるが、強引に女の子に付けに行ったりしないので、たぶん仲の良いコだけにちょっと付けて終わるのだろう。それを見透かされて、背後に回った女子たちに腰にしがみつかれて悪ガキへのちょうどいい盾にされている。
「タカシぃー!そいつら捕まえろー!」
「え~~~っ」
タカシくんは背後の女子に振り回されっぱなしだ。
大声でけしかける悪ガキたちも、タカシくんが女子を捕まえたりしないことは十分承知で言っている。
そうやってわざと言って、プレッシャーをかけて、タカシくんと女子一団をからかっているのだ。
「コラー! タカシぃー! 裏切る気かぁー!?」
「いやちょっと待って~~~っ」
さしものイケメンも男子と女子に板挟みにされては大変である。
タカシくんを中心に悪ガキどもと女子がぐるぐる回るさまは、まるでメリー・ゴー・ラウンドみたいで、思わずクスクスと笑ってしまった。
その時、バツが悪そうに照れ笑いするタカシくんと、目があったような気がした。
女の子もきゃーきゃー言いながら。
冷たい、汚い。
嫌だ、嫌だ、と言いながら。
なんだかんだと嬉しそうだ。
そりゃそうだ。
……わかるよそりゃ。
女子を困らせる、やんちゃな男子のイタズラに見えてそのじつ、彼らの両手のその墨には、好意がいっぱい込められているんだもの。
──好きなんでしょ、その娘が。
──気になるんでしょ、その娘も。
なんと微笑ましい光景なんだろう。
「もう、やだー! 田辺さん、大丈夫?」
二階堂さんがほっぺに墨を付けられて、息を切らせてやってきた。
「うん、大丈夫」
「ホンット やんなっちゃうよねー? ほら、服にまで付けられちゃった!」
「うわー大変だー」
「マジ最低! じゃ、わたし帰って洗ってくるー! ……ホントにもぉ~~!」
二階堂さんは、同じように墨を付けられた女の子数人と、ぷんぷん怒りながら、でも嬉しそうに顔を上気させて帰っていった。
まあ、あれだけ色々な男子に追いかけられたら本望だろう。
うん。
私も『大丈夫』なんて言ってる場合ではないのだ。ホントは。
だって、女の子は大抵みんな追いかけられて墨を付けられている。
男子にやり返したり
油断している男子のお尻にキックを仕返したりしている猛者もいる。
みんなお盛んだ。
見てるだけでも十分楽しい気分になる。
だから……。
別に私はそういうのいいから。
大人たちがそろそろ学校へ行けと促したのか
悪ふざけをしながらも男子たちが海岸をあとにしはじめた。
まだ沢山大人も子供も残っているが、もう悪ガキ狼たちの狩りの時間は終わったようだ。
なんか収拾のつかないほど悪ふざけして墨だらけになった男子なんかが居て。
付けられた墨をタオルで拭い合う女の子らがいて。
大騒ぎの後の楽しい余韻に駆け回る子らがいて。
とてもにぎやかな時間。
でも、もう終わった。
足の速い男子らはもう集落のある斜面の坂を上へ上へと駆け足で登っている。
この辺の地区から学校までは歩いて30分ほどかかる。
そんなに長居はしてられない。
さっさと家に帰って墨の付いた顔を洗って、学校へ行かなければ。
自分でも分かっている。
自分はこういう楽しい場に積極的に参加できない。
性格がおとなしいからとかそういう事だけが理由ではない。
この集落にもおとなしい女の子は何人かいる。そういう子はそういう子でちゃんと需要があるのだ。
幼馴染の男子に墨を付けられて、お約束の「きゃーっ」やら「もう!」やら、可愛げのある様々なリアクションを返して
それはそれは上手にやってのけている。
ところが自分にはそれが出来ない。
そういうのやったことがない。経験がない。まるでやり方がわからない。
幼馴染というコネもない。
私はただ理屈っぽいだけだ。
そういうぎこちない人間だ。
男子との距離感なんてわかるはずもなく。
それは男子にもおのずと伝わり。
なんか私相手とだと調子が狂うといった具合となる。
それは自分でもよく分かっているからそれでいい。
別に仲間はずれというわけでもないし。
ただ、こういうイベントでは眼中から外されるというだけだ。
ちゃんと『どんと焼き』の火にも当たった。無病息災のご利益ももらえただろう。
これで良い。
さあ、家に帰ろう。
そんな事を考えながら、何もない冬の砂浜をひとり家を目指して歩いた。
さっさと帰りたいのに、駆け出したいのに、足に力が入らないから歩く。
海岸沿いの道路へ向かう工程が情けないほど遠く感じて視線を落とす。
足元には、たくさんのハマダイコンが放射状に葉を這わせて寒風に耐えていた。
濡れた砂浜の上は、寒そうに首をすくめた冬鳥のミユビシギたちが、小さな雪玉みたいにコロコロと元気に駆け回っている。
そして時折、私の足元までわざわざやって来ては、下から俯いている顔を覗き込んでくる。
「こっち見んなバカヤロウ……」
ここは夏には海水浴で駆け回ったところだ。
真っ白に眩しく熱くて、軽く砂を蹴り上げながら走った砂浜は、今は冷たくやけに湿っていて重い。
ひとけの無い船置き場を抜けて上の道路に出れば、あとひと駆けふた駆けで家に着く。
私の家のある方向は、私しか帰らないのでこっちには誰もいない。
どんと焼きの喧騒を離れて、すっかりあたりが静かになると、フフッと自嘲した。
「耳あてしてくれば良かった」
独りごちた。
墨を付けられる心配をしていた自分はなんて滑稽なんだろう。
そっと耳に触れてみる。
手が当たると、かじかんだ耳がジーンと痛む。
冷たいのをずっとずっと我慢してた。
しもやけになりそうなのを我慢して、ずっと風の中に立っていた。
耳がジンジンする。
ジンジン……ジンジン……
それがよけいに惨めな気持ちになって込み上げた。
何を勝手に心配していたんだろう。 汚れたりしないのに。
鼻の奥がツンとした。
漁港からは古臭いポンポン船の音だけが呑気に響いてくる。
ポンポンポンポンポンポンポンポン…………。
防波堤の向こうの水平線には陽炎が立っていて、沖に佇む漁船たちの形をゆらゆらと歪めている。
いや、陽炎のせいだと思いたかったが、原因は突如として目に溜まった過剰な水分だ。
なんだこれ。
このまま帰ったりしたら、母や姉に見られてしまう。
泣いたと勘ぐられてしまう。嫌だ。嫌だ。泣いてない。
なんかちょっと変なスイッチが入っただけだ。
泣くようなことなんて何も起きてない。何も起きてないから大丈夫。
立ち止まって必死に高ぶりかけた感情を抑えようと努力する。
歩くと目の水分がこぼれてしまいそうだ。
自分の体なのに思う通りにコントロール出来ないのが歯がゆい。
歪んでいた水平線が、まっすぐに元に戻るよう、願いつつ見つめる。
そうだ、少しずつ落ち着いてきた。
下瞼には目の水分調節をする穴が開いているらしい。
そこへ流れ込めば良い。
絶対に手では拭いたくなかった。それは泣いた時にすることだ。
誰にも相手にされず泣くなんて、あまりにも情けないではないか。
冷たい風が目頭の熱さをさましてくれる。良かった。冬で良かった。
いくぶん視野がピシッとしてきた。
ふぅ~!
大丈夫。
ああ、もう大丈夫。
あとは帰ってランドセルを取るだけだ。
玄関に置いてきた耳あてと一緒にひっつかんで出てこよう。
まだ充血してるであろう目を見られるのは良くない。
サッと済まそう。
「どうだった?」って母に聞かれたとしても、「別に」って答えよう。
それでイケる。
…………ヨシ。
ひとり作戦会議が終わって、 再び歩き出そうとした瞬間のことだった。
不意に私の顔に冷たい感触。
手だ。
後ろから伸びたであろう誰かの手が、わたしの頬にペタンと触れた。
一緒に私の立った耳にも触れた。
「え!?」
驚いて振り向くと、そこには私の反応に、私以上にビクッと驚いた顔をしているタカシくんが居た。
??????
突然のことで意識が混乱する。何が起こっているのか状況が把握できない。なんでタカシくんがここにいるの? 他のみんなは?
動揺してグッと狭くなった視界で周りを慌てて見回す。
さっきの目に涙を浮かべた情けない姿を見られたかも。
そう思うと益々気が動転する。
だが、そこに居るのはタカシくんと自分、二人だけだった。
囃し立てる男子もいない。
タカシくんは真っ黒な墨の付いた手を所在なさげに見つめていた。
「あ」
『どんと焼き』だ……。
それの意味するであろうところがデタラメに私の頭を駆け巡った。
さっきまで散々他人事で分析してた……。
込められている────。
…………『好意』…………。
今まで血の気が引いて、霜焼けになりかけていた私の耳は、あっという間にカァーっと熱くなってドクドクと脈打つ物体となった。
まるで心臓が3つになったみたいだ。胸と両耳の主張が私の意識を圧迫する。
私の様子を見て、タカシくんは困ったように視線を泳がせて、顔をみるみる赤くした。それが更に私の動悸を早める。
タカシくんが取ってつけたように「やあ……」と言った。
わたしは「……うん」と応えた。
「きゃー」とか「もお」とか、そういう言葉は出てこなかった。
今から笑顔で逃げるなんて器用なこと、出来るはずもない。
顔が熱くなり。 耳も熱くなり。 目も熱くなった。
ゴーッ ゴーッ ゴーッという体の中で流れる血の音が耳鳴りに近く響いている。
自分の顔が今どんな風になっているのか────。ギュッとうつむく。
靴の先っぽについた砂つぶが、私から落ちる水滴に次々と弾け飛んでいく。
ああ…………。
あんなに我慢してたのに、これじゃ家に帰れない。
漁船が横切る海面の反射が、二人の影をキラキラと縁取っていた。
ポンポンポンポンポンポンポンポン…………
その様子を見た誰かは思った。
────そこだけ桃の花が咲いてそうだ。
【おしまい】