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第七章 【本能と抱擁】



こんなにぐっすり眠れたのは、いつぶりだろう。夜中に1度も起きることなく、目が覚めた瞬間から頭がスッキリしていた。心なしか、身体も軽い。

おばあちゃんのおかげだろうか。


外は、どんよりとした曇り空だ。携帯の天気予報を確認すると、23時以降が傘マークになっている。ちょうど早坂さんが迎えに来る時間帯だ。降水確率は50パーセント。残りの50に賭ける。


昨夜貰ったポトフとキッシュを温めて、贅沢なブランチタイムとする。

一口食べて、今日も仰け反った。なぜ、こんな物を早坂さんが作れるんだ。料理人と言っていたけど、それが職業って事だよね。フレンチのシェフ?シェフって、そんなに自由なのか?

あの人の行動を考えると、いつ働いているのか疑問だ。


改めて、何も知らないよな、と実感する。早坂さんは自分の事をあまり喋らない。──わたしも、聞かないからか。

無意識に、溜め息が出る。考えるのはやめよう。せっかくの至福の時間が台無しになる。






その日の夕方、更衣室で着替えをしていると、先に出勤していた春香が顔を出した。


「雪音っ、急いで着替えて来て」それだけ言って、いなくなる。

なんだ?前掛けを結びながらホールへ向かうと、店長、春香の他に、見知らぬ男性が1人。


「あ、来たね。雪音ちゃん、紹介するよ。この子は今日からバイトに入る、滝口 一真(たきぐち かずま)くん」


「・・・あっ」──って、もう見つけたのか。


「雪音さんですね。一真です。よろしくお願いします」


「一真くんね。雪音です。どうぞよろしくお願いします」ペコリと頭を下げる。


「ちなみに彼は、凌ちゃんの甥っ子さんです」


「・・・えっ!あー!前に言ってた!」


「そそ、凌ちゃんのとこ手伝ってる、大学生の甥っ子さん。奪っちゃった」


「奪っちゃったって・・・いいんですか?」


「いいんですよ。あそこは叔父1人でも十分やれますから」笑い方といい、なんというか爽やかな青年だ。


「一真くんは飲食店でバイトの経験も多いから、戦力になってくれるはずだよ。わからない事は、お姉さん2人に聞いてね」


店長にお姉さんと言われると、癪に触るのは何故だろう。春香の顔を見て、同じ気持ちだと理解した。


「迷惑かけないように頑張ります」







店長の言う通り、一真くんは非常にのみ込みが早かった。ビールの注ぎ方やカクテルの作り方は、これまでの経験で教えなくてもわかっている。接客もスムーズにこなすし、周りをよく見ていて、率先して動いてくれる。

1度言った事はすぐに覚えるから、我々が負担を感じることもない。

なんというか、男版春香って感じだ。


「優秀ね」


一真くんが接客をするのを見守りながら、春香が呟いた。


「うん、わたしも思った。経験値だね」


「それもだし、元々頭良いのよ。イケメンだし」


「そこかい」


「凌さんの言うこと、嘘じゃなかったわね。くう〜、あれで学生じゃなかったら」


「やっぱそこかい。てか、バイトって女の子だと思ってた」


「あたしが店長に頼んだのよ。出来れば男にしてくれって」


「そーなの?」


「この前の客みたいなのもいるし、男がいるいないでは全然違うでしょ」


「まあ・・・ねえ」


「まあ毎日入るわけじゃないみたいだけど、これでだいぶ楽になるわね」


「ホントに」凌さんには申し訳ないが、店長に感謝だ。






「雪音さん、俺ホールやるんで、洗い物のほうお願いしていいすか」


最後の客を見送り、テーブルを片しているわたしに一真くんが言った。「あ、ホント?ありがと」量にもよるが、食器運びはなかなか重労働だ。


洗い物に回るわたしと春香の元へ、トレーに山積みの皿が届く。

「さすが男子。あたしらじゃ出来ないわ。落とさないようにね」


「大丈夫っす。任せてください」


次に一真くんを見た時は、全ての椅子をテーブルに上げ終わっていた。


「いや〜、男がいると違うねえ〜。頼もしいよ」もう1人の男は、いつものポジションでタバコの煙を充満させている。


「これまで女3人でしたからね、本当に助かりますよ」


春香の嫌味に、一真くんが笑う。「ここ禁煙じゃないんすか?」


「もっと言ってやって、一真くん。何年も言い続けてるけど伝わったことないの」店長はわたしの言葉通り、2本目のタバコに火をつけた。


「それよりさ、一真くんの歓迎も込めて、これから軽く飲みに行かない?」


「賛成!」挙手付きで即答したのは春香だ。「もちろん、店長のお〜〜?」


「だから、いつも奢ってるでしょ」


「いんすか?嬉しいっす」


「あー、ごめんなさい。わたし今日はちょっと、先約があって」


「何よ先約って。早坂さん?」


なぜ、すぐにその名前が出る。「あー、まあ・・・」


「え、この前迎えに来てた彼?雪音ちゃんデートなの?」


「違います」


「雪音さん、彼氏いるんすか?」


「違うって」


「えー、雪音さんと飲みに行きたかったな」


可愛い事言ってくれるじゃないか。「ゴメンね。今日はどうしても、外せない用で・・・」


「まあ、デートならしょうがないわね」


「だから違うって」


「天然記念物は置いて、3人で行きましょうか。今日は飲むわよー!」


「一真くんゴメンッ。今度改めて飲みに行こ」


「・・・2人でですか?」


「ん?まあ2人でもいいけど」


「了解っす。約束すよ」


──弟がいたら、こんな感じなんだろうか。なんにせよ、可愛い。お小遣いをあげたいくらいだ。




頼むから、まだ来てませんように。

そう願いながら店を出たが、すぐに、イカつい車が目に入ってきた。

それだけならまだしも、車の後方に、デカいシルエットが2つ。


「あれ?早坂さん?と、もう1人誰かいるわよ」


「そうだね。じゃあわたしはここで」1歩踏み出し、後ろに引き戻される。


「誰よ」締め付けられた右腕が、痛い。


「早坂さんのお友達。ということで、また明日」


「ほら、こっちに来るわよ」


「えっ」──・・・ NO!来なくていいんですけど!


「こんばんは。雪音ちゃん、お仕事お疲れ様」


デジャヴ感が否めない。「・・・お疲れ様です。早坂さん・・・と、こちら、早坂さんのお友達の瀬野さんです」


さっさと紹介して去ろうと思ったが、春香がわたしより1歩前に出る。

「初めまして、雪音の友達の春香ですう〜」

またもや、デジャヴだ。春香の営業スマイルの前でも仏頂面を崩さない瀬野さんが、軽く会釈する。


「ごめんなさいねえ、この人、生まれつき愛想を持ち合わせてないのよ」


「いいんですよ。愛想がない男ほど、感情を露わにした時、燃え(萌え)ますから」


引き気味で、恐ろしいモノでも見るかのように春香を見る瀬野さんが、面白すぎる。

「・・・行くぞ」瀬野さんは足早にその場から居なくなった。


「じゃあ、わたしはここで。店長、春香にあんまり飲ませないでくださいね」


「それ、俺に言う?」


「一真くん、またね」


「お疲れ様です。雪音さん、約束、忘れないでくださいね」


「ん?ああ、オーケイ」



車に向かいながら、早坂さんが後ろを振り返った。「この前は、いなかった子よね」


「あ、はい、今日からバイトに入った子なんですよ。店長の知り合いの甥っ子さんで」


「ふうん。約束って?」


「え?」


「さっき言ってたじゃない」


「ああ、これから歓迎会なんですけど、わたしは行けないんで、後日行こうって話です」


「2人で?」


── これは、過保護モードか?職場の人間にまで?「わかんないですけど」


「ふうん」早坂さんはそれ以上何も言わず、わたしを助手席へと案内した。




例の公園までは、30分程かかるという。市街地を抜け、車通りが疎らになってきたところで、早坂さんの携帯が鳴る。


「須藤よ。スピーカーにするわね。もしもし?」通話中になっているのに、何も聞こえてこない。「須藤?」


ガサガサと雑音が入り、「あ、早坂さん?今何処ですか?」


「向かってるところよ」


「瀬野さんも?」


「ええ、どうしたの?」


「・・・すんません、ヘマしちまいました」


「どーゆうことだ?」座席の間から瀬野さんが顔を出した。


「偵察に行ったんですが、不意を突かれて、高野が襲われて・・・今病院に向かってます」


早坂さんの顔が険しくなる。「怪我は?」


「かなりの力で突き飛ばされて全身を打ったんですが、意識はあります」


「なんでまた行ったんだ?俺達が行くって言っただろう」


「・・・前回なんにも出来ずに逃げちまったんで、少しでも力になれればと思って」


瀬野さんが呆れたように息を吐いた。「それで、何を見た?」


「・・・すみません、動きが速くてはっきりと確認は出来なかったんですが、やはりかなりの巨体で、地面を這って移動する何かが、確実にあそこにいます」


「大蛇の可能性はあると思う?」早坂さんの声は冷静だ。


「・・・断言は出来ませんが、可能性はあるかと」


「わかった。とりあえず、あたし達が向かうから。後で報告入れるわ」


「わかりました。気をつけてください。これまで見てきた奴とは比べ物にならないデカさです」


「了解」



通話が終了し、車内に沈黙が流れる。


「須藤はまだしも、なんで高野が行くんだ。先は見えてるだろ」


「そこはあたしも同感だけど。あの子なりに、財前さんの力になりたいと思ったんでしょ」


「ったく、余計な事しやがって。下手したら逃げられてるな」


「それか、警戒心が増してるかね」


「どう思う?」


「さあね。行ってみないことにはわからないでしょ。それより・・・」早坂さんが横目でわたしを見る。「やっぱり、連れてくるんじゃなかったわ」


「・・・用心します」それには、ふう・・・と溜め息だけが返ってきた。




車は次第に坂道をのぼって行く。街路樹を進み、信号の無い交差点を左折すると、広い駐車場が見えてきた。車のライトに照らされた木の看板に、【森林公園 静寂の森】という文字を確認する。

早坂さんはその近くに車を停めるた。ライトを消すと、辺りが真っ暗になった。


さすがにちょっと──「怖い?」


「・・・いいえ?」


「雪音ちゃん」


「車にはいませんよ」


「で、しょうね」


早坂さんに続いて、車を降りる。空気が澄んでるせいか若干、肌寒さを感じる。それに、静寂の森という名の通り、とても静かだ。


早坂さんは車のトランクから懐中電灯を取り出し、瀬野さんに渡した。見るからに小ぶりなのに、照射範囲が広い。


「雪音ちゃん」


わたしにもくれるものだと、手を差し出し──・・・「なんですかコレ」


「ん?ライトよ」


「いや、わかりますけど、なんで頭?」


「手が不自由だと危ないでしょ」

取り付けられた以上、自分では確認出来ないが、目が上を向く。

「角度調整出来るからね」


額についているライト部分を指でつまむと、上下に動いた。「なんか、わたしだけまぬけっぽいですね」


「あら、そんなことないわよ。あなたは何をしたって可愛いのよ」


自分のヘッドライトに照らされた早坂さんの笑顔は眩しいが、嬉しくない。


「工事現場に居そうだな」瀬野さんの意見が、正しい。


早坂さんはもう1つ、手に持っていた物をわたしに差し出した。「なんですか?」


「今日はちょっと肌寒いから、着なさい。大きいと思うけど」


白い、長袖のシャツだ。「汚しちゃいそう・・・」


「いいわよ。気にしないで」


寒いから、甘える。「ありがとうございます」

わたしが着ると、シャツというよりワンピースになった。長すぎる袖を捲る。フワッと良い香りがした。服の匂いを嗅ぎそうになって、留まる。


入り口にある案内板のマップを見ると、ウォーキングコースは2つ入口があり、1周が約3キロメートルだ。そのコースに沿って、様々な樹木の案内も記されている。さすが、森林公園。


「3キロか。そうでもないな。どっちから行く?」


「繋がってるし、どっちでもいいわよ」


瀬野さんに任せて、後に続く。

少し歩くと、コンクリートの地面から砂利道へと変わった。暗闇に生い茂る木々の中を3人並んで進む。昼間に来たら、森林浴が気持ち良さそうだ。


「雪音ちゃん、離れちゃダメよ」


「はい」


離れるも何も、両サイドをギッチリ固められているから、離れようがない。

聞こえるのは、自分達の足音と、虫の鳴き声だけ。


「・・・ッ、ギャ──ムグッ・・・」大声で叫びかけて、瞬時に口を塞がれた。早坂さんの大きい手がわたしの鼻まで塞ぐ。


「なに!どうしたのっ」早坂さんは気持ち、小声だ。苦しさをアピールすると、顔から手が離れる。


「今、顔に虫がっ・・・」


「・・・虫?怖いのは虫なの?」


「だって、顔に・・・大きいのが・・・」

そうか、このヘッドライトを目掛けて来るんだ。スイッチをオフにする。「2人のライトで十分見えるんで」怒られる前に、言っておく。早坂さんの咎めるような視線がよく見えないのは、暗闇に感謝だ。



それからさらに進むと、広場が見えてきた。

ブランコや滑り台などの遊具が設置されている。

ホラー映画だったら、ここでブランコが勝手に動いたり──なんてね。


「・・・・・・ん?」


「どうしたの?」


「・・・あのブランコ、なんか揺れてません?」


少し近づき、瀬野さんがライトを当てる。やはり、小刻みに動いている。


「ゆ、幽霊・・・?」


「アホか」


「なんで!?妖怪が存在するなら、幽霊もいるんでは!?」


「にしても、変だな。風は吹いてないし、揺れ方が小刻みじゃないか?」


「振動よ」


「振動?なんの・・・」言いかけた瀬野さんが、辺りを見回す。「近くにいるってことか?」


「おそらく」


ブランコの向こう側は、柵で区切られた林。一瞬だが、その暗闇の中に動く物が見えた。

そこを、指さす。


「何か、います」


2人が同時にライトを消した。

早坂さんはわたしの腕を掴み、自分の背中に移動させた。

そのままゆっくりと進み、柵を越える。道という道はない。周囲を見回しながら、立ち並ぶ木を避けて奥へ進む。


「出来るだけ足音を立てるな」


暗闇に加え、地面は草だらけで足元がよく見えない。だから、そこにあった枝に気づくことが出来なかった。


バキッと、鈍い音が響く。3人ともピタリと静止した。

──わたしのアホゥ!言われたそばから!

そんなに大きな音ではないはずなのに、辺りが静かすぎるせいでこんなにも響く。


その時だった、決して遠くはない所から聞こえてくる──ガサガサと、地面を移動しているような音。一瞬止まって、また聞こえてくる。


早坂さんが、人差し指を口に当てた。

耳を澄ませる。音はするのに、方向が掴めない。まるで、この森全体から聞こえてくるようだ。


音でわからないなら、目視。ライトをつけられたら、視力を発揮できるのに。でも、暗闇にも目が慣れてきている。目を凝らし、注意深く、360度見渡す。

そして、木々の間に動く物体を捉えた。瀬野さんが向いている方向の、数メートル先だ。2人の背中に触れ、その方向を指で知らせる。


「何か見えたか?」瀬野さんが小声で呟き、頷いた。早坂さんがわたしの前に立ち、慎重に進んでいく。


おかしい。距離的に、もう見えてもおかしくないはず。──ここに居るのなら。

わたしはまた2人の背中に触れた。足を止め、周囲に意識を集中させる。


動いた!今度は、さっきまでわたし達がいた方向だ。戻ろうとして、早坂さんに腕を掴まれた。やはり、わたしを後ろにして来た道を戻る。


どうも、おかしい。確実に目で捉えているのに、なぜ、姿が見えない。移動しているから?

後ろを振り返り、そこに動く物を見て、確信した。


わたし達に、気づいているんだ。


今また戻っても、すぐいなくなるだろう。不意をついて、襲ってくる気か。

どうすればいい?── 追いかけて駄目なら、追いかけさせればいい。姿さえ見えれば、対処法はあるはずだ。


今の状況で、"奴"が見えるのはわたしだけ。

追いかけさせるには、どうすればいい。

わたしが走って逃げれば、早坂さんは確実に追ってくる。そして瀬野さんは、早坂さんを追う。

──そんなに、うまく行くだろうか。奴が追ってくる確信もない。


迷った時は、本能に従え、だ。

ごめんなさい。心の中で謝罪し、広場へ向かって、スタートを切った。


「えっ、雪音ちゃん!?」早坂さんがすぐに、続く。


「おいっ!」後ろで2人の足音を確認し、安心した。


柵をハードル選手のように飛び越え、広場の中心でブレーキをかけた。後ろを振り返る。

予想より近くに、早坂さん。そのすぐ後ろに瀬野さん。瀬野さんの後ろには、──何もいない。

出てこい、早く、姿を見せろ。


「雪音ちゃん!どうしたの!」早坂さんに肩を掴まれた。


「中条?」


──・・・やってしまった。2人の顔が見られない。


「ごめんなさい・・・」


「なにが?」早坂さんがわたしの顎を掴み、上を向かせる。


そのまま、口が開いていった。

なんだ・・・アレは・・・?

わたしの視線を追って、早坂さんが振り返る。


「瀬野っ!」


瀬野さんのすぐ後ろにいるソイツは、瀬野さん目掛けて頭を振り下ろした。瀬野さんは間一髪で避け、地面にスライディングする。


キシキシと音を立て、その馬鹿デカい胴体を浮かび上がらせる。多数の足が、わたしたちを挑発するかのように忙しなく動いている。


コイツは──・・・「ムカデ?」


「そんな可愛いもんじゃないけどね」早坂さんは、背中からナイフを取り出した。瀬野さんも、いつの間にか手にしている。


「雪音ちゃん、ゆっくり後ろに下がりなさい。出来るだけ遠くに行くのよ」


言われた通り、1歩、2歩と後退る。


「遊里、前に始末した大ムカデ覚えてるか?弱点は同じだろう」


「サイズ的に前の奴と同類にしていいのかしら。5倍はあるわよ」


「デカい分、動きも読みやすい。隙をついて仕留めるぞ」


「はいはい」


「弱点って、何処ですか?」


早坂さんが一瞬、ぎょっとわたしを見たのは、思ったより近くにいたからだろう。


「頭部よ。雪音ちゃん、もっと下がって」


「頭部って、あの触覚みたいなのが生えてるあたり?」


「そうだけど・・・変な事考えちゃダメよ」


「どうやってあそこまで・・・」胴体が起き上がってる状態では到底頭には届かない。高さで言ったら、5メートルもありそうだ。


「そこが問題ね。奴の体を登って行くか、這って移動するところを仕留めるか」


「登る!?」考えただけでゾッとする。


大ムカデは、胴体を上下に揺らしながらこちらを伺っている。


「襲って来ないところを見ると、警戒心が強いな。一か八かやってみるか」そう言うと、瀬野さんが動いた。ダッシュで大ムカデの後ろに回り込む。大ムカデはすぐに動かなかったが、瀬野さんが近づくのを待って、尻尾を薙ぎ払った。瀬野さんはナイフの先端を盾にし、吹き飛ばされた。


「瀬野さん!」


地面を転がり落ちるが、すぐに体勢を立て直す。「大丈夫だ」


──すごい。普通の人だったら、大怪我をしてもおかしくないのに。鍛えた身体もそうだが、受け身の取り方を知っているんだ。


「怯ませようにも、胴体は硬くて刀が刺さらんな。一気に頭を狙うしかない」


「あそこまで行くのは無理そうね。頭を下げさせるにはどうすればいいかしら」この状況でも冷静に考えられるのは、経験値なんだろうか。早坂さんの表情はいつもと変わらない。


「誰かが囮になって追いかけさせるか?移動する時は頭も下がるだろ」


「そんなに上手く行くかしら。この図体とスピードを考えたら、すぐに追いつかれて後ろからやられるのがオチよ」


確かに。さっきの林の中での動きを考えると、かなりの速さだ。


「向こうから、攻撃させるしかないんじゃないですか。正面から向かっていけば、さっきみたいに頭を振り下ろすかも」


「・・・それ以外に方法はなさそうね。避けられる保証はないけど。雪音ちゃん、そのままもう少し下がりなさい」


「はい」下がりながら、バッグからナイフを取り出す。それを見た早坂さんが何も言わないのは、それほど危険ということなのか。


早坂さんは足元の小石を手に取ると、前に出た。それを大ムカデの頭に向かって投げる。触覚の間に命中すると、大ムカデはピクリと動いた。顔が早坂さんを向くが、何もしてこない。


「図体の割に臆病なのかしら?」


早坂さんの挑発が通じているかはわからないが、頭がゆらりと動き、触覚の下から鋭い牙のような物が顔を出した。大きい鎌のようだ。それが早坂さん目掛けて襲いかかる。


早坂さんは、ギリギリのところで横に回避した。大ムカデは顔を地面に埋めている。今なら頭を狙えるのに──早坂さんも瀬野さんも、動けない。


「なにアレ・・・」


大ムカデが触れた地面の周りが、暗闇でもわかるほど黒く、浸食されていく。その牙がゆっくりと離れた時、そこは雨でも降ったかのように、水溜りが出来ていた。


「毒ね。雪音ちゃん!近づいたらだめよ!」


近づくも何も、わたしは2人よりこんなにも離れている。それより、その毒は早坂さんのつま先ギリギリの所まで侵食している。


どうすればいい──・・・考えろ。


"一気に頭を狙うしかない"

それには、どうすればいい。高い所から狙えれば。林に戻って木を登り、奴の頭に飛び降り、ナイフを突き刺す。

木を登るのは可能だが、そこに至るか?奴の隙をついて運良く登れたとしても、そこまで誘導してもらわないと無理だ。その間に、2人に何かあったら──。


クソ・・・あの長い胴体をどうにか登れさえすれば──。


「・・・・・・あ」


わたしは、頭に浮かんだ事をすぐに脳内シミュレーションした。3通り考えて、2つは失敗に終わったが、残りの1つが思い通り行けば、"イケる"。


そうだ。あの長さを、利用してやろうじゃないか。


「早坂さん!さっきの、もう1回やってくれませんか!」


「・・・さっきの?」


人間の言葉がわかるはずはないが、念のため、石を投げるジェスチャーで伝える。早坂さんはすぐに察した。


「・・・何する気?」


「大丈夫!危険な事はしないので信じてください!」暗闇じゃなければ、表情で嘘がバレていたはず。


「遊里!やれ!」


反応は鈍かったが、早坂さんは言う事を聞いてくれた。手に取った石を、さっきと同じように顔に向かって投げた。奴も、さっきと同じ反応だ。早坂さんを見下ろすが、すぐには襲ってこない。早坂さんはもう1度、石を手に取った。今度は強めに投げる。牙に当たり、カツンと音がした。


「ほら、その気色悪い牙へし折ってやるから、かかってきなさいよ」


やはり、人間の言葉が通じてるのでは?

まるで怒っているかのように、キシキシと音を鳴らし体をうねらせた。


───来る。

わたしは、ナイフを握りしめた。タイミングを間違えるな。


奴が動くと同時に、走った──。

お願い早坂さん・・・避けて!

早坂さんがジャンプして攻撃を避ける。その後ろに回る、わたし。ここまでわずか数秒。

そのまま助走をつけて、早坂さんの背中に飛び乗った。


「早坂さんごめんなさい!」


「・・・えっ」


早坂さんの肩を踏み台にして、力一杯飛んだ。

下は、毒だ。落ちたらたぶん死ぬ。でも大丈夫、わたしは跳躍力も人よりも長けている。


手を伸ばし、目の前の触覚を掴んだ。──ぎゃあああああああああああ!気持ち悪いぃぃぃぃぃぃ!

大泣きしながら、大ムカデの頭上に降り立った。


「雪音ちゃん!」


「中条!そこだ!突き刺せ!」


あまりの気持ち悪さに、一瞬、反応が遅れてしまった。大ムカデが、わたしを振り落とそうと頭を振り上げた。

わたしは咄嗟にナイフを口に咥え、もう片方の触覚を掴んだ。ぎゃあああああああ!やっぱり気持ち悪いぃぃぃぃぃぃ!身体が宙に浮かぶが、手は離さない。

今度は、頭を左右に振り始めた。バランスを取りながら振り落とされないようにするが、このままじゃナイフを突き刺すどころではない。



「瀬野!腹の部分は柔らかい!」


「ッ・・・わかった!」


振り回されているせいで、2人の声しか認識できない。


それから僅かして、大ムカデの動きがピタリと止まった。


「おわっ・・・」その反動で落ちそうになったが、なんとか踏ん張る。

なんで急に動きが・・・?2人が何かしたのか?


「中条!すぐ動き出すぞ!今の内に早く頭を狙え!」


瀬野さんが全部言い終わる前に、わたしはその頭を、両手で突き刺していた。

硬い──が、刃部分は全部刺さっている。こんなに小さなナイフで、本当に仕留められるのか・・・?


大ムカデは消える事もなく、時間が止まったように動かない。やっぱり、このナイフじゃ駄目だったのか?

また、動き出すんじゃ──覚悟をしたその時、変化があった。ヘッドライトをつけて確認する。大ムカデの体全体が、白い石のようになっている。


「えっ、なにコレ」そして尻尾のほうを見ると、塵のように消えかけていた。


ということは──仕留めたのか?

ヤッタ!と、喜んだのも束の間、えっ・・・このまま体が消えたら──わたしは?


「いやいや!ちょっと待ってー!」見ると、もう、胴体の半分近くまで塵になっている。「ギャ──!」


「雪音ちゃん!飛び降りなさい!」


2人がこちらを見上げている。「飛び降りるったって、この高さ・・・」


「あたしが受け止めるから!そのまま飛び降りなさい!」


この高さで、受け止められる?下手したら、早坂さんが怪我するんじゃ・・・。

その時ふと、目に入った物。垂れ下がった触覚は、まだ形を残している。考えてる時間は無い。わたしはその触覚にしがみつき猿のように滑り落ちた。


「なっ、何してるの雪音ちゃん!」


「おいおい、冗談だろ・・・」


ギリギリまで下がり、下を見る。大丈夫だ、降りれない高さではない。飛び降り、着地に備える。


──なんとなく、予想は出来ていた。こうなるだろうと。

華麗に着地を決める予定が、早坂さんの腕に掴まれていた。


「・・・ありがとうございます」


こんなに至近距離で早坂さんを見下ろす事は、ない。目を細めているのは、ヘッドライトが眩しいのか、わたしを咎めているのか。前者である事を願いたい。


早坂さんはゆっくりと、わたしを降ろした。



わたしのヘッドライトを外し、地面に放り投げる。「えっ」


そして、わたしの肩を掴み身体を離した。「怪我は?痛い所はない?」


「大丈夫です。この通り。それより、ごめんなさい。早坂さんのこと、足蹴に・・・」


わたしを離した手が、今度は引き寄せる。

気づけば、わたしは、早坂さんの胸に埋もれていた。

本来なら、この状況に動揺して、あたふたしていたと思う。でも、その前に苦しいが勝った。身をよじると、更に強く抱きしめられた。


「早坂さん、く、苦しい・・・」


早坂さんは腕を緩めてくれない。「心臓が止まるかと思った」髪に、早坂さんの温かい息を感じた。


苦しい。── 苦しいのに、身体の強張りがほぐれていくのを感じた。わたし今、メチャクチャ安心してる。良い匂いがするし、たぶん、このまま気を失っても、早坂さんになら身を委ねられる。

そう思った矢先、早坂さんはわたしの身体を離した。



「さあ、どうしてくれようかしら」


「・・・えっ」


「1人で突っ走らないって、約束したわよね?」ブラック早坂さん、降臨だ。背後から、地鳴りが聞こえてきそう。


「あー・・・でも、その、結果オーライということで・・・」


「向こう見ずにも程があるわ!あんな無茶な事して、何もなかったから良いようなものの、下手したら死んでたかもしれないのよ?」


「・・・生きてます」


「それに、あたしは飛び降りなさいって言ったわよね?なんで言う事を聞かないの?」


早坂さんは気づいていないだろうが、掴まれた腕に若干、指が食い込んでいる。


「・・・高さが高さだったから、早坂さんに怪我させると思ったんです」


早坂さんはわたしを見つめ、手の力を緩めると、溜め息をついた。「あたしの事は考えなくていいのよ。自分の事を優先しなさい」


「なんでですか?」


「なんでって、あなたのほうが大事だからでしょ」


「だから、なんでですか。わたしにとっては、早坂さんも大事です」


早坂さんは目を見張った。「・・・少なくとも、あたしはあなたより頑丈よ」


「中条の方が身軽だけどな」瀬野さんがわたしに差し出したのは、ナイフだ。いつの間にか拾ってくれていたらしい。


「あ・・・ありがとうございます」気付けば、大ムカデの姿は跡形もなく消えている。


瀬野さんは、わたしの頭をポンと叩いた。「よくやった。女のくせに、大した度胸だ」


「ちょっと、褒めなくていいのよ。そして叩かないでちょうだい」


「なんでだ?中条のおかげで始末出来たんだろ。褒める以外、何がある」


なんだか、瀬野さんが神様に見えてきた。


「あたしが言いたいのは、無茶をしすぎってことよ。結果オーライで済む話ではないわ」


「それはお前の問題だ、遊里」


早坂さんは、顔をしかめて黙った


「・・・あんな風に消えるんですね。初めて見ました」


「ああ、図体がデカいから、毒が回るのも時間がかかったがな」


「毒?」


「そのナイフだ。まあ、特殊な素材でな。妖怪にとっては毒みたいなもんだ」


「そうなんですか・・・」手の中のパートナーをぎゅっと握りしめた。こんなに小さいのに、頑張ってくれてありがとう。


「しかし、まさか大ムカデだったとはな。この公園で被害の報告はないが、早めに対処出来て良かったな」


「・・・蛇じゃなくて残念でしたね」


「まあ、そんなに簡単に見つけられたら苦労はしないわよ。今回はアイツを仕留めれただけ良しとしましょう」


「・・・同じ事じゃないか?」


「なにが?」


「同じ事を言ってるだろう。俺は、早めに対処出来て良かったってって言ったよな」


「だからなによ」


「いや、あえて同じ事を言う意味があるのかってことだ」


早坂さんは呆れたように宙を仰いだ。「はいはい、どうでもいいわそんなこと」


「俺の話を聞いてないという事だろう」


「あーうるさいうるさい、アンタより喋れないムカデのほうがよっぽどマシよ」


2人が漫才を繰り広げている間に、わたしはヘッドライトを拾い、頭に装着した。良かった、壊れていない。


「雪音ちゃん、帰るわよ」早坂さんがわたしの手を取り、そのまま歩き出した。


「おい、話は終わってないだろう」


「だー!うるさいわね!アンタ、年々偏屈になってるわよ!?」


早坂さんのグローブみたいな手が、わたしの手をすっぽりと覆う。


「あの、早坂さん。わたし、自分で歩けます・・・」


早坂さんは振り返り、握る手に力を込めた。「ダメよ。何処に飛んで行くかわからないんだから。抱っことどっちがいい?」


「このままでお願いします」



その後も続く2人の漫才は、自分の心臓の音で、上手く聞き取れなかった。

























































































































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