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第二十三章 【虎視眈々】



わたしは、自分が置かれた状況をわかっていなかったのかもしれない。

みんなに守られ、何かあれば誰かが駆けつけてくれる。そんな甘えが、わたしの大事な人を傷つけた。

結局、わたしに出来る事なんて何もない。

だったら、自分の身を差し出すまでだ。









木曜日、17時。


いつもより早く出勤したわたしは、更衣室の鏡でもう何百回と見たその"痕"を再度確認していた。

これって、どれくらいで消えるんだろう。"キスマーク"をつけられたのが人生初なわたしには知る由もない。


"ごめん。タガが外れた"


──まあ、とっくにいろいろ外れてますけどね。大胆な行動はするのに、口では何も言わない。この曖昧な関係を早坂さんは何とも思わないんだろうか。

側にいられれば、それでいい。それは本心だ。でも、それはいつまで続くんだろう。わたしは、いつまで早坂さんのそばにいられる?



更衣室のドアがガチャリと開き、わたしはシャツのボタンを留めた。


「あれ?なによ、早いわね」


「春香こそ」


「病院が思ったより早く終わったのよ」


「あー、化膿したって言ってたやつ?」


「うん、あの女、バイ菌でも持ってたんじゃないかしら。マジ勘弁」


「あの女?」


「あれ、言ってなかったっけ?」


「怪我してそこが化膿したって話だけ」


春香は左手の甲に四角い傷パッドを貼っている。


「昨日アンタと別れたあとさ、女の人とぶつかったのよ。そしたらその人スマホ落としちゃって。同じタイミングで拾おうとしたら向こうの爪が当たっちゃって。傷自体は大した事ないんだけど、時間が経つにつれてメッッチャ痛くなってきてさぁ。絶対バイ菌持ちだわ、あの女」


──鼓動が、速くなるのを感じた。

なに、今の話。まるで、この前のわたしじゃないか。いや待て、冷静になれ。早合点するな。


「それさ、どんな女の人だった?」


春香は着替えながら怪訝な顔をした。


「そこ気になる?どんなって?」


「見た目、どんな人?」


「見た目ェ?いや、普通の女よ。何処にでもいる。ビビるくらい色白だったけど」


更に、鼓動が速まった。


「髪型は?」 声が少し震えた。


「・・・それ、聞く意味は?黒のロング。腰までの」


目眩がして、わたしはその場にしゃがみ込んだ。


「ちょっ、どしたの?大丈夫?」


──まさか・・・。

え・・・なんで?もしそうだとしたら、なんで春香に?

いや、落ち着け。まだそうと決まったわけじゃない。


「アンタ、顔真っ青よ?貧血じゃない?」


「・・・うん、ゴメン、ちょっと外の空気吸ってくるね」


「ついてこうか?」


「大丈夫大丈夫、すぐ治るから」




裏口から外へ出て、すぐに早坂さんに電話した。ありがたいことに、早坂さんは今回も秒で出てくれた。


「もしもし」


「・・・早坂さん」


「・・・何があったの?」


早坂さんはわたしの声で異変に気づいたようだ。早坂さんの声も張り詰めている。


「どうしよう・・・もしかしたらあの人が春香に・・・でも、そんなことありえないですよね?ただの偶然かもしれないし、考えすぎですよね?」


「雪音ちゃん、落ち着いて。1度、ゆっくり深呼吸しなさい」


言われた通り、わたしは息を吸い込み、ゆっくりと吐いた。


「ごめんなさい、動揺して自分でも何言ってるか・・・」


「春香ちゃんがどうしたの?」


「昨日、女の人とぶつかってスマホを落とした時に、その人の爪で手に傷をつけられたみたいなんです。それが化膿してるみたいで・・・」


「うん、それで?」


「その女の人っていうのが、黒髪で腰くらいの長さで、色が白かったって。わたしが会ったあの人と同じなんです。スマホを落として拾った時に傷つけられたってのも一緒だし・・・このタイミングで、こんな偶然ありますか!?」


「・・・春香ちゃんの傷は?見たの?」


「いえ、パッドを貼ってたので。アザは見えなかったけど・・・どうしよう・・・なんで春香を狙うんですか?あの人が狙ってるのはわたしでしょ?」


「雪音ちゃん、落ち着いて」


「落ち着いてなんかっ・・・」


「1番近くにいるあなたが、動揺してはダメよ。春香ちゃんのためにも。いいわね?」


早坂さんはわたしを落ち着かせるように、ゆっくりと、冷静に言った。


「・・・はい」 わたしはもう一度、大きく深呼吸をした。


「春香ちゃんが傷をつけられたのは昨日よね?あなたの時はその日のうちにアザが出たから、今頃出ていてもおかしくはないはずだけど・・・」


「あ・・・確かに。じゃあ、ただの傷ってことですか?春香もアザが出るとは限らないですよね?」


「こればかりは、なんとも言えないわね・・・ただ、本当にソイツの仕業だったら、確実に目的があるわ。とにかく、注意して見ていて。もしアザが出たらすぐに連絡ちょうだい」


「・・・わかりました」



通話を終え、わたしは急いで更衣室に戻った。

春香はソファーに座り、パンを食べながら携帯をいじっている。


「はやっ、大丈夫?よくなった?」


「え?あ・・・うん、わたしは大丈夫」


「まだ顔色悪いわよ、少し横になったら?」


「いや、大丈夫」わたしは春香の隣に座った。「春香、その傷口、見せてくれない?」


「・・・なんで?」


「あー・・・前にさ、小さな傷から化膿してかなり酷い事になって、もしかしたら春香もかなって」


「いや、あたしの場合、見た目は全然なのよ。ただ痛みが酷いってだけ」


「見せて」


「・・・まあいいけど」


無意識に、手に力が入る。お願い。お願い。


春香がゆっくりとパッドを捲り、わたしは身体の力が抜けて春香の肩にもたれ掛かった。


「よかった・・・」


「だから見た目は全然だって言ったでしょ。てか大袈裟すぎない?薬だって貰ってるから」


「・・・うん。でも、こまめにチェックして。悪化するかもしれないし、ね?」


「アンタ、なんか変よ?大丈夫?」


──大丈夫じゃないよ。春香に何かあったら、わたしは一生自分を許せない。





それからというもの、わたしはまったく仕事が手につかなかった。

なんで?なんで春香が?繰り返される疑問と、先の見えない不安で頭がどうにかなりそうだった。何も出来ず、ただ見守るしかない自分に腹が立った。



「春香、傷はどう?」


「ッ・・・アンタねぇ!いい加減しつこいわよ!何回聞けば気が済むの!?嫌がらせか!?」


「ごめん。でも心配で。どう?」


春香はうんざりしたように息を吐いた。「アンタ、やっぱり今日おかしいわ。情調不安定なんじゃない?ほらっ、変わってないわよ」


傷口を見せられ、安堵する。今日、何度繰り返したかわからない。


「よかった・・・ありがと」


「ったく、アンタのせいで粘着力弱くなったわ。ちょっと変えてくるから、ホールよろしく」


「あい」


春香が更衣室へ行ってすぐ、店のドアベルが鳴った。若い男性1人の来店だ。


「いらっしゃいませ。1名様ですか?」


「あっ、いえ、客ではないんですけど」


「・・・はい?」


「あの、中条雪音さんという方はいますか?」


「・・・中条はわたしですが」


「あっ、よかった。あの、これ」男性はそう言い、手に持っていた物をわたしに差し出した。封のしていない封筒だ。「あなたに渡すように頼まれて」


「・・・誰にですか?」


「わかりません。初対面の女性だったので。具合が悪くなり、届けられないので代わりにと頼まれまして」


「女性・・・ですか。それって、黒髪で腰くらいのロングヘアですか?」


「あ、はい、そうです」


「色白な・・・」


「そうそう、凄く色白な女性です」


──確信した。心の何処かで、これはただの偶然で、ただの事故だと、そう願う自分がいた。でも、そんな事はありえない。春香が傷をつけられたのは、間違いなくあの人だ。

ご丁寧に、わたしのフルネームまで知っている。


「あの、大丈夫ですか?」


放心状態だった。「あ・・・すみません。わざわざありがとうございます」


「いえいえ、では」


「あのっ、その女性とは何処で会いました?」


「そこの地下鉄です。降りたところで声をかけられて」


「・・・そうですか。ありがとうございます」




封筒を持つ手が、震える。見たくない気持ちと一刻も早く確認しなければという気持ちが葛藤する。落ち着け。

春香が戻ってこないことを確認して、わたしはその中身を開けた。


"友人に毒は仕込んでいない。安心したかな? YKビル地下1階Tattooで待っているよ。

もちろん、1人でね"


その時のわたしの感情は、"安堵"以外何もなかった。春香の無事がわかった。それ以外はどうでもよかった。



「あれ?さっきドアベル聞こえたけど、気のせい?」


「・・・いや、なんか店間違えたみたい」


「あ、そう。んで、なんでアンタはそんなにニコニコしてんの?」


「そお?普通だよ」



──これは、わたしに対する警告だ。

わたしが拒めば、周りにいる人間を傷つけると。それは春香だけじゃない、早坂さんや瀬野さんにだって言える事だ。

わたし1人に出向けというなら、そうするまでだ。それで誰も傷つけずに済むなら本望だ。





閉店後、みんなと別れたわたしは手紙に書かれていたビルへ向かった。

店からは徒歩で数分。4階建ての総合飲食ビルだ。フロアの案内板にTattooの名前を確認した。ボディバッグからナイフを取り出し、ポケットに忍ばせる。


「雪音さん」


「ギャ──!!」


心臓が、止まるかと思った。振り返ると、コウモリの姿のテルさんがそこにいた。


「何をしているのですか?」


──しまった。テルさんの存在をすっかり忘れていた。そうだ、この人は常にわたしのそばにいるんだった。


「あー・・・ちょっとこの地下の店で知り合いと約束してまして」


「時間はかかりますか?」


「え?いや、すぐです!すぐ!」──戻って来れるかも、わからないけど。


「わたしも一緒に行きます」


「いやっ!それはダメです!」


近くにいた男性2人組と目が合った。"独り言"を言うわたしに不審な目を向けている。気まずくなり目を伏せた。


「しかし、地下では声も届きづらくなりますし・・・」


そこで、納得した。彼女が地下を選んだ理由が。


「その、デリケートな話なんで、誰かがそばにいるとちょっと・・・」


咄嗟に口からでまかせを言ったが、意外にもテルさんは信じてくれた。


「そうですか・・・わかりました。ですが、長居はしないでください。わたしも雪音さんの行動を制限するのは気が引けますが、全てあなたのためなんです」


テルさんはむしろ申し訳なさそうだった。わたしに張り付く事に罪悪感を抱いているらしい。


「はい、わかってます。無理言ってごめんなさい」




地下へ続く階段を下りながら、わたしは心の中で何度もテルさんに謝った。わたしを守ろうとしてくれているのに、嘘ついてごめんなさい。


真っ直ぐな通路には1番手前にスナックの看板があり、その斜め向かいにBARが一軒。そして、1番奥にある扉のプレート看板にTattooと書かれてあった。中から騒がしい音楽が漏れている。

わたしは意を決して、その扉を開けた。



フロアに立つスタッフの女性と目が合い、すぐにこちらへ向かってきた。


「いらっしゃいませ!お一人様ですか?」


店内のBGMが激しく、女性の声を聞き取るのがやっとだった。


「待ち合わせです!」


「あっ、中条様ですか?」


「・・・はい」


女性は聞き取れなかったらしく、わたしが頷くと笑顔を見せた。


「お待ちしておりました!こちらへどうぞ」


フロアは若い男女で溢れかえっていた。みんなドリンクを片手に身体を密着させ、DJが回す音楽を楽しんでいる。そこを通り抜け案内されたのは、1番奥にある、いわゆるVIP席というやつだ。豪華なソファー席は何個かあったが、そこだけ扉で仕切られている。


扉の前に立つと、鼓動が速まるのを感じた。この中に、あの人がいる。

──ふと、早坂さんの顔が浮かんだ。きっと、怒るだろうな。


「ごめんなさい・・・」


大きく深呼吸をして、わたしはその扉を開けた。



To be continued...





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