「あの
明暁が指し示したのは、
「どうします?」
明暁と並んで路地に潜みつつ、告げられたほうを窺って、子渼は問うた。
明暁は先程、荒事にするつもりはないと言っていた。だからとりあえず、
黒唯基は、三年前の事件で亡くなった
「とりあえず、客桟のご主人にでも、彼がいま中にいるかどうか訊ねてきましょうか?」
子渼が言うと、そうだな、と、明暁は思案する。
「行ってきますね」
明暁の返事を待たずに子渼が路地から出ようとしたところで、けれども、ふと、明暁の手が子渼の動きを封じるようにこちらの腕を掴んだ。
「待て……出てきた」
低く潜めたこえで明暁は言う。
「おそらく、あれだ。――成駕に……面差しが似ている」
何気なしに呟かれたその言葉に、子渼ははっとした。
そして、そうだった、と、思う。
書面上でしか彼らを知らない自分とはちがって、明暁にとって、黒成駕は友人で、唯基はその血を分けた弟なのだ。その事実を改めて突きつけられたような気がして、子渼はなんともやるせないような、複雑な気分だった。
友が命を落とした事件と関係があるかもしれない事案を追い、辿りついたのが友の弟というのでは、あまりにも辛い。
「どうした?」
口を曲げて黙り込んだ子渼を、明暁は不思議そうな表情で見た。
「いえ、その……あの方が犯人でなければいいな、と、そう思って……あなたのためにも」
子渼が口にすると、明暁は一瞬 驚いたように目を瞠った。
「す、すみません。要らぬ感傷を」
子渼は気を取り直して、改めてこの後どう動くかについて問うべく、明暁に眼差しを向ける。
「どうしますか?」
「……行こう」
一拍迷ったようだが、結局、明暁は路地から出た。子渼もその背に続く。
そのとき、ふと視線を上げた向こう――黒唯基だと思われる人物――が、こちらの存在に気がついたようだった。明暁の――錦衣衛の――姿を見て、はっと息を呑んで動きを止めたかと思うと、途端に
反射的に明暁が駆け出した。
「ちょ、ちょっと待って……!」
相手の後を追う彼を、子渼も慌てて追いかけた。
「黒唯基か」
明暁が低い声でゆっくりと問う。
相手は答えなかった。しかし問われた途端に明暁を見据える相手の視線が、き、と、鋭いものになったから、おそらく見立てに間違いはないのだろう。
「錦衣衛を見て逃亡するからには、
明暁は問い詰める口調で重ねて言った。
唯基はますます表情を険しくし、じり、と、一歩後ろに足を引こうとする。しかし、そも、背後は塀だ。間合いを取ることが出来ないとなった瞬間、彼はやや身を低くし、頭上へ手をやった。
「っ、明暁……!」
子渼ははっとした。唯基が
装身具とはいえ、尖った先端で目や首でも突かれようものなら、ただでは済まない。そう思ったら、もう、反射的に身体は動いてしまっていた。
同時に、唯基も動く。髪から簪を抜いて構え、真っ直ぐに明暁めがけて突進した。
明暁は腰に
その間にも唯基が握りしめた簪は振り上げられ、振り下ろされる。
そのほんの刹那手前で、子渼は両手を広げ、明暁を庇うように、相手と明暁との間に身体を割り入れていた。
「っ、う……」
鋭い痛みが身体に走る。刺されたのは左肩だった。
「子渼!」
明暁が悲鳴じみた声でこちらを呼ぶ。肩に突き刺さった簪を唯基が引き抜いたとき、反動で、子渼は
明暁の腕が、ふらついた身体を支えてくれる。子渼は顔をひきつらせつつも、へいきです、と、強いてくちびるに笑みを
「こんなものは掠り傷ですから……それより、早く確保を」
眼差しで唯基を示すと、明暁は子渼の様子を見てわずかに
子渼を刺したことに動揺するのか、唯基は蒼白な顔をして立ち尽くしている。そんな相手に飛びかかると、素早く拘束し、そのまま地に伏せさせた。
明暁は武官、向こうは――子渼と同じような――書生である。後ろ手に腕を
「なぜ逃げた」
明暁は問う。
「科挙の折の
ぐ、と、掴んだ腕を
抑え込まれた唯基はしばらく
その口から、今度は、はは、はははは、と、乾いた笑いが漏れてくる。
「何が
明暁が眉を寄せて訊いた。
はっ、と、唯基は
「だって錦衣衛が僕のところへ来たってことは、もう、わかっているんでしょう。なのに、改めて訊いたりするから……そう、僕だよ。僕が火をつけた。――悪いっ?!」
最後はどこか
「なぜ……」
明暁はそう言ったきり、眉根を顰めて黙り込む。
自らの友の血縁者が捕縛すべき犯人になってしまったことを、彼は痛むのかもしれなかった。いっそ
「そんなことを……よりにもよって、三年前に陛下をお守りした英雄である黒成駕の縁者であるあなたが、なぜ、なさったのです」
静かに問うと、その瞬間、唯基は今度は、き、と、子渼を
「英雄、だって?」
それは、喉の奥から
「英雄? はは、どの口が言うのさ!? あの事件の後、いったい誰が、兄を英雄扱いしてくれた? 陛下を守り、命を落とした兄は……それなのに、爆発に民を巻き込んだと、責められさえ、した」
唯基の口調は、終わりに近付くにつれて弱々しいものになった。消えゆくような語尾が、彼の抱えてきたつらさを、口惜しさを、
けれどもそれ以前に、子渼は唯基の口から知らされたことに、まさか、と、息を呑んでいた。
黒成駕の行為が、皇帝を守ったそれとして称賛されるのではなく、民を不用意に事件に巻き込んだものとして非難されたというのか。そんな声があったとは信じられない、と、子渼は目を瞠った。
「そう、なのですか……?」
ちらりと明暁を窺う。こちらを見ることをしなかった彼は沈黙を続けていたが、否定しないところをみるに、そうした声はたしかに当時聴かれたのかもしれなかった。
「そん、な……」
子渼は驚愕に言葉を呑んだ。