最初は青い薔薇が一輪だった。花言葉は『奇跡』だと、
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事の始まりは四日前だ。この日、舞美は久しぶりに株式会社
勤務四年目で二十六歳の舞美の所属部署は総務部だが、受付業務の派遣社員が休みのための代任だった。
薄ピンクのブラウスに紺のスーツを着た舞美が新人研修のとき以来の任務に緊張した面持ちで立っていると、エントランスの自動ドアが開かれて二人の男性と大量の花を乗せた手押し台車が入ってきた。
「こんにちはー!
明るい声で受付にやってきた舞美と同じくらい年齢と思われる男性は、緑のジャンバーを着ていた。左の胸部分と後ろに社名が白で印字されている。
もう一人の男性は、白のカットソーに濃紺のスーツ姿だ。年齢は舞美よりも上で三十歳前後と思われた。
二人の服装の違いを不思議に思いつつ、舞美は手元のパソコンを操作した。
「ただいま確認いたしますので、少々お待ちいただけますか」
スケジュール表には十時に『高見澤グリーン装花」と入力されていた。
株式会社高見澤グリーンはロビーやエレベーター前、社長室、応接室などオフィス内の花を定期装飾している会社だ。
予定には『社長室から」と補足事項があった。社長室に来客がいた場合は、別の場所からになるのだ。
「いつもお世話になっております。本日は、社長室からよろしくお願いいたします」
「かしこまりました」
舞美は微笑んで、腕に巻くタイプの入館証を渡した。入館証はほかに首からさげるタイプもあるが、作業の妨げにならないほうを選んだ。
「ありがとうございます」と二人は腕に入館証を付けて、エレベーターへと向かった。
舞美が二人の動きを目で追っていると、不意にスーツの男性が振り向いて、足早に受付へ戻ってきた。
どうしたのだろうと首を傾げる舞美に、男性は名刺を差し出した。
「初めてお目にかかりますよね? ご挨拶が遅れて申し訳ありません。私、高見澤葵人と申します」
「えっ、あ、はじめまして! ご丁寧にありがとうございます。私は総務部の
舞美は突然名刺を渡されたことに動揺して、苗字だけを名乗った。葵人は柔和な笑みを浮かべ、なにかを言おうと口を開きかけたが「部長、エレベーターが来ましたよー」ともう一人の男性に呼ばれる。
「今行く! では、行ってきます」
「あ、はい。行ってらっしゃいませ」
「行ってきます」と言われて、思わず「行ってらっしゃいませ」と返してしまったが、おかしなやり取りだったのではないかと二人が乗ったエレベーターのドアが閉まってから、舞美は苦笑した。
それにしても、かっこいい人だったな。
百六十二センチの自分よりも二十センチくらいは高そうだったし、すらりとした体型に端正な顔立ちをしていた。
誰もがイケメンだと認めるであろう人の笑顔に胸が胸がドキッと高鳴ってしまった。
事業部長の高見澤葵人さんか……舞美はもらった名刺をジャケットのポケットに忍ばせて、小さく深呼吸をした。
ただの挨拶に動揺していないで、ちゃんと仕事をしないといけない。舞美は気を引き締めて、業務に取り組んだ。
一時間半が経過した頃、高見澤グリーンの二人が一階に降りてきた。残す場所はロビーだけのようで舞美に会釈して、受付前を通りすぎていく。
受付から横に視線を移すと、木目調のテーブルと椅子が並ぶロビーで作業をする二人が目に入った。
手際よく花を交換していく二人は暑いらしく、脱いだ上着の近くの椅子に掛けていた。
先ほどまで飾られていた花は白が基調だったが、今度は赤が基調となった。赤はこの会社の創業者である会長が好きな色だ。
社名の緋衣はサルビアの和名の
奥さまが好きな花の名前を社名にするなんて、ロマンチックな人だと社員から慕われている会長である。
舞美は会長がロビーの花を見たら、大喜びするだろうなと思った。
緋衣ハウジングは住宅設備機器メーカーで、舞美が今いるビルは七階建てだ。隣には二階建てのショールームがある。
受付に葵人たちが戻ってきて、入館証を返した。
「すべての作業が終わりました。ありがとうございました」
「いつもきれいに飾っていただき、ありがとうございます」
帰っていく二人を見送る舞美の目に床へと落ちるボールペンが映りこんだ。ボールペンは濃紺のジャケット……葵人が脇に抱えていた上着から落ちたのだった。
「あ」
玄関マットに落ちたからか音がしなかったようで、葵人は気付かずに外へ出てしまう。
舞美はすぐに追いかけたかったが、一人しかいない受付を離れられなかった。急用で離れる場合は、総務部か守衛室の社員を呼ばなければならない。
とりあえずボールペンを拾いに行こうとしたとき、エレベーターからぞろぞろと社員が降りてきた。
昼休みの時間だ。
舞美はその人の流れの中に、同期で営業部の
「実咲!」
「舞美、お疲れさま-」
手をひらひらさせる実咲の手を舞美は咄嗟に掴んだ。
「実咲、お願い! ちょっと受付にいてもらえる?」
「いいけど、どうしたの?」
舞美は答えず、エントランスへと急いだ。
四十代の男性がボールペンを拾って、キョロキョロと辺りを見回していた。拾った社員は営業部の課長で、舞美と面識があった。
「すみません、それ……」
「これ、氷室さんの?」
「違いますけど、あの、預かります。落とした人を知っているので」
「そう? よろしく」
差し出した舞美の手にボールペンが置かれる。舞美はそれをギュッと握って、駐車場へと走った。
まだいるだろうか……。
白いワゴン車のバックドアを開けて、荷物を入れている葵人たちの姿を発見する。舞美はボールペンを持つ手を大きく振った。
「すみませーん! 高見澤グリーンさーん!」
舞美の呼びかけに葵人が動きを止める。近付く舞美に目を見開いて、屈めていた腰を伸ばした。
「こちら、落とされていました」
「あ、ボールペン。いつの間に……ありがとうございます」
「いいえ。まだこちらにいらして、よかったです」
「実はこれ、大事にしている物でして……」
ボールペンには『Aoto Takamizawa』と名前が印字されていた。大切な人からの贈り物のようだ。
葵人はジャケットを着用し、内ポケットにボールペンをしっかりと収めた。
「本当にありがとうございます」
頭を下げて丁寧なお礼を伝える葵人に向かって、舞美は両手をブンブンと左右に振った。
「お気になさらないでください。大事な物を無事お渡しできて、よかったです。あの、気を付けてお帰りください」
舞美は恐縮する葵人の気持ちが少しでも軽くなるよう、笑顔を見せた。
「氷室さんは、とてもお優しい方ですね」
「そんな優しいだなんて、当たり前のことをしただけですから」
「いえ、氷室さんが女神に見えました」
「はい?」
耳を疑う言葉が舞美の耳に入ったとき、緑のジャンパーを着た男性が「部長-」と運転席から顔を出した。
「そろそろ出ないと遅れますよ-」
舞美と葵人が話している間に出発する準備が整っていた。葵人は「あ」と腕時計に目を走らせる。
次の予定があるようだった。
「ここで失礼します。本当にありがとうございました」
「はい、お気を付けて」
葵人はペコペコと何度も頭を下げていた。ワゴン車が走り出したのを確認して、舞美は回れ右をする。
戻りながら、葵人の言葉を思い出した。
さっき、あの人、私を女神って言ったよね?
私が女神?
いや、いや、あり得ない……。
ワゴン車が行った方向を振り返ったが、すでに姿はなかった。
舞美は急いで受付に戻り、実咲に向かって両手を合わせる。
「ごめんね! ありがとう」
「ううん、大丈夫だよ」
「せっかくの昼休みが短くなっちゃったよね?」
「大丈夫、大丈夫。気にしないでー。舞美、髪が乱れてるよ」
実咲に指摘されて、舞美はダークブラウンの髪に手を触れる。葵人を追いかけるのに走ったのが原因だ。
「えー、やだ。恥ずかしい」
スマートに葵人を見送ったつもりだったが、ボサボサ頭だったとは……。手で直す舞美に実咲は口もとを緩ませた。
「ちょっとくらい乱れても舞美のかわいさは損なわれないから、大丈夫よ」
実咲は舞美の肩を軽く叩いて、受付から出た。
「そうそう、誰も来なかったよ」
「うん、ありがとう」
エントランスに向かいながら、すれ違うひとりひとりに「お疲れさまです」と微笑む実咲は輝いている。
黒髪のロングヘアは一度も染めたことがないらしくツヤツヤだ。身長は舞美と同じくらいだが、足の長さが違う。ひざ上スカートからすらりと伸びた足はきれいで、目鼻立ちがくっきりした美人顔な実咲は女性が見てもうっとりするくらい品があった。
誰にでも愛想がいいのだが、まったく嫌みを感じない。
ああいう人こそ、女神と呼ぶのにふさわしい。自分ではない……。舞美は改めて、自分自身を見直した。
太ってはいないが、細くもない普通の体型だ。目は大きいほうだが、鼻が丸っこいせいか子どもっぽく見られることが多い。学生のときから大人っぽい女性に憧れていて、あれこれと努力をしてみたものの、思うようにいかなかった。
無理をしても仕方がない、私らしくするしかないと自分で自分を慰めていると総務部の先輩に声を掛けられる。
「氷室さん、代わるね。昼休み、どうぞ-」
「ありがとうございます」
舞美は休憩中の業務をお願いして、外出した。
春の爽やかな風にのって、パンの焼ける香りが漂ってくる。鼻を動かし、吸い寄せられるようにベーカリーショップに足を向けた。