翌日、仕事を終えた舞美はエレベーターで一階に降り立つ。ドアが開くと、上へと行こうする人たちが待っていた。
舞美はその中で親しい人を発見する。
実咲と同じ営業部の慎平は、体が大きい。一九〇センチ近く身長があり、がっしりとした体型だ。学生のときにラクビーをやっていたと言われて、なるほどと頷けた。
「桑名くん、お疲れさまー。今、戻り?」
慎平はエレベーターに乗らず、舞美と向き合った。
「そう。氷室は帰るところか?」
「うん、お先にー」
「おう、気を付けて」
ふたたび慎平がエレベーターを待とうとしたとき、「氷室さん!」と誰かが舞美を呼んだ。
舞美と慎平が揃って、エントランスの方向に振り向いた。そこには、青い薔薇を持って近寄る葵人がいた。
昨日はカットソーにスーツだったが、今日はきちんとワイシャツを着て、水色のネクタイを締めている。
「えっ、あ、高見澤グリーンさん……」
葵人は舞美の前まで歩いてきた。
「高見澤葵人です」
「あ、はい、存じております」
昨日名刺をもらった人だし、まだ名前を忘れてはいない。
葵人は微笑んで、持っていた薔薇を差し出した。
「もらってください。私の気持ちです」
「気持ち? あの、どういった……」
もらってくださいと言われても、「はい」と受け取れなかった。
理由がわからないからだ。
葵人は真剣な表情で、舞美を見つめる。
「青い薔薇の花言葉は、奇跡です」
「はあ……初めて知りました」
きれいな青色は神秘的な感じがした。奇跡だと言われたら、そんな感じもする。
でもだからと言って、なんだというのだろうか。
花言葉を伝える意味がわからない。
「青い薔薇を作ることは長年、難しいと言われていましたが、研究を重ねて実現することができました。なので、奇跡なのです」
「はあ、すごいですね……」
舞美が青い薔薇を見るのは、初めてだった。だから、すごいことなのだろうと素直に思った。
「奇跡の一目惚れなんです」
舞美は目をパチクリさせた。
「一目惚れですか? どなたがどなたに?」
「私が氷室さんにです」
「はい? あなたが私に?」
葵人は「はい」と笑みを浮かべる。
「私は昨日、恋に落ちました。一目惚れという言葉を知っていましたが、自分がそれを実感する日が来るとは考えたことがなかったです。一生縁のない感情だと思っていました。しかし、私は氷室さんに心が奪われたのです。私を追いかけてきてくれて、かわいく微笑まれて、ドキドキしました。ああ、これが一目惚れなんだなと思いました」
「はあ……」
舞美は一目惚れを興奮気味に説明する葵人に対してどう答えたらいいのか、わからなかった。
困惑する舞美の肩を、慎平がポンポンと叩く。
「一輪の薔薇には一目惚れという意味があるんだよ。愛の告白によく使われる」
「そうなの? 桑名くん、詳しいね」
「俺の兄が同じようなことをしたから。兄が用意したのは、赤い薔薇だったけどね」
「へえ、愛の告白に……えっ、告白?」
舞美はギョッとして、青い薔薇に目を向けた。慎平が「アハハ」と軽快に笑う。
「氷室、鈍いな。氷室は今、この方に告白されているんだよ」
「ええっ? だって、こんなところで……えー」
舞美は後ずさりして、周囲を見た。退勤する社員が好奇の満ちた目を向けながら舞美たちの横を通っていく。
突然のことにわけわからなくなっていたら……注目を浴びていたようだ。
ここはまだオフィス内である。
こんなところで目立つなんて、どうしよう!
とにかく、ここではダメだ。
焦った舞美は、葵人に手招きした。
「ちょっと、こちらに来てください」
「はい」
人がほとんど通らない非常階段口に移動する。なぜか慎平が一緒に来ていたが……。
舞美は葵人に「ごめんなさい」と頭を下げた。
「あの、正直言って……困ります」
葵人の顔が悲しそうに歪む。
「受け取ってもらえないんでしょうか……」
沈んだ声で手にしていた薔薇を下に向ける様子に、舞美は自分が意地悪をしている気分になって胸が痛んだ。
しょんぼりされると、かわいそうになってしまう。
だから、つい……手を伸ばしてしまった。
「薔薇はいただきます。気持ちは受け取れませんが」
「あ、もらってくれるんですね! はい、どうぞ!」
葵人の表情が瞬時に明るくなった。舞美は同情してはいけなかったかなと後悔するが、手遅れだったようだ。
うっかり受け取ってしまった薔薇からは、高貴な香りが漂ってきた。
葵人は意気揚々として、自分の胸に手を当てる。
「私の気持ちは氷室さんだけに向いています。いつか、この気持ちを受け取ってもらえるようにがんばりますので、今後もよろしくお願いします」
「よろしくとお願いをされても……」
「明日、また来ます」
「えっ、ここにでしょうか?」
「はい。もしかして、ご迷惑ですか?」
葵人の目は潤んでいた。拒否したら、また落ち込みそうだ。でも、オフィスでまた会うのは目立ってしまうので避けたい。
とはいえ、別の場所を指定して会うのは期待させてしまうことになりかねない。
どうしたらいいのだろうか……。
舞美は楽しそうに観察している慎平をチラッと見た。
なにか言ってよ……助けて……。
慎平は「ん?」と首を傾げて、舞美の目での訴えがなにかと考えるように腕組みをした。
「そうか、うん。会社で会うのは困るんだよね?」
「そうなの」
舞美は自分の戸惑いを理解したらしい慎平に、コクコクと頷いた。
「でも、ここ以外の場所で会うのも困るよね?」
慎平はよくわかってくれている。舞美はうんうんとふたたび頷く。
「そうだな……それなら、せめて会社の外にしたら、どうかな?」
慎平が指差したエントランスの方向に、舞美と葵人は同時に顔を向けた。
そこは会社の外というより、会社の前ではないだろうか?
ほぼオフィス内といえる場所で会うのは、今の状況とあまり変わらないような……。
それどころか、社内の人だけではなく、通行人にも見られてしまう。
舞美は慎平の提案に反対しようとしたが、先に葵人が口を開いた。
「では、明日はあちらでお待ちしていますね。今日はありがとうございました」
「えっ、あ、ちょっと……」
舞美は葵人を呼び止めるために手を伸ばしたが、素早く背を向けた葵人はその手に気付かなかった。行動が早く大股で歩いて行った葵人は、外に出て緋衣ハウジングのビルを見上げていた。
そこで立ち止まるのではなくて、呼んだときに立ち止まって……。
走れば、葵人に追い付けることはできるだろう。
だが、追ってなにを言う?
動きたくても動けないでいるうちに、葵人が動き出した。舞美は遠ざかっていく後ろ姿を見つめて、息を吐く。
「行っちゃった……」
「いやー、面白かったな」
「どこが面白いのよ?」
舞美は笑う慎平を睨んだ。
「俺に怒るなよ。ところでさ、あの人が恋に落ちるような出来事って、なにがあったんだ?」
「たいしたことじゃないんだよ。昨日、私受付をしていたでしょ? で、あの人が落としたボールペンを拾って届けただけ」
「ボールペンを届けただけ?」
「そう。それだけなのに、妙に感謝されて……こんなことになっている」
「へえ、それだけのことでね。恋とは、なにがきっかけになるかはわからないもんだねー。よし、明日も見届けてやるよ」
慎平は楽しそうに笑い、エレベーターに足を向ける。舞美は大きな背中を叩いた。
「見世物じゃない」
「氷室ひとりであの人に会うのは、不安だろ?」
「うーん、まあ、ひとりは嫌だけど」
「なにされるかわからないから、俺が用心棒になってやるよ。任せなさい」
面白がってはいるけれど、大きな体の慎平はたしかにいてくれるだけで頼りになりそうだ。
的外れな提案をする人ではあるが……。
静岡県出身の舞美は、都内のマンションに姉の奈美(なみ)と暮らしている。四歳上で現在三十歳の奈美は、歯科衛生士だ。
夕食作りは交代制で、今日は奈美の当番だった。
舞美が帰ると、奈美がキッチンから顔を出す。
「おかえりー。どうしたの、その青い花……薔薇?」
「うん、薔薇。もらったの。花瓶、あったっけ?」
「洗面所の上の棚にあったと思う。薔薇なんて、誰にもらったの? なんか青い薔薇って意味深な感じだけど」
「あー、会社に来てるお花屋さん。花瓶、見てくる」
舞美はルームウエアに着替えてから、洗面所に行った。箱に入った白い一輪挿しを出して、水を注ぐ。
きれいな薔薇だからできるかぎり長く飾りたいと思い、スマホで長持ちさせる方法を検索した。
水の中に入る葉は取り除く、茎の部分を斜めにカット、毎日水替えをする……調べたとおりに葉を取って、茎を一センチほどカットして生けた。
ひとまず、リビングのローテーブルに置く。
「あそこだと倒してしまいそうだから、あとで玄関に持ってくね」
「そうだね、玄関がいいと思う。ご飯、ちょうどできたよー」
「はーい」
ダイニングテーブルに並んだ料理を食べながら、奈美が舞美の背中越しに見える薔薇を気にした。
「どうして、お花屋さんが薔薇をくれたの? 配っていたの?」
舞美はみんなに薔薇を配る葵人を想像した。ニコニコしながら、配りそうだ。そういう形でもらったのなら、喜んで受け取っただろう。
「違うの。奇跡の一目惚れって言われた」
「一目惚れ? 薔薇をくれたお花屋さんが舞美に一目惚れしたって?」
「うん……信じられないんだけど、青い薔薇には奇跡という花言葉があって、一輪の薔薇には一目惚れという意味があるんだって。薔薇はもらったけど、気持ちは受け取れませんって、断った」
「断ったの? どうして……」
「だって、よく知らない人だよ? かっこいい人だけど、怪しい感じがしたし」
「かっこいい人なんだ。でも一目惚れって、たしかに怪しい」
「でしょ? で、困ったことに明日も来るって言うのよ」
奈美は箸を置いて、「えー」と口を手で押えた。
「明日も? なんのために?」
「よくわかんない。気持ちを受け取ってもらうためとか言っていたけど」
「断られても諦めていないんだ。ストーカーみたいで怖いね。なにかされそうになったら、大声を出して周りに助けを求めるのよ」
「うん、そうする」
舞美は今日の葵人を思い浮かべた。
怪しい人ではあるけれど、危険な行為をする人には見えなかった。だけど、いきなり豹変するかもしれない。
怖い、怖い。
身震いした舞美は食後、薔薇を玄関に移した。