葵人との交際は順調で、舞美の心は満たされていた。
季節は夏から秋へと変わり、朝晩が過ごしやすい九月下旬になったある日の朝、奈美が舞美に尋ねる。
「来月の三連休は、旅行だったよね?」
「そう、北海道に行くの」
「いいなー。北海道」
寿司を食べに行くついでに観光もしようと、二泊三日の旅行を葵人が計画した。とても魅力的なプランになっているので、舞美は今から楽しみにしている。
「お姉ちゃんは、挨拶だよね?」
「そう、緊張するー」
奈美は一週間前にプロポーズをされて、来年結婚する予定で話が進んでいた。
まずは、三連休にそれぞれの親に挨拶を行う段取りだ。
彼氏の家は三重県なので、そちらを先に行って、静岡県の氷室家には翌日に行く予定らしい。
「がんばって」
「舞美たちは、まだなの?」
「私たちには私たちのペースがあるので、気にしないでくださーい」
「まあ、そうよね」
奈美はうんうんと頷いた。
まだ付き合って一か月だ。先のことをまったく考えていないわけではないが、今は交際を楽しみたい。
今週末は美術館に行く予定だ。舞美はなにを着ようかと秋服を思い浮かべたが、手持ちの服が少ないことに気付いた。
「秋服、欲しいな」
「金曜日、挨拶に着る服を買いに行くけど、一緒に行かない?」
「行く!」
仕事を終えてから、駅で待ち合わせることにした。
金曜日、舞美は駅までたどり着けなかった。退勤して、そのまま向かうつもりだったのだが……思いがけない人物に出会ってしまう。
緋衣ハウジングのロビーで、ネクタイなしのスーツ姿の紀之が舞美を待っていた。
「ちょっと話、できるかね?」
舞美は咄嗟に腕時計を見た。奈美との待ち合わせまで三十分しかない。
予定があると断りたいが、ここで断ったら……悪いことが起こりそうな予感がした。
「大丈夫です」と言うしかない。
紀之がエントランスに体を向ける。
「では、車に乗って」
「はい」
舞美は、駐車場に向かう紀之を追った。
車でどこに行こうとしているのだろう……。
不安が募る中、紀之は黒い車に近寄る。
運転手が降りてきて、助手席と後部席のドアを開けた。
どちらに座るべきなのだろう?
迷う舞美に、紀之が言う。
「どちらでも好きなほうにどうぞ」
「あ、はい」
返事をしたものの、舞美の足は動かなかった。
どちらに座るのが正解のマナーなのか、わからない……。
運転手が小声で「こちらへ」と助手席を指した。
「ありがとうございます」
舞美が助手席に体を向けると、紀之は後部席に座った。
舞美は素早く行けなくなった旨を奈美に連絡をして、助手席に乗り込んだ。
それにしても、どこに向かっているのだろうか?
車内は静かだった。
舞美は紀之の様子が気になったが、振り向けない。
どこでなんの話をするのだろうか?
車は見覚えのある景色の中を進んだ。
この先にあるのは、たしか……。
舞美は、以前葵人と訪れた家を思い出した。
「どうぞ降りてください」
到着した場所は、葵人の祖父母宅だった。
外は薄暗いが、美しい庭は前に訪問したときと変わっていなかった。
あれからまだ一か月だから、変わるはずがない。
舞美の気持ちも……。
リビングルームに通された舞美は、紀之と向き合う。
佳子は不在のようで、お手伝いさんが二人分の紅茶を運んできた。
舞美は姿勢を正して、紀之が話し出すのを待つ。
紀之は紅茶に口を付けて、舞美を見つめた。
「葵人とは、どうかね?」
予想していない質問をされて、舞美は戸惑った。
どうとは?
なにを問われているのか、どう答えるのがいいのか……。
「葵人さんとは、楽しくお付き合いができています」
紀之の眉がピクッと動いた。
答えを間違えた?
舞美は不安になって、身を縮ませる。
「楽しいのはいいことだと思うが……なにか困ることというか、違うと思うことはないかね?」
「はい?」
質問の意図が不明だった。
困ることは、なにもない……違うと思うこと……価値観の違いは感じるけど、特に問題はない。
「なにもないです」
「そうかね?」
「はい」
舞美の返答が気に入らないのか、紀之は険しい表情で腕を組んだ。
威圧感のある腕組みをされて、舞美は怯んだ。
怖い……なんのために、連れてこられたのだろう。
「別れたいと思ったことはないかね?」
「はい? ないですが」
「別れてもらいたい」
「はい?」
舞美は目を見開いた。淡々とした感じで言われたが、受け入れがたい要求だ。
「……あの、どうしてですか?」
「あれからよく考えたのが、やはり二人が合っているとは思えない。恋愛は好きなだけしてもいいと思ったが、結婚を視野に入れた付き合いをするべきだと考え直したんだよね」
「そう、ですか……」
舞美はなにを言われているのか、理解できなかった。
すぐに結婚したいとは考えていなくとも、結婚を視野に入れた交際をしているつもりだ。
「結婚は、本人たちの気持ちだけで決められることではない。家と家とのつながりだ。あなたの家とつながって、得られる価値があるとは思えなくてね」
「そんな……」
舞美の心がざわつく。
自分の家を侮辱された気分だった。
結婚は家と家とのつながりだと、舞美も思ってはいる。だが、自分の家がなんの価値もないと言われるとは……。
生まれ育った家庭を悪く言わないで……。
「葵人には、会社の発展につながる人と結婚してもらいたい。申し訳ないが、別れてくれないか」
申し訳なく思っている口調ではない。
膝に置く舞美の手が震えた。
反論したい……でも、できない。
反対を押し切って、もし結婚したら……自分たちはどうなるのだろうか。
幸せになれないのだろうか……。
ううん、幸せになる!
舞美は紀之を真っ直ぐと見据えた。
「別れません」
「なぜ?」
「葵人さんを幸せにしたいからです。私は、葵人さんを幸せにする自信があります」
紀之は「ほお」と言って、紅茶のカップを口に持っていく。
「さすが葵人が選んだお嬢さんだ。頑固だね」
「褒めていただけて光栄です」
「褒めては、いないけどね。あなたの気持ちは、よくわかった。もう少し、様子を見させてもらおう」
舞美の肩の力が抜ける。
今のところ、強引に別れさせるつもりはないようだ。
ひとまず安心したが、油断はできない。またいつか、同じ要求をされるかもしれない……。
帰りは、運転手が舞美を家まで送ってくれた。
紀之に食事を用意するから食べていくようにと言われたが、丁重に断った。
紀之と二人だけでの食事は、喉を通りそうになかったからだ。
マンションに入って、舞美はスマホを見た。
奈美から、がんばってとエールが届いていた。奈美は買い物してから、彼氏を呼んで食事をしているという。
葵人からもメッセージが届いていた。
今日の出来事を伝えなければいけないと思うのだが、どう話そうかと悩む。
迷って、紀之に会ったことだけを伝えた。
すぐに電話がかかってくる。
『偶然、会ったの?』
「おじいさんが私を待っていて、おじいさんの家に連れて行かれました」
『は? 今日、おばあさんはいなかったよね?』
「はい。出掛けていたようです」
『香乃とミュージカルを観に行っていたはずだよ。で、なんの話をしたの?』
舞美は紀之に別れてほしいと言われて、別れませんと返したことを話した。
葵人は絶句した。
『ごめん。そんなことになっているとは……結局、まだ認めてないのか……』
「本当に手強い方ですよね……」
『俺からもハッキリと別れないと話しておくよ。勝手なことはしないようにとも』
「お願いします」
葵人は翌日、祖父と話をしてから舞美を迎えに行くと言った。
舞美は問題なく話ができて、美術館に行けると思っていた。
それなのに、葵人は約束の時間に現れなかった……。