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第39話 別れて?

 葵人との交際は順調で、舞美の心は満たされていた。

 季節は夏から秋へと変わり、朝晩が過ごしやすい九月下旬になったある日の朝、奈美が舞美に尋ねる。


「来月の三連休は、旅行だったよね?」

「そう、北海道に行くの」

「いいなー。北海道」


 寿司を食べに行くついでに観光もしようと、二泊三日の旅行を葵人が計画した。とても魅力的なプランになっているので、舞美は今から楽しみにしている。


「お姉ちゃんは、挨拶だよね?」

「そう、緊張するー」


 奈美は一週間前にプロポーズをされて、来年結婚する予定で話が進んでいた。

 まずは、三連休にそれぞれの親に挨拶を行う段取りだ。

 彼氏の家は三重県なので、そちらを先に行って、静岡県の氷室家には翌日に行く予定らしい。


「がんばって」

「舞美たちは、まだなの?」

「私たちには私たちのペースがあるので、気にしないでくださーい」

「まあ、そうよね」


 奈美はうんうんと頷いた。

 まだ付き合って一か月だ。先のことをまったく考えていないわけではないが、今は交際を楽しみたい。


 今週末は美術館に行く予定だ。舞美はなにを着ようかと秋服を思い浮かべたが、手持ちの服が少ないことに気付いた。


「秋服、欲しいな」

「金曜日、挨拶に着る服を買いに行くけど、一緒に行かない?」

「行く!」


 仕事を終えてから、駅で待ち合わせることにした。


 金曜日、舞美は駅までたどり着けなかった。退勤して、そのまま向かうつもりだったのだが……思いがけない人物に出会ってしまう。


 緋衣ハウジングのロビーで、ネクタイなしのスーツ姿の紀之が舞美を待っていた。


「ちょっと話、できるかね?」


 舞美は咄嗟に腕時計を見た。奈美との待ち合わせまで三十分しかない。

 予定があると断りたいが、ここで断ったら……悪いことが起こりそうな予感がした。


「大丈夫です」と言うしかない。


 紀之がエントランスに体を向ける。


「では、車に乗って」

「はい」


 舞美は、駐車場に向かう紀之を追った。

 車でどこに行こうとしているのだろう……。


 不安が募る中、紀之は黒い車に近寄る。

 運転手が降りてきて、助手席と後部席のドアを開けた。


 どちらに座るべきなのだろう?

 迷う舞美に、紀之が言う。


「どちらでも好きなほうにどうぞ」

「あ、はい」


 返事をしたものの、舞美の足は動かなかった。

 どちらに座るのが正解のマナーなのか、わからない……。

 運転手が小声で「こちらへ」と助手席を指した。


「ありがとうございます」


 舞美が助手席に体を向けると、紀之は後部席に座った。

 舞美は素早く行けなくなった旨を奈美に連絡をして、助手席に乗り込んだ。


 それにしても、どこに向かっているのだろうか?

 車内は静かだった。

 舞美は紀之の様子が気になったが、振り向けない。

 どこでなんの話をするのだろうか?


 車は見覚えのある景色の中を進んだ。

 この先にあるのは、たしか……。

 舞美は、以前葵人と訪れた家を思い出した。


「どうぞ降りてください」


 到着した場所は、葵人の祖父母宅だった。

 外は薄暗いが、美しい庭は前に訪問したときと変わっていなかった。

 あれからまだ一か月だから、変わるはずがない。


 舞美の気持ちも……。

 リビングルームに通された舞美は、紀之と向き合う。

 佳子は不在のようで、お手伝いさんが二人分の紅茶を運んできた。

 舞美は姿勢を正して、紀之が話し出すのを待つ。

 紀之は紅茶に口を付けて、舞美を見つめた。


「葵人とは、どうかね?」


 予想していない質問をされて、舞美は戸惑った。

 どうとは?


 なにを問われているのか、どう答えるのがいいのか……。


「葵人さんとは、楽しくお付き合いができています」


 紀之の眉がピクッと動いた。

 答えを間違えた?

 舞美は不安になって、身を縮ませる。


「楽しいのはいいことだと思うが……なにか困ることというか、違うと思うことはないかね?」

「はい?」


 質問の意図が不明だった。

 困ることは、なにもない……違うと思うこと……価値観の違いは感じるけど、特に問題はない。


「なにもないです」

「そうかね?」

「はい」


 舞美の返答が気に入らないのか、紀之は険しい表情で腕を組んだ。

 威圧感のある腕組みをされて、舞美は怯んだ。

 怖い……なんのために、連れてこられたのだろう。


「別れたいと思ったことはないかね?」

「はい? ないですが」

「別れてもらいたい」

「はい?」


 舞美は目を見開いた。淡々とした感じで言われたが、受け入れがたい要求だ。


「……あの、どうしてですか?」

「あれからよく考えたのが、やはり二人が合っているとは思えない。恋愛は好きなだけしてもいいと思ったが、結婚を視野に入れた付き合いをするべきだと考え直したんだよね」

「そう、ですか……」


 舞美はなにを言われているのか、理解できなかった。

 すぐに結婚したいとは考えていなくとも、結婚を視野に入れた交際をしているつもりだ。


「結婚は、本人たちの気持ちだけで決められることではない。家と家とのつながりだ。あなたの家とつながって、得られる価値があるとは思えなくてね」

「そんな……」


 舞美の心がざわつく。

 自分の家を侮辱された気分だった。

 結婚は家と家とのつながりだと、舞美も思ってはいる。だが、自分の家がなんの価値もないと言われるとは……。

 生まれ育った家庭を悪く言わないで……。


「葵人には、会社の発展につながる人と結婚してもらいたい。申し訳ないが、別れてくれないか」


 申し訳なく思っている口調ではない。

 膝に置く舞美の手が震えた。

 反論したい……でも、できない。


 反対を押し切って、もし結婚したら……自分たちはどうなるのだろうか。

 幸せになれないのだろうか……。

 ううん、幸せになる!


 舞美は紀之を真っ直ぐと見据えた。


「別れません」

「なぜ?」

「葵人さんを幸せにしたいからです。私は、葵人さんを幸せにする自信があります」


 紀之は「ほお」と言って、紅茶のカップを口に持っていく。


「さすが葵人が選んだお嬢さんだ。頑固だね」

「褒めていただけて光栄です」

「褒めては、いないけどね。あなたの気持ちは、よくわかった。もう少し、様子を見させてもらおう」


 舞美の肩の力が抜ける。

 今のところ、強引に別れさせるつもりはないようだ。

 ひとまず安心したが、油断はできない。またいつか、同じ要求をされるかもしれない……。


 帰りは、運転手が舞美を家まで送ってくれた。

 紀之に食事を用意するから食べていくようにと言われたが、丁重に断った。

 紀之と二人だけでの食事は、喉を通りそうになかったからだ。


 マンションに入って、舞美はスマホを見た。

 奈美から、がんばってとエールが届いていた。奈美は買い物してから、彼氏を呼んで食事をしているという。


 葵人からもメッセージが届いていた。

 今日の出来事を伝えなければいけないと思うのだが、どう話そうかと悩む。

 迷って、紀之に会ったことだけを伝えた。


 すぐに電話がかかってくる。


『偶然、会ったの?』

「おじいさんが私を待っていて、おじいさんの家に連れて行かれました」

『は? 今日、おばあさんはいなかったよね?』

「はい。出掛けていたようです」

『香乃とミュージカルを観に行っていたはずだよ。で、なんの話をしたの?』


 舞美は紀之に別れてほしいと言われて、別れませんと返したことを話した。

 葵人は絶句した。


『ごめん。そんなことになっているとは……結局、まだ認めてないのか……』

「本当に手強い方ですよね……」

『俺からもハッキリと別れないと話しておくよ。勝手なことはしないようにとも』

「お願いします」


 葵人は翌日、祖父と話をしてから舞美を迎えに行くと言った。

 舞美は問題なく話ができて、美術館に行けると思っていた。


 それなのに、葵人は約束の時間に現れなかった……。

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