首筋にかけられたその手は恐ろしい罪に染まっているかもしれないというのに、それでも心は幸福に満ちていた…―。
***
「
熱でもあるんじゃないかと心配になるまでに顔を赤く染め、いつにも増して真剣な双眸をこちらに向けている相手の台詞が、すっかり人気を失ったテラスに溶けた。
ちらり。僅かに逸らされた視線がすぐに私へと戻される。テラスに来てからというもの、彼の視線がこうして目的もなく泳ぐのはもう何度目か分からない。コーヒーが入っているテイクアウト用のカップを両手で持ち、飲み口の部分を頻りに指先でなぞっている様は簡潔に言うと落ち着きがない。恐らくだけど酷く緊張しているのだろう。人に好意を告白する際はとても緊張するものだとドラマや小説を通して知っているから、きっとこの推察は間違っていない。だけど生憎、私はその感覚がまるで分からない。
沈黙が流れている。次は私が言葉を発する番で、相手がそれを待っている事は明白だった。彼が手にしている容器と全く同じ容器を片手に持っている私は、どう言葉を返そうかと思案する。
「少しテラスで息抜きしてこない?コーヒーごちそうするよ」まだ残っている仕事と睨めっこをしている私のデスクにやって来てそう誘った
「ごめんなさい」
思案した時間は何だったんだと自分でも思うくらいに、ありきたりで実に短い一言が口を突いて出ていた。
すっかり春の匂いが深くなった風が、頭を下げた私の髪を攫う様に吹き抜けていく。間もなく日没を迎えるせいか、若干の肌寒さを感じた。
最近暖かくなったからと思ってアイスのカフェラテを頼んだのは間違いだったかもしれない。やっぱりホットにしておくべきだった。だって現に、風に晒されて鳥肌が立ってしまっている…「え、それだけ?」
明らかに違う事を考えていた脳味噌が、水野先輩からの一言で現実に引き戻される。
いけない、すっかり意識が別の方に向いていた。テラスから見える外の景色に投げていた視線を慌てて水野先輩へと帰還させれば、先輩は拍子抜けした様な表情を浮かべていた。
「ほら、なんていうかさ、もっとこう、あるじゃん?普通」
「うん?」
「どうして断るのかとかさ、断るにしても理由とかを添えてくれるもんでしょ」
苦笑を滲ませて髪を掻き乱す水野先輩からは、いつの間にか緊張の色が消えていた。女性社員からの人気を集めている端正な顔は、どんな表情を浮かべても崩れる事はないらしい。先輩からも後輩からも慕われていて、仕事もできる。そんな水野先輩がどうして私なんかを好きになってくれたのだろうか。
私なんかを好きになっても、何も返せないというのに…―。
きっと、誰かから好意を寄せて貰える事ってとても光栄な事なのだろう。それだけ自分には何かしらの魅力があるという裏付けでもある訳だから、もっと素直に喜ぶべきなのだと思う。だけど私は、昔からどうも告白を受ける事が苦手だ。告白をされる度に困惑してしまうし、何より自分の欠落した部分が浮き彫りになる感覚がして惨めになる。
実際に今まさにこの瞬間、自分が惨めに感じて仕方がないし、早くこの時間が終わって欲しいと願っている。できる事なら何も言わずにここを立ち去って逃亡してしまいたいくらいだ。
水野先輩は依然として「告白を断る理由」とやらを待っている。それを私が語るまではこの嫌な空気が収束する気配はなさそうだ。
「何で付き合えないの?俺のこと嫌い?」
「いいえ、違います」
「それじゃあ、他に好きな奴がいるとか?」
「それも違います」
「もしかして、既に恋人が…「分からないんです」」
怒涛の問い掛けに追い詰められている気分がして相手の声を遮断する様に開口すれば、相手が微かに目を見開いた。
空いている手が無意識にスカートの生地をぎゅっと握っていた。気づかれない程度に深く息を漏らした後、私に想いを寄せてくれているらしい相手を真っ直ぐに射抜いた。
「分からないんです。好きとか愛しているとか、そういう感情を生まれてから一度も覚えた事がないんです」
自分の欠落している箇所をわざわざ口に出して説明しなくちゃいけないなんて最悪だ。そう思った。
「だから水野先輩とお付き合いできません、ごめんなさい」
改めて告白を断った自分の肌を撫でる風は、ついさっきまで春を知らせるようで心地よかったはずなのに今は惨めな気持ちになる私の心を余計に冷やすだけの物になっていた。
私、
第1話 終