すっかり見慣れた道と景色になったはずのここは、無条件で安堵できる場所だったはずなのに私の唇は込み上げる恐怖で情けなく震えていた。
ここを後にした時は、季節がまだ春の入り口に立ったばかりでは織物がないと全然寒かったし、街路樹の樹々達も一つも葉をつけておらず枝だけだった。それなのに、今では春を知らせる桜もとっくに散って葉を生やし、他の樹々も緑の衣を纏い始めている。
「夢ちゃん、顔色悪いけど大丈夫?」
景色を楽しむ余裕もなく深呼吸を繰り返している私の顔を心配そうな面持ちで覗き込んだのは、義弟の晴だった。
「う、うん。大丈夫だよ」
「本当に?気分が悪そうだよ」
「うん、平気。心配してくれてありがとう」
恐怖が渦巻いている心情を隠すべく無理矢理口角を持ち上げれば、相手は怪訝そうな顔をしながらも「何かあったら言ってね」とこれ以上の追究を諦めてくれた。
連日、ニュースの天気予報コーナーでお天気お姉さんが警告していた、この時期にしては異例の夏日が続いているせいだろうか。それとも、緊張と恐怖による単なる冷や汗だろうか…私の額や首筋、そして背中にはじんわりと嫌な水滴が浮いている。
「それにしても、夢ちゃんが自分のマンションに戻る事をよくあいつが許したよね」
一歩進む毎に確実に近づいている目的地と上昇する心拍数の中、隣から発せられた晴の言葉が唯一、可笑しくなりそうな私の気を逸らしてくれた。
「雨生の説得が大変かもって私も思ってたんだけど、あっさりと納得してくれて驚いちゃった」
「怖いね、雪でも降るんじゃない」
この気温では流石に雪は降らないだろうと思うものの、晴の言葉には私も同意だった。
お義母さんから電話を受けた日の夜、私は意を決して数日以内に自分のマンションに戻ろうと思っている事を雨生に打ち明けた。
例によって彼が駄々をこねると予想していたが、彼はそれを華麗に裏切った。
「そうだね、殆ど何も持たずにここで生活していたし、夢にも仕事があるもんね。寂しくて死にそうだけど、我慢するよ」
「へ?良いの?」
「当たり前でしょ。どうしてそんなに驚いてるの?」
「だって…てっきり帰るなって言われるかと思ってたから」
「そりゃあ帰って欲しくないよ。四六時中ここにいて欲しいし、何なら俺が養うから夢には働いて欲しくないと思ってるよ。でも、夢がそれを望まないからね。夢に嫌われたりしたらそれこそ俺は死んじゃうから、だから…
私の頭を撫でながら開口する彼の声は優しくて穏やかだった。
気合を入れていた手前、呆気なく彼からの了承を得てしまったせいで唖然としている私の首を指先でなぞった彼は続けて言葉を放った。
「それに、夢はまたここに帰ってくる事になるからね。その日を愉しみ独りぼっちを耐えるよ」
まるでそうなる未来が決まっているかの様に、そうなる未来を知っているかの様に断言する雨生が可笑しくて、つい吹き出した私は「もう、占い師じゃないのに分からないでしょ。揶揄わないでよ」自信を含んだ笑みを崩さない彼にそう言ったのだった。
因みに、同じ日にどうして水野先輩の名前を知っているのか。そして、どうやって水野先輩という存在を知ったのかを何度か彼に問うてみたけれど、鮮やかに躱され続けて遂には私が根負けして尋問を断念してしまった。
おかげで彼の口から水野先輩の名前が出た真相と経緯は闇に葬られたままだ。
そして今日、私はいよいよ嫌がらせ行為に悩まされている自分のマンションでの生活を再開させる為に約一ヵ月ぶりに向かっている。
大して量のない荷物を纏めて、雨生のマンションを後にする準備をしていた私の元に晴から連絡が来たのは昨日の夜の事。
『母さんから聞いたよ、夢ちゃん明日自分のマンションに戻るんでしょう?荷物を持つの手伝わせて』
自分でも余裕で運べてしまう荷物だったし、いつもなら晴の手を煩わせたくない一心で断るところだが、どんな嫌がらせ行為が待っているのか分からない恐怖に怯えていた私は藁にも縋る想いで晴に甘える選択をした。
しかしながら、嫌がらせ行為を受けている事実を晴はまだ知らない。だから彼はマンションが近づくにつれ、顔から血の気が失せている私に対し怪訝な表情で大丈夫なのかと訊ねていたのだ。
必要以上に迷惑や心配を掛けるまい。そう思ってはいたが、これからどんな嫌がらせ行為が待ち受けているか分からない以上、晴に嫌がらせを受けている事実が露呈する可能性は十分にある。
こうして同行して貰っている手前、本当ならば予め晴にちゃんと伝えておいた方が良いのかもしれないが、タイミングを掴めぬままここまで来てしまった。
「夢ちゃんのマンションに来るの、かなり久しぶりかも」
「確かに。晴と会う時は私が大蛇家に行くか、外で待ち合わせして出掛ける事が殆どだもんね。人を招ける程の家じゃないけど、いつでも遊びに来てね」
「それじゃあ、お泊りしようかな」
「大歓迎だよ。晴ほど美味しい料理は振る舞えないけど許してね」
「夢ちゃんって無防備だよね」
「へ?」
「そういう可愛い台詞、他の男に言っちゃ駄目だよ」
「どうして?」
「そんなの、俺もあいつも嫉妬で狂っちゃうからに決まってるじゃん」
神経を張り詰めているせいで冷たくなっている私の手を、爽やかに破顔した相手が優しく握って包み込む。
強い風が突発的に吹いて、晴のアッシュに染められた毛先が躍る。胸まで伸びた己の髪も攫われて、ボサボサになってしまわぬように急いで空いている手で髪を護った。嗚呼、このまま私の恐怖心まで吹き飛ばしてくれれば良いのに…なんて思っている内に、私達は目的地に到着してしまった。
当たり前ではあるが、マンションは何も変わらずに佇んでいた。強いて変化を挙げるならば、マンション前に植樹されている銀杏の新緑が眩しくなっている事くらいだろう。
平静を装っているつもりでも、ゴクリと喉が鳴り動悸が更に激しさを増していく。オートロックを解除してエントランスを潜って少し進めば、いよいよ恐ろしい郵便受けが姿を現した。
「そういえば、今日夢ちゃんが出て行く時にあいつ泣いてなかったの?」
隣から投げられた問い掛けのおかげで、目前に迫る恐怖から意識が若干逸れた。視線を巡らせて端正な相手の顔を視界に捉えながら、私は首を横に振って応えた。
「泣いてなかったよ。またすぐ会おうねって笑顔で見送ってくれたよ」
鍵を翳せば、音を立てて私の部屋の番号が書かれた郵便受けが自動で開く。あの小さな扉の先に、今日はどんな恐怖が待っているのだろうか。
「何それ。その台詞も笑顔で見送ったっていうのも…」
“全部、気味悪いんだけど”
苦笑を滲ませた晴の台詞が空間に溶けたとほぼ同時に、なけなしを勇気を振り絞って勢いよく郵便受けを覗いた私は目を疑った。
「え…」
そこにあったのは溜まったハガキや封筒等の郵便物のみで、あんなにも懸念していた嫌がらせ行為はどれだけ目を凝らしてみても、何処にも見当たらなかった…―。
第18話 終