今夜は犀川で北國花火大会が開催される。萌香と芹屋隼人は浴衣を着て出掛ける事にした。浴衣を持っていなかった萌香は、芹屋隼人の曽祖父である尊人の屋敷で浴衣を借りる事になった。
『この浴衣、昔、尊人さんの奥様が花火大会で着ていたものなんですよ』
奥寺さんに勧められた浴衣は、尊人の亡くなった妻が着ていた物だった。萌香がその浴衣を選んだと知った尊人は、『きっとよう似合う』と嬉しそうに目を細めて笑っていた。
(・・・芹屋の家の本物のお嫁さんになったみたい)
芹屋隼人を社長に就任させる為、萌香は婚約者の役割を引き受けたが、尊人の優しさがその決意を揺さぶっていた。申し訳なさが溢れ萌香は微妙な面持ちになった。
「はい!出来ましたよ!」
萌香は奥寺さんの声で我に帰った。奥寺さんは浴衣の帯の形を整えると、伊達帯締めをもう一度結え直した。
「萌香さん、よくお似合いですよ」
ドレッサーの鏡に映る萌香は、可憐なヒナギクのようだった。萌香の頬は自然と緩み、恥ずかしげに目を逸らし奥寺さんに向き直った。
「ありがとうございます!すごく素敵です!」
「坊っちゃま、惚れ直しちゃいますね」
「そう、でしょうか?」
(課長、なんて言ってくれるかな)
萌香は髪型を整え、ヒナギクのコサージュをピンで留めた。
「ええ!保証します!」
奥寺さんは目尻のシワを深くして、笑顔で浴衣の裾を整えた。萌香の心は軽くなったが、浴衣の重みが尊人の信頼しきった笑顔を思い出させた。
コンコンコン
部屋の扉が優しくノックされた。遠くで花火の試射音が小さく響き、萌香の胸が軽く高鳴った。
「ほら、お坊ちゃんですよ」
奥寺さんは気を利かせて、芹屋隼人とすれ違うように部屋を出て行った。バルコニーに差し込む夕日が萌香の横顔を照らし出し、ヒナギクのコサージュが悪戯な風に揺れて床に落ちた。
「かちょ・・・や、隼人さん素敵です」
芹屋隼人は、近江ちぢみ本麻の渋いグレーの浴衣に、米沢織物の臙脂色の帯。前髪を垂らしたその面差しは、静かな男性の色香を漂わせていた。
「落ちましたよ」
芹屋隼人はヒナギクのコサージュを拾い上げると、いつもより柔らかい目で萌香を見た。
「ありがとうございます」
コサージュを受け取った萌香は、ドレッサーの鏡に向かいヒナギクを髪に挿した。すると鏡の中に芹屋隼人が映り込んだ。
「萌香さん、綺麗です」
「やだ、なんですか急に・・・」
萌香が振り向くと芹屋隼人は両手を広げて立っていた。
「なんですか、それは」
「抱き締めたい」
「はい?」
芹屋隼人は目を閉じ、声を低くして呟いた。
「・・・・これでも我慢しているんです」
「隼人さん」
唇を軽く噛んだ芹屋隼人の顔は赤らみ、萌香の胸はキュンと締め付けられた。
「そういえば」
「なにかありましたか?」
「この浴衣、尊人さんの奥様が花火大会に着ていたんだそうです」
「そうだったんですか、大お祖母さんも喜びます」
芹屋隼人は萌香の手を取り、優しく握ってじっと見つめた。互いの視線が熱く絡み合う。遠くで響く花火の試射音が、2人の鼓動のように高鳴った。
「とても似合っていますよ、綺麗です」
「・・・ありがとうございます」
芹屋隼人は一瞬視線を逸らすと、そっと萌香の唇に触れこぼれ落ちる線香花火の雫のように静かに口付けた。
「隼人さん・・・・」
(心臓が止まりそう)
「どうしても我慢、出来なかったんです」
隼人は萌香の手を強く握り、静かに微笑んだ。廊下を進む2人の背に、遠くの花火の音が響いた。
「坊ちゃん!萌香さん!タクシー来ましたよ!」
階下で奥寺さんが声を掛け、萌香と芹屋隼人は顔を見合わせた。
「思わず、花火大会を忘れそうになりました」
「私もです」
浴衣を着慣れない萌香は芹屋隼人と手を繋いで階段を下りた。玄関先では奥寺さんが目を細めて2人を待っていた。
「下駄、用意してありますからね」
「ありがとうございます」
萌香は気恥ずかしそうにお辞儀をすると、タクシーの後部座席に乗り込んだ。タクシーは犀川に向かい、幾つもの交差点を通り過ぎた。
「わぁ、人が増えてきましたね」
「この夏、一番の大きなお祭りだからね」
やがて、浴衣を着た女性の姿が多く見られるようになった。萌香はタクシーの車窓から夜空を見上げた。遠くの花火の音に胸が高鳴った。芹屋隼人の手の温もりは、まだ離れなかった。
ドーン パラララ
「お客さん、ここまでですねぇ」
「分かりました、精算お願いします」
警備員が暗がりで赤く光る誘導棒を左右に振っている。ここから先は歩行者天国だ。車両はUターンで通る事が出来ない。萌香がタクシーの後部座席から降りると、煌々と明るい露店が並んでいた。焼きそばやホットドックの匂いが鼻先をくすぐり、人の騒めきが心躍らせた。
「あ、あ、あぁぁ」
ところが、履き慣れない下駄に足を取られ、萌香は人の流れにどんどん流されていった。芹屋隼人は慌ててその手首を握り、萌香を抱き寄せるとギュッと手を握った。その手の温かさに萌香の胸は跳ねた。
「人が多いですから手を繋いで歩きましょう」
「えっ、手を・・・」
萌香が顔を上げると、芹屋隼人は目を細めて首を傾げていた。
「なにか問題でも?」
「だって・・・誰かに見られたら、恥ずかしいです」
芹屋隼人は目を丸くして微笑んだ。
「手を繋ぐなんて普通ですよ」
「そ、そうですか」
「そうです!さあ行きましょう!」
萌香と芹屋隼人は、賑やかな笑い声が響く露店を見て回った。萌香が『あのクマのぬいぐるみ、可愛いな』と射的の露店の前で呟くと、芹屋隼人は浴衣の袖を捲り上げ空気銃を構えた。けれど残念な事にそのコルク栓は、クマのぬいぐるみに届く事なくポトリと芝生に落ちた。隼人は髪を掻き上げながら、照れ臭さそうに視線を逸らした。
「当たりませんでしたね」
「そうですね」
「隼人さん、意外と不器用なんですね」
恰幅の良い的屋の主人は、萌香にクマのシールを手渡して笑った。
ドーン パラララララ
川面に落ちる花火を見上げ、しばらく歩くと長い行列が出来ていた。
「あっ、隼人さん!りんご飴!りんご飴ですよ!」
「萌香さんはりんご飴が好きなんですか?」
「あの、カリっ!シャクっ!が堪らないんです!」
萌香は大きな口を開けてりんご飴を齧る真似をして見せた。その戯けた顔を見た芹屋隼人は微笑み、愛おしそうに萌香の頬を指で撫でた。
「は、隼人さんっ」
(こんな所で、もう!)
「りんご飴、楽しみですね」
「はい」
萌香の頬は、りんご飴のように真っ赤に色付いた。
「へい、毎度あり」
「ありがとう!」
りんご飴を手にしてご機嫌の萌香と芹屋隼人は、犀川大橋を渡り河川敷に降りた。コンクリートブロックに腰掛けると、コロコロコロコロとコオロギの鳴き声がした。芹屋隼人は、萌香の投げ出した爪先がローズピンクに色付いている事に気が付いた。いつだったか、芹屋隼人が萌香に贈ったジェルネイルだ。
「似合っています」
「ありがとうございます。1番のお気に入りです」
「今度は一緒に買いに行きましょう」
「・・・・はい」
萌香は照れ臭そうに下を向いてりんご飴を齧った。カリカリシャくっ!萌香がりんご飴に夢中になっていると、芹屋隼人がその顔を覗き込んだ。人々のざわめきが遠のき、ただコオロギの音だけが響いた
「そのりんご飴、味見をさせて下さい」
「はい、良いですよ」
萌香がりんご飴を差し出すと、芹屋隼人は萌香の唇に触れる瞬間、彼女の髪にそっと指を滑らせた。
「甘いですね」
「甘い・・・です」
萌香は、優しく触れた唇に一瞬、頭が真っ白になった。
(隼人さん)
萌香は、隼人の温もりに安心を覚えた。ゆっくりと閉じられる瞼、コオロギの鳴き声に合わせて、花火がヒュルヒュルと打ち上げられた。夜空に咲く色鮮やかな大輪の花。萌香の揺れる心を表すかのように、金と銀に輝く枝垂れ柳が川面にパラパラと落ちた。
「これからも大切にします」
「はい」
芹屋隼人は目を細めて萌香の髪を梳いた。
「待っていて下さい」
「はい」
(この気持ちは本物なのに)
この時、萌香は芹屋家と結んだ契約結婚の重さを感じつつ、芹屋隼人の温かな腕に身を任せた。遠くで花火の最後の光が川面に溶け、夜が静けさを取り戻した。