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第9話 追跡者

しばらくしてから気がついたのだが、霧原のパラサイトに変化した手首、首元に爪で引っ掻いた傷がいくつもあった。


あれは自傷行為だったのだと、羊子は後になってから気づく。床には血の痕のほかにも、本棚のあたりに割れたガラスの瓶のようなものもいくつか転がっていた。


「霧原さんこれ–––この瓶なんですか?」


羊子は気づかないふりをして、内側が黒ずんで汚れた瓶の中身を霧原に聞いてみたが答えようとしない。羊子は瓶に鼻を近づけて匂いを嗅かいでみる。かすかに生臭い。もしかしてこれは……。


「これ……もしかして、パラサイトの……?」

『––––そう。その瓶にはパラサイトの肉が入れてあったんだ』


ベッドの上でうつむいたまま、霧原がやっと口を開く。


「え?」

『……ヨーコにまだちゃんと言ってなかったかもしれないけど…おいらたちパラサイトは普通、人間の食べるものが食べられないんだよ』

『体の感覚–––もちろん味覚も寄生された時に変化するから……キリハラはこっそりと、その瓶にパラサイトの肉を入れてた。後から隠れて食べられるように……』


羊子の口からもれた疑問の声に、そばにいたパラサイトくんが答える。


「パラサイトの肉って……。それはつまり–––」


パラサイトは元々は普通の人間だ。赤い月の出ている夜だけ怪物じみた姿になるだけで、それ以外は至って普通。私たちと変わらない。


パラサイトくんが今打ち明けたことは、ようするに人間の肉を今まで霧原は《食べていた》ということになる。


「じっ……人肉食–––カニバリズムは世間じゃ禁忌タブーですよ霧原さん。たとえそれが……パラサイトだとしても」

『……今さら何を当たり前なことを。そんなこと、とっくにわかっているさ』

『だからって止められれば、普通に食事ができればこんな苦労はしない……わかるね?』


霧原はベッドから下りて、羊子のそばまで歩いてくる。手と同じように緑の鱗が覆った裸足の足が床を踏んでざり、という音をたてる。


「霧原さん……ごめんなさい。私には……あなたのその感覚がわかりません」

「普通なら……警察とかに通報すべきなんでしょうけれど、でも」

『でも……何かね』

「私は普段の霧原さんがそういうことをしない人だって知ってますから、だから《今の話は聞かなかった》ことにします。いいですね?」



『……由利香聞こえるか⁉︎ たった今、宵ヶ沼支部内にパラサイトの反応が出た。至急向かってくれ!』


倉橋由利香は公園での監視を15時ごろで切り上げ、部屋をとっているビジネスホテルの一室で寝ているところを麻田からのそんな連絡で叩き起こされた。朝と寝起きの悪い彼女は枕元に置いたスマホを引っ掴んで怒鳴る。


「わかった、今から行く‼︎」


由利香は通話を切ると、クローゼットを開いて赤いフード付きマントを取り出して着た。腰に黒い布を巻いた日本刀を下げ、マントの中にしまいこむ。


(よし……行くか)


イヤホンを着けたスマホを同じ腰につけた小型バッグに入れると、学校指定の革靴を履いてから部屋の外に出た。



夕日が沈んだ頃。霧原の顔の右半分の鱗だらけだった肌は、人間離れした白いパラサイト特有の肌に戻っていた。髪と腕から指先まではいつか見たように、緑一色のままだ。


羊子はそんな奇妙な姿の霧原にも、普段と同じように接することに決めた。それからしばらくの間は霧原の血で汚れた床やベッドを出来る限り布などで拭いたりして綺麗にした。


幸いなことに開いたままのパソコンと机、ワーキングチェアは無傷だったので調査を続行する。霧原は羊子が作業を再開した机から少しだけ離れた壁に背中をむけて腕を組み、その様子を見守る。


「霧原さん、そういえば首と腕の傷は大丈夫ですか?」

『ああ……もうある程度は塞がってるよ。……心配をかけさせてすまないね』


心配する洋子に霧原は黒いシャツの首元と腕のあたりをめくってみせる。どちらの傷口もすでに塞がり、ミミズ腫れ程度の肉の盛り上がりができていた。


「……えっとじゃあ赤頭巾の調査を続けますね。何か気になることがあったら遠慮なく言ってください」

『……了解。そうだ、久しぶりの赤い月夜だからしばらく外を散歩してくる。携帯電話は持っていくから何かあれば連絡してくれ』


霧原はそう言うと常に着ている黒いシャツとベストの上に紺色のレインコートを羽織り、裾のポケットに緑色の折り畳み式携帯電話を入れる。


『なあキリハラ、おいらも一緒に行っていい?』


羊子の手元のキーボードの上から下りて、霧原のそばに寄ってきたパラサイトくんがそう言いながらレインコートの裾ポケットを上目遣いに見上げる。


『それはいいが……柴崎くんのそばにいなくてもいいのか?作業を手伝っていただろう』

「霧原さんかまいませんよ、こっちで何かあれば電話しますからゆっくり行ってきてください」


羊子はキーボードを打つ手を止めて霧原とパラサイトくんのほうを振り返ると、そう言って微笑む。


『そうか、ならお言葉に甘えさせてもらうよ。君、行こうか』


それを合図にパラサイトくんがレインコートの裾ポケットまで霧原の足をよじ登り、すっぽり収まった。



夜の町というのは昼とは雰囲気ががらりと変わり、まるで自分が別の世界に迷いこんだような錯覚に陥る。由利香は赤いフード付きマントの裾を風になびかせながら、自分の姿が目立たないように人気のない路地や道路を選んで駆け抜ける。


「ねえ麻田、パラサイトの現在位置は? そいつ移動はしてるの?」

『今チェックする–––まだ支部内にいる。到着するまであとどのくらいだ?』


由利香は黒森支部と通話状態のスマートフォンに繋いだイヤフォンに尋ねるが、麻田は由利香の質問に質問を返してきた。


「今質問してるのはこっちよ、アンタは余計なこと言わないでとにかくモニターに集中して‼︎ 」

『……り、了解。そうする』


由利香は麻田の返事に対して小馬鹿にしたように小さくフン、と鼻をならす。宵ヶ沼支部の場所は今日の昼に待機場所にしていた公園からの帰りに確認済みだ。せっかくの獲物パラサイトを逃がしてなるものか。



月の出ている夜に外を散歩するなど、普段の自分ならおそらくしない行動だ……これも脳がパラサイトに寄生されているせいなのだろうか。いつからか自分の思考や好みが全く違うものに変わりつつある。


『–––い、おーいキリハラ。おいらの話聞いてる?』


顔のすぐそばでパラサイトくんが呼びかける声がしたので、霧原の意識がふっ、と現実に引き戻される。


『ああすまない、しばらく考え事をしてたんだ。で、何の話かな』

『いや、うんそれならいいんだけど……。あのさ、今夜の食事はどうするつもり?』

『……部屋に隠してた分はさっき全部食べちゃったみたいだし』


パラサイトくんが心配そうな顔でささやく。実はその通りだ。研究室の本棚内に予備としてストックしていたパラサイトの肉はもうない。


『……前に食材調達しに行ったのはいつか覚えてるか?』

『う〜ん……そんなこと急に言われてもなあ。おいらがいちいちメモしてる訳じゃないし』

『そうか……ならいい。今夜なら残飯くらいならありつけるかもしれないしな』


赤い月の夜はパラサイトが出現しやすい傾向から、例の赤頭巾がどこかでパラサイト狩りをしている可能性もある。彼女に遭遇さえしなければ、楽に食材を手に入れるチャンスだ。


『キリハラ今、残飯って……おいらたちはアフリカに住んでるハイエナかなんかだったっけ?違うよね』

『そうだな……私が戦うのさえ苦手じゃなければよかったんだがな』


霧原はパラサイトくんの言葉を肩越しに聞きながら目を細めて苦笑する。


『だね。じゃあ今回もパラサイト狩りの連中は極力避けるようにしよう。おいらはキリハラの周りを見張るからね』

『悪いな頼む』


パラサイトくんがうなずくと、霧原は人気のない宵ヶ沼支部の玄関に向かう。ここだけは夜間でも常に職員が出入りできるよう、鍵ロックが外されている。ただ監視カメラが作動しているので、顔を見られないように霧原は素早く着ているレインコートのフードを目深に被って足早に玄関を通り抜けた。



一方で支部からパラサイト出現の連絡を受けた倉橋由利香は、滞在中のビジネスホテルからほぼ徒歩で宵ヶ沼支部のある廃ビルの前に来ていた。


ここまでの距離は短くないので、由利香の足には若干の疲れがたまってきていた。肩で息をしながら腰に巻いた小型バッグに入れたスマートフォンから繋がるイヤホンを片耳に挟んで、モニター係の麻田を呼ぶ。


「聞こえる麻田?今宵ヶ沼支部の前に来たわ。パラサイトの現在位置は」

『由利香それなんだが、今ちょうどそこの正面玄関から出て近くの立体駐車場に向かったみたいだ』

「はあ⁉︎ なんでそれを早く言わないのよアンタは!」


由利香はイヤフォンに向かって怒鳴り返す。麻田も少し怒ったような声で『だから何度も言ったじゃないか。君が移動中に無視するからだ』と言った。


「……いいから、今すぐモニターを続けて。動きがあったらすぐに知らせて、いい?」

『了解』



宵ヶ沼支部から数十分ほど歩いた場所にある立体駐車場に霧原は来ていた。レインコートのフードは被りっぱなしにして、ゆっくり歩きながら周囲の気配や音に意識を集中させる。


『––––どうだ、誰かいそうか?』


霧原は肩に乗ったまま、周囲を警戒するように見回しているパラサイトくんにそっと話しかける。


『いいや、今のところ異常なし』

『そういやキリハラ、なんで急にこの場所に来たの?』


肩の上でゆらゆら小さな体を揺らしながら、パラサイトくんが問いかける。


『ん?ああいや……先に赤頭巾が来てないかと思ってね。残念ながらまだのようだな』

『そういえばここ、ヨーコと一緒に見ていた赤頭巾の動画に出てた駐車場に似てるけど……まさかそれで?』


霧原はうなずく。パラサイトくんは少し呆れた表情になる。


『ようするに先回りしようとしたの?でも赤頭巾がいるとは限らないし、第一今夜もここに来るかどうかわからないじゃない––––』


パラサイトくんの言葉の最後のほうがそこで不意に消える。彼は霧原の肩の上でわかりやすく身を固くした。こちらに近づいてくる何かの気配を感じとったようだ。


『……どうした?』

『しっ! 誰かがこっちにまっすぐ向かってきてる。どこかに隠れようキリハラ』


パラサイトくんは話しかけようとする霧原を静止させ、口の前に手をあてる。霧原はそれにうなずき、立体駐車場に置かれたままの車体の影に足音をたてないようにして素早く移動する。それから数分とたたないうちに他の足音がその場に響いてきた。


「––––麻田‼︎ 現在位置は」


霧原たちが隠れるのがあと少し遅かったら、おそらく鉢合わせをしていたに違いない。イヤホンを片耳につけ、赤いフード付きマントを纏った少女が息をきらせ走ってきた。彼女は何かに向かって声を荒げている。その腰にはなぜか赤い小型バッグと不釣り合いな日本刀が下がっていた。


『……き、キリハラあれってもしかして』

『赤頭巾だな……どう見ても。童話より物騒なものを持ってるが、投稿された動画に映っていた人物で間違いないだろう』


車体の影から息を潜めながら、パラサイトくんが霧原に小声で話しかける。その間も赤頭巾は誰かと話している。どうも電話をしながら歩いているらしい。


『由利香、パラサイトの反応は君からそう遠くないところだ』

「はあ⁉︎ だから、どこにいんのよ」

『だからそ・こ‼︎ 君から斜め左の車のところだ』


霧原たちがとっさに隠れた車に赤頭巾が近づいてくる気配がした。


『⁈ キリハラ、今すぐ逃げて。アイツがこっちにまっすぐ向かって来てる』


パラサイトくんの警告に霧原はうなずき、しゃがみからの態勢をさらに低くし立体駐車場の床を四つ足で這うようにして反対側の出入り口に向かう。


『由利香、急いで追って‼︎ パラサイトが奥の出入り口に向かって移動してる』

「え? ちょっと待って、今……この場で移動してるの⁉︎ 動く音とか全くしてないんだけど」

『そ、そんなはずないだろ! よく耳を澄ませろ』


イヤホンの向こうから麻田が怒鳴り、由利香を苛つかせる。言われるままに周囲の音に意識を集中させる。駐車場を吹き抜ける風の音、自分の呼吸、スマートフォンからの通話の声……。それ以外のものはない。……いったいどうなってる?


(ああまったく、なんなんだこれ‼︎ こんなの今までなかったぞ)


由利香はいらだちを募らせながら、スマートフォン越しに麻田に話しかける。


「今パラサイトは?」

『もうその駐車場から出た。宵ヶ沼支部に戻ろうとしてる』

「逃がすか……!」


由利香は低くつぶやくと奥の出入り口に向かって突進した。外に続く扉を乱暴に押し開け、住宅街に続く道路に走り出る。月は上空に高く上がり、さらに赤色を増してきていた。



『まだ赤頭巾は追いかけてきてるか⁈』


立体駐車場から脱出した霧原が、住宅街の道路を緑色の長髪と両腕を振って全力疾走しながら肩にしがみついているパラサイトくんにたずねる。


『いや、ちょっと待って……あっやっぱり追跡されてる!キリハラ、もうちょっとスピードでないの⁉︎』

『……無茶を言うな、これ以上走ったらさすがの私でも酸欠になりそうだ』


霧原はそう言いながらきれてきた息を整えようと、一時的に速度を落としかけて–––やはり止めた。背後からする微かな靴音が耳に届いたからだ。


(仕方ない……多少の無理と戦闘は覚悟か)


『……おい、どこでもいいからしっかりつかまれ。支部まで逃げきる』

『え? キリハラさっき無理だって言って』

『うるさい、しばらく黙ってろ……!』


霧原はそう言うなり路面に両手と両足をつけ、四つん這いの態勢になる。目を閉じて意識を足に集中させる。すると足の形状がみるみる人のものから、緑色の鱗を纏った獣の後ろ足のように変化する。


『……行くぞ、舌をかむなよ』


そう言って霧原は、道路を変化させた後ろ足で強く踏んで体をしならせるようにして跳躍を開始する。なのでパラサイトくんは慌ててレインコートのフードの中に避難をするはめになってしまった。



由利香は立体駐車場から逃げたパラサイトを追うため、支部の麻田からの指示にしたがって同じ住宅街の道を疾走していた。さすがに学校指定の革靴は走るのにはむいていない。しまった、足の裏が痛い。


(ああもう‼︎)


由利香は悲鳴をあげかけている足に舌打ちをしながら、スマートフォンに繋いだイヤホン越しに支部の麻田を呼ぶ。


「麻田……逃走中のパラサイトの位置は?」

『え?ああ……君の今いる位置からものすごい勢いで離れていってる』

「……あっそう、じゃあ私が必死になって追いかけても無駄ね。足がもう限界、今すぐに仕留めてやろうと思ったけど」


由利香はそう言って立ち止まる。一気に長い距離を走った反動で、体中から汗がどっと吹き出す。同時に足が震えて路面にへたりこんでしまう。自分が情けない。


『わかった、追跡は中断しよう。いくら本部からの指令でも、遂行する前に君が倒れては困るしね』

「……了解。はあ……じゃ、これからホテルに戻るわ。着いたらまた連絡する」

『了解、追跡お疲れ様。暗いから気をつけて戻ってね』


由利香はイヤホンから流れる麻田の声にうなずくと、通話を終了した。それから疲れた足を引きずり、宿泊中のホテルを目指して今走ってきた道路を大人しく引き返すことには–––しなかった。せっかく追ってきた獲物を取り逃すのが、この上なく悔しいからだ。《悪い狼》は退治するにかぎる。



『キリハラ、ストップ‼︎』


両手足を獣のように変化させ、路面の右端にある歩行者用道路を駆ける霧原の着ているレインコートのフードの中に収まって激しく揺られているパラサイトくんが叫ぶ。今2人は宵ヶ沼支部の入る廃ビルの前に来ていた。


『急になんだ、また追手か?』

『いや違うよ、もう支部の前だよ。逃走成功』


霧原は急に立ち止まった時の体への反動を考慮し、少しずつ走る速度を緩めながら廃ビルの入り口へ近寄っていく。


『そうか……。うっかり通り過ぎなくてよかった。助かったよ』

『いや〜? おいら別に何にもしてないよ。今夜逃げきれたのは、ほぼキリハラのその手と足のおかげ』


パラサイトくんはフードの中から出てきて霧原の左肩に乗り、右手で彼の長い鍵爪の生えた爬虫類–––だと思っていたが実は近くで見ると太古の恐竜のそれに近いような鱗が覆う指先が三叉に分かれた手と足を差す。


『ねえねえ、さっきの足とかどうやってやったの? おいらあんなの初めて見たんだけど』


パラサイトくんは好奇心で目をキラキラさせて、霧原にたずねてくる。正直なところあれを自分がどうやったのかがわからない。あの時ただ強く、走りたいと思っただけだ。


『これじゃあますます……私は化け物だな』

『え? キリハラ今なんて言ったの』

『いや、何でもない。ただの独り言だ。さ、柴崎くんのところに戻ろう』

「お話中のところ悪いんだけど……今すぐに斬らせてくれない?」


どこからともなく、不機嫌をむき出しにしたような声がした。霧原もパラサイトくんも身構える。


『……誰だ』

「別に?名乗るほどの名前なんてないけど……そうね、赤頭巾っていえばわかるかしら?」


廃ビルから奥に続く住宅街の一角から、ゆらりと赤いフード付きのマントを着た人物が現れる。その腰のあたりから黒い布に包まれた長方形のものがのぞいている。


『……君が今巷ちまたで噂の赤頭巾か?パラサイト狩りをしているらしいな』

「あれ?なんだおじさん、アタシのこと知ってるの?だったら説明の手間が省けた……わ‼︎」


由利香は素早く腰の日本刀に手をかけて抜刀し、獲物めがけて振り下ろす。霧原が後ろへ跳んで避けたので、刃が路面に当たり、小さく火花が散った。


『刀を鞘に納めろ。私には君と戦う理由がない』

「はあ?パラサイトが何言ってんの?黙ってアタシに今すぐ狩られろ‼︎」


由利香が再び間まを詰め、霧原を狙って斬りつけてくる。刃先が当たるギリギリのところでかわすが左肩口から斜めに袈裟斬りを食らい、さらに右の太腿を斬られて傷口から血が流れ出した。


(……口で言っても無駄か)


霧原は由利香から一定の距離を保ちながら、つけられた傷の痛みで歯を食いしばる。


「おい、もう終わりかよ?」


由利香はわざと、相手を煽るように言う。まだだ、この程度では物足りない。


『キリハラ……アイツやばいよ、体に怪我してるし逃げよう』

『……そうしたいのはやまやまだが、彼女が許さないだろう。だからもうしばらく付き合う』


パラサイトくんに聞こえないほどの声で小さくそうつぶやいた霧原は、彼の忠告を無視して由利香に向き合う。


「さっきみたいに逃げないの?いいよ逃げて、ほら早く」


由利香は霧原を見ながら、唇を歪める。


『君は……パラサイトが何か、考えたことはあるのか?』

「へ?何、何よそれ。パラサイトのアンタが人間のアタシに説教する気?」


由利香は苛立ちを隠さずに表情に出す。細い眉根に皺がよる。


『どうなんだ?あるのか、ないのか』

「……ないわよそんなの。だってパラサイトなんて《人間じゃない》もの」


由利香はさも当然だと言うかのように吐き捨てた。その言葉が霧原の神経を逆撫でにしていく。


『……お前、それ以上言ったら噛み殺すぞ。取り消せ‼︎』

「もしアタシが嫌だって言ったらどうするの?やっぱり噛み殺す⁇」

『……貴様ッ‼︎』


霧原の怒りがついに頂点に達した。正面に立つ由利香に向かって突進し、首の頚動脈を狙って右前足を振り下ろした。


「そう簡単にやられるかよ、ばーか」


由利香はひらりと、頭をそらせて霧原の振り下ろした爪をかわす。間髪いれずに刀の刃のない側を飛びかかった霧原の腹へ向けて水平に当てて峰打ちする。


『……ぐうっ⁈』


腹部に激しい衝撃がきて、霧原は道路に背中から叩きつけられた。腹と背中の痛みでうまく息ができない。


『キリハラ‼︎ 大丈夫⁈』

「あれ?アンタもパラサイト? 無理だよ。さっき思いっきり峰打ちしたからしばらく立てないよソイツ」


由利香は刀を鞘に納めながら、倒れた霧原にゆっくりと歩み寄る。


「……あーあ。やっぱりおっさん相手だと気乗りしないな〜。なんか急にやる気なくなったから、今夜のところは見逃してあげる」


由利香がしゃがみこんで膝をつき、霧原の顔の近くでそう囁いた。


『……なら、2度と会いたくないね』

「あっそう。じゃ、お大事に。次に会った時は……絶対容赦しないから」


由利香はニヤリと笑うと、そのまま去って行ってしまった。霧原は痛む体を起こして、なんとか立ち上がる。


『キリハラ、大丈夫……?』


霧原はパラサイトくんの質問には答えずに、支部の入り口のドアを怪我をした足を引きずるようにしながら押し開けてくぐる。フードは逃走の際に脱げたままなので、一応監視カメラをパラサイトくんに警戒させながら待合フロアを通り過ぎる。しんとした支部内を出来るだけ静かに、自分の研究室に向かう。


『……ヨーコ、ただいま』

『柴崎くん、ただいま』

「おかえりなさい……って怪我してるじゃないですか⁉︎ 後もう、どこまで行ってたんですか。あんまりにも帰りが遅いんで心配して今電話しようかと思ってたんですよ。とりあえず、すぐに浅木さん呼んできます‼︎」


研究室のドアを開けた直後、入ってきた2人を迎えたのは眉をつり上げて口をへの字に結んだ羊子の姿だった。


『……それは……すまない。次からは気をつける』


霧原は主人に叱られた犬のように頭を低く下げながら、羊子の座っているワーキングチェアのそばに両手足をつけたまま歩み寄る。


「謝るのはいいですけれど、せめてどこに行っていたのか後から説明してください」

『……昨日から調べていた赤頭巾の動画に映っていた駐車場を見に行っていた。そうしたら、赤頭巾本人とばったり出会って–––とにかく振り切ってここまで逃げてきたら、先回りされてこのザマだ』

「ええ⁈ なんでそんなことしたんですか、下手したら霧原さん赤頭巾に殺されてたかもしれないんですよ」

『……それは、その––––』


次の言葉を継げずに咳払いをする霧原に、肩の上に乗っているパラサイトくんが助け舟をだす。


『それは……キリハラが夕方ごろにパラサイトに変身した時に、そこの本棚に隠してた瓶を割っちゃって中身を全部食べたせいだよ。ヨーコも見たよね』

「瓶……ああ、あれーーパラサイトの肉が入っていたやつね」

『そうそう。おいらたちパラサイトが人間の肉を食べる話はその時したよね? だから足りなくなった分を調達しようと思って出かけたんだけど……結果はさっきキリハラが言ったとおり』


パラサイトくんはそれだけ一気にしゃべると、ふう……とため息をついた。霧原はなお、羊子の足元で顔をふせてバツが悪そうにしている。


「……そう。だいたいの話はわかったわ、ありがとう。霧原さんも、もう私怒ってませんから顔を上げてください」


羊子がそう言いながら霧原の顔の前に右手を差し出す。


『……ああ』


霧原は差し出された羊子の右手をかたちが歪な左手でつかんだ。羊子がそのまま手を自分のほうへ引き寄せて、その場で立たせる。


「……あれ?霧原さん、なんか手と足のかたち変わってませんか」

『赤頭巾から逃げる途中にちょっとね……』


羊子はそこでやっと霧原が部屋に入ってきてからずっと立たずにいた訳がわかった。両足が人間よりも動物に近い形状になっている。これでは真っ直ぐに立つのは辛いだろう。羊子は霧原と繋いだ手をゆっくりと離して床に押し戻す。


「えっと……あの、やっぱりいいです。霧原さんにとって楽な姿勢でいてください。なんだか無理に立たせてすみません。浅木さん、呼びに行ってきます」

『いや、別にいい。私もこれは予想外だったからね。明日の朝には戻るといいんだが』


霧原はそう言って大人しく元の態勢に戻る。変化した両足を横に開き、前足を床について座りこむとまるで犬か何かの動物がおすわりをしているように錯覚してしまう。


ただし顔や頭部のまわりは肌の白ささえなければ、人間と差異のない見た目なので羊子は少しだけ複雑な気持ちになる。浅木を呼びに行こうと、研究室のドアに手をかける。


「戻るといいですね、足。そういえば……霧原さん私、今急に思い出したことがあるんですけど」

『……それは何だね?』

「ええと–––今日って月が赤いじゃないですか。たしかパラサイトが出やすいんですよね。じゃあ……パラサイトに成り立ての黒河さんみたいな人ってどうなるんですか?」

『……柴崎くん、よく気がついた。今すぐに黒河くんの自宅に電話を』

「はい!」

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