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第18食:涙色の飴玉

この付近は、よく人が道に迷うというか、迷っている感覚になるくらいの遠い道のりを歩くことになる、と彼女―――白岡悦子しらおかえつこは思う。彼女は玄米など農業を愛する男性と結婚して、ずいぶん長い年月が経ったことに気が付いた。

子どもたちは大きくなって、成人して、孫もいる。結婚していない子もいるのだが、そんなことが気になるような時代ではなくなっていることは、悦子もよくわかる。若い人が自由にできる時代。それの良さを自分たちだって、こんな田舎暮らしを自由にさせてもらっているのだから、感じているのだ。


悦子はその日、いつも通り夫を見送って、家のことをした。農家と言っても、もう無理をせずに、できる範囲でやっていこうと話し合っている。無理をすれば、子どもたちに迷惑をかけてしまうから。そんな夫婦の思いを知ってか、最近は特に子どもたちにはトラブルがないようだ。仕事が上手くいかない、孫に手がかかる、お金の問題、健康のこと―――自分たちも通ってきた道だから、悦子にはよくわかっている。でもそんな話を聞かないので、少しはいいのかな、と思うようにしていた。

庭に出て、ちょっと野菜を収穫する。小ぶりの大根、葉っぱ付き。この葉っぱは刻んで炒めて、ご飯に混ぜると美味しい混ぜご飯になる。大根の葉っぱと聞けば、貧乏くさいだとか、不味いとか、調理の仕方がわからない、と若い人は言うだろう。でも、悦子くらいの年代になれば、それくらいどうってことなかった。かつてはこれが美味しいおかずの1つであったし、ちょっと工夫すれば、きれいな彩りにもなってくれるからだ。

「よし、今日は大根を」

大根を握って顔を上げた時、林の向こうから猫が来た。近所、と言ってもだいぶ離れた近所なのだが、そのご近所さんの猫だと思う。首輪をしているし、以前見た時と同じ色合いの猫だ。スマートな猫じゃなかった、というのもあって、とても印象深く残っている。茶色のしましま猫は、割とぽっちゃりさんだったはず。


猫に声をかけようとした時、林の向こうから人が来るのがわかった。こんな当たりに人なんて、いやしない。だから、人の気配に敏感だった悦子は、林の方から来る人を見て、驚いた。若い女性―――こんな人、近所にいなかったと思うけど、と思った時に思い出す。

近所のペンションのご夫婦が、事故で亡くなったこと。葬式に参列した時、彼女がいた。つまりは、あのご夫婦の娘さんか。あの土地は、ご夫婦の前の代から住んでいたけれど、カフェができるまでは普通のご近所さんだった。ご夫婦がマイペースにカフェをしている、と聞いたから、時々覗くようになっただけ。こんな田舎にカフェなんて、と思いながらも、あそこに行くとちょっとだけ若い時の気分になれる。だから、悦子は1人でカフェを楽しむことも稀にあった。

でも、そこの娘さんに会うのは、葬式以来のような。都会に出ているとは聞いたが、戻ってきているにしては少し時間が経ちすぎている印象だ。葬式が終わってもう数ヶ月―――まさか、その間あのペンションに彼女は1人だったのだろうか。

「ニャー、待ってよ!」

明るい女性の声に、悦子は驚く。こんなに明るい声を、久しぶりに聞いたからだ。我が家には若い人はいない。みんな出て言って、近所や農家つながりの人たちのところでも、そんなに人は多くない。高齢化の波は、目に見えていたけれど、こんなところで気づくなんて。人間とはそんなものかと、悦子の頭にはいろいろなことが浮かんだ、やはり高齢化の波。考えがすぐにはまとまらない、それくらいに悦子は年を取っていた。

「ニャーってば!」

猫は女性を無視して、悦子の前へ来る。悦子は、ただそこにいたのだが、気づけば猫と女性が目の前にいた。

「あ、すみません!うちの猫についてきたら、その」

「あらあら……えっと、ペンションのお嬢さんかしら」

「はい、中野瀬です。中野瀬純子です!」

小柄な女性だが、活発な印象で、可愛らしい。でも確かに疲れた顔も少しだけだけれど、感じられた。

「すみません、お邪魔しました!もう、帰ります!」

どこに、と悦子は思った。あの誰もいないペンションに、こんなに若い女性が1人で帰ると言うのか。

「ちょっと」

「は、はい!」

「時間はある?」

「え?」

「ちょっと、このおばさんの相手をしてくれない?暇なのよ」

本当は別に暇じゃない。掃除も洗濯もあるし、やろうと思えば、なんでもやることはあった。でも、今は彼女と時間を過ごしてもいいかもしれない、と思う。


純子は、時間があると返事をして縁側に座った。ニャーは我が物顔で、縁側に丸くなって寝ている。

「はい、お茶」

「ありがとうございます……」

「ごめんなさいね、呼び止めて」

「いえ、平気です。こちらこそ、お茶をいただきまして……」

「そんなに固くならなくていいのよ。お宅のカフェには時々足を運んでいたわ。お母さんのケーキ、美味しかったの」

悦子がそう言うと、純子は彼女を見て微笑んだ。その笑顔はとても純粋で、可愛らしい。

「あなた、何でも食べられる?年寄りの家だから、ハイカラなものは置いてないのよ」

「え、そんな、急に来たのに、いただくなんて……」

「だから、選べないわよ、いいでしょ?お味噌汁と大根の葉っぱの混ぜご飯くらい」

「大根の葉っぱですか!?」

大根の葉っぱ、と聞いて純子の目は輝いた。キラキラと輝く目は、まるで子どものように可愛らしい。このまま、うちにいてくれないかな、と悦子が思ってしまうくらいだ。

「あれ、美味しいですよね!よくお母さんが作ってくれたんです!」

そうだったのか、と思うと悦子は微笑む。少しくらい、彼女の心の傷が癒されたらいいな、と思うのだ。彼女にとって、両親を一度に喪ったことは、かなりつらい経験だっただろう。いつか来る別れだとしても、早くて、急すぎる。

「じゃあ、ちょっと待っていてね。そうだわ」

エプロンのポケットに手を入れると、飴玉が出てきた。好きだから買ったわけでもなく、時々恋しくなる甘さだから買ってみただけのこと。夫にも2粒持たせて、送り出した。その時に自分の分だと思って、突っ込んだ代物だ。

「飴玉。食べてて」

「ありがとうございます」

細くて小さな手は、少し荒れていた。都会の女の子は、みんなきれいな手をしているんじゃないのか、と悦子は思ったが、何も言わない。きっとペンションの中や、カフェの中を片付けているのだろう。あそこはいずれ、なくなるのかな、とふと思うが、それも仕方がないこと。悦子に決める権限はない。


純子とニャーを縁側に残し、悦子は台所に立った。小ぶりの大根を丁寧に洗って、葉っぱを切り落とす。大根自体は鍋に放り込み、味噌汁へ。葉っぱはサクサクと細かく切った。切れた葉っぱをごま油と醤油で炒め、米の中に入れて手早く混ぜる。最後に炒りごまを振りかけて、完成だ。簡単だけれど、栄養が豊富で美味しい料理。

「いやだわ、玄米が食べられるか聞くの忘れちゃってた」

若い人は玄米なんて知らないかもしれない―――精米した米がほとんどだから、こんな色と見た目の米を見て、驚きはしないか。心配になって、縁側に足を運んだ悦子は、そこで小さくなって泣いている純子を見た。

まるで子どものように、小さくなっている。お父さん、お母さん、と漏れる言葉が、とても幼かった。いや、両親の死は子どもにとって、つらいこと。だから純子は幼くなるしかないのである。もらい泣きしそうになる前に、悦子は台所に戻った。


お盆に、味噌汁と混ぜご飯を載せる。

そして、その横には飴玉を添えた。

この甘さで、少しでも彼女の心が癒えるといい、そんなかすかな願いを込めて。


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