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第10話 脱出

 東の空がわずかに白み始め、やがて朝日が顔を出すと、空と海は柔らかな橙色に染め上げられた。アクパーラ号は曙色の波間を力強く切り裂き、白い飛沫を高くあげながら進んでいった。


 最下層でもエンジン音が大きく唸なり、営倉の壁の向こうから微かに水の跳ねる音がして、船が動き出したことを知ることが出来た。


「カーラ、船が動き出したみたいだ。」


 カーラも顔を上げた「はい、どこに向かうのでしょうか?」

「港へ帰るのだろう。港に入ったらカーラ、保全庁に連れて行かれて何をされるかわからない。」

 カーラはにっこり笑った「ノーマン、あなたが居てくれるのなら耐えられます。」

 ノーマンの心にチクリと刺すものがあった。


 突然、鉄格子の電子ロックがカチャリと開いた。「なんだ?」ノーマンは外に出てカーラの部屋を見た。カーラの部屋の鉄格子も開いていた。

「ノーマン、これは?」ノーマンも首を振った「わからない、でも誰かが開けたのは確かだ……」


 ノーマンが持っている短波ラジオから突然声が聞こえた。

『ノーマン聞こえるっすか?有田っす、こちらからの一方向通信なのでよっく聞いて欲しいっす。今、木村さんがハッキングして営倉の鍵を開けたっす!出航直後でみんながバタバタしている今こそ、そこから抜け出すチャンスっす。営倉から出てクレードルの中に入るっすよ。』

「無茶を言うなあ……」ノーマンが呆れて言った。

『今、船の中はカーラさんを破滅の天使と思いこんでいる連中がいて危険なんっすよ、それに保全庁の連中にも好き勝手させたくもないっすからね。カーラさんだけでもクレードルに隠すっすよ。わかったら監視カメラに向かって親指を立てるっす!』ノーマンはカメラに向かって親指を立てた。

『じゃ!クレードルのデッキで待ってるっすよ!』

 確かに営倉にいたままだと何をされるかわからない、クレードルの方がはるかに安全だろう。

「カーラ、行こう。」ノーマンが手を差し出した。ノーマンの手を前に、カーラは一瞬動けなかった。自分がその手を取ることが許されるのか、自信がなかったのだ。


「行こう!」


 ノーマンの目は迷いなく、ただ彼女を信じていた。「行こう」という声にカーラは自分の罪がわずかに軽くなるような気がして、その手をしっかりと握り返した。ノーマンも再びカーラを見つめ、その手をしっかりと握った。

 ノーマンとカーラは外に向けて通路を走って行った。


 木村の部屋でPCのモニターを見ていた有田と木村は、ノーマンが出ていく姿を見て「ふーっ!」と息を抜いて脱力した。モニターの映像はもちろん木村が監視カメラをハッキングして写し出したものだ。


「よーし、これで第一段階は完了っと!」木村がつぶやくと、有田は息をつく間もなく言った。


「次が難しいっす。前後多難っすよ」


「それ、前途多難が正解な……」


「……うす」


 木村がPCを操作すると、ノーマンとカーラが通路から通路を歩いている映像に切り替わった。別ウィンドウには階段の上に設置されている監視カメラの映像が表示され、船員が歩いている姿が見えた。

 有田はマイクを持つと「あ、ノーマン、角に人がいるから止まるっす!」と指示を出した。ノーマンは通路の途中で止まった。


 モニターを見ていた木村がふと気づいた。

「おや、加藤じゃん?……なんでこんなところに?」画面の中で加藤が一人で何か剥き出しの配線と電池の入った小箱を手にしてにやりと笑っていたのだ。

 背筋に寒いものを感じたが、目を逸らせた隙にいなくなってしまった。「加藤……?」木村の中でなにか胸騒ぎがしたが、今加藤を追いかける余裕はない。


 監視カメラを切り替えようと木村がキーボードを叩いた瞬間、部屋がひっくり返るような激しい揺れとお腹に響く爆発音がした。

 木村が思わず「キャーッ!」と悲鳴を上げた。

「木村さんなんかしたっすか!?」

「ええええ!私じゃないよう!」

「なら、ガチでテロに爆破されたとか?」

「そんなことは思いたくないけど……まあ、現実は裏切らないよねえ。」

「……ききき、木村さん、落ち着くっすよ。」

「私より落ち着きないあなたに言われたくないわい!」

 木村のPC画面が一瞬ノイズを走らせ、次の瞬間――すべての監視カメラ映像が消えた。


「えっ!? ま、待って!?」

「ちょ、木村さん、また何やらかしたっすか!」

「何もやってないってば!これ、ハッキングじゃなくて……何かがシステムごと落ちた!?」

有田は唖然とした表情で黒いモニターを見つめた。

「ちょ、待て待て待て!今、ノーマンたちどこ!?」

「わかんないってば!くそっ!」

 キーボードを叩く木村の指は震えていた。



 ノーマンとカーラが後部デッキへの階段に向かおうとした時、突然、轟音とともに左舷側で爆炎が弾け、船体が揺れた。

一瞬、重力が狂ったように床が傾き、ノーマンは膝をついた。

「ノーマン!」カーラが支えようとするが、衝撃で床の鉄板がミシミシと軋む。

通路の天井から塗装片がパラパラと剥がれ落ち、壁の配管から白い蒸気が噴き出した。

「こりゃ、相当ヤバいぞ……」ノーマンは息を呑んだ。

背後で警報が鳴り響き、消火班の怒鳴り声が響く。

 カーラを庇おうとしたノーマンは壁の角に脚を激しくぶつけた。右脚に激痛が走る。


「ノーマン!」カーラが壁にもたれるノーマンのそばに駆け寄った。


「どうして私を庇ったのですか?ノーマン。私は……あなたが傷つくのを見るのは耐えられない!」


「君が大事だからさ。」ノーマンは脚の痛みに顔を歪めながらも、真っ直ぐにカーラを見た。


「ノーマン!脚から血が出ています、私は自分を犠牲にしてでも守る側になりたいと決めたのに……」カーラは無力感にかぶりを振り、視線を落とした。


 ノーマンはしばらく黙ってから、静かに言葉を選んだ。


「守る存在になりたい、か。それは素晴らしいことだと思う。でもさ、守るってことは、一人ですることじゃないんだよ。」


「一人じゃない……?」カーラは戸惑ったように顔を上げた。


「そう。誰かを守りたいと思うなら、まずは自分も誰かに守られることを受け入れるべきだ。守り合うっていうのは、そういうことだから。」ノーマンは優しく微笑んだ。


「僕だって、君に守られる日が来るかもしれない。でも今は、こうして僕が君を守りたいんだ。」


「……私が、誰かに守られることを?」カーラは複雑そうな表情でノーマンを見つめた。


「僕もね、昔、一人じゃ生きていけないってことを痛感した時があったんだ。誰かが僕を信じて、守ってくれた。だから、今度は僕がその役を果たしたいんだよ。」


「そう……なんですか?」


「ああ。」ノーマンは静かにうなずいた。


「罪や過去のことは関係ない。君が何を目指しているか、どんな未来を作りたいか、それが大事なんだよ。」


 カーラはしばらく考え込むように沈黙していたが、やがて小さく息をついた。


「わかりました……。でも、いつか必ず、私もノーマンを守れる存在になります。」


「それで十分さ。」ノーマンは右脚を押さえながらも立ち上がり、カーラに手を差し出した。


 「さあ、今は一緒にこの状況を乗り越えよう。」


 カーラはその手を見つめ、そして力強く握り返した。


「はい……。一緒に。」


 ノーマンはカーラの肩を借りて,デッキに上がる階段を登った。


 ブリッジでは小峰が状況把握に追われていた。

「機関停止だ!機関停止!」

「機関室!応急指揮所!何が起きた!?」

「燃料タンク付近で小規模な爆発?」

「配管が破損?消化班を向かわせろ!」

「タンクのバルブも締めろ!早く!」

「オイルフェンスの用意も忘れるな!」矢継ぎ早に報告が上がるなか、次々指示を出していた。

 応急指揮所にいる機関長から「左舷側燃料配管から燃料が漏れ、通路でガス化した燃料に引火した模様です」と報告が上がってきた。


「要員以外の人間はデッキに避難させろ!」小峰が指示を出した。


 来賓室で星野は額に滲む汗を乱暴に拭い、歩き回りながらスマホで電話をしていた。机の上に置かれた水のグラスを手に取るが、一口も飲まずにまた置き、視線は宙をさまよった。


「局長!ですから先ほどから言っているじゃないですか。……爆破ですって?冗談じゃない、そんな指示は絶対に出してない!このリスクはまるで想定外だ……!全く意味がないどころか……いや、もちろん対処します、はい!」

 通話を終えると、スマホを投げつけ、ひとりごちた。

「誰が……いや、あの女か?破滅の天使、俺まで破滅させる気か、なんて厄介な……!」



 アクパーラ号の左舷からゆるりと黒い煙が上がり始めた。

 船内は緊急事態を知らせる警報が鳴り響き、乗組員が指示を叫んでいるが、誰も何が起きているのかは理解できていなかった。


 カーラがデッキに上がった瞬間、突然、叫び声が響いた。


「ああ!! 破滅の天使がいる!!」


 その声は、切迫した恐怖に満ちていた。

 カーラが振り向くと、加藤が両手を頭に抱え、震えながら後ずさっている。


「どうして……? どうしてあたしたちの船にいるの……?」


 加藤の声は泣き叫ぶように震え、それが周囲の恐怖を一気に増幅させた。


「やばい……みんな、逃げろ!!」

その一言が、混乱に火をつけた。


「破滅の天使が……!」

「こいつが爆発を起こしたんだ!」

 恐怖と怒りが船上に広がる。


 機関室に向かって走っていた馬場がカーラをみて立ち止まると「お前らがやったのか!」と怒りをカーラにぶつけた。


 デッキには爆発で船室から出て来た非番の船員や調査団の団員が大勢いた。


「前から怖いと思っていたんだ!」

「破滅の天使がやったんだ!」という叫びが、まるで炎が広がるようにデッキを覆った。

 怯えた視線がカーラに集中し、ざわめきが波のように押し寄せる。ある者は後ずさり、ある者は怒りの表情で彼女を睨みつけた。


「違う……私は――」カーラが何かを言おうとした瞬間、ゴトン!と何かが床に落ちた音がした。

 ノーマンが振り向くと、誰かがスパナを握りしめている。


「こっちに来るな……!」 男は顔を歪め、恐怖と怒りに震えていた。

「お前がやったんだろ!!」

「俺たちを皆殺しにする気か!!」

 何かが爆発するように、怒号と恐怖が入り乱れる。


誰かが押し合い、誰かが叫び、デッキはまるで嵐に巻き込まれたように混乱し始めた。


(ダメだ……このままじゃ、カーラが危ない……!)ノーマンの心臓が跳ねた。


 その瞬間、また左舷側から轟音が響き渡った。

 衝撃が船体を揺さぶり、わずかに傾いた船がきしんだ。

 爆炎が黒煙と共に噴き上がり、風に乗って焼けた金属と燃料の臭いが漂った。

 デッキにいた乗組員たちはその光景に凍り付いた。

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