車の墜落事故が起こる数年前の話だ。
アルケーとカーラは、高次物質科学研究機構の研究室で先輩と後輩という関係だった。
新人だったカーラにとって、研究室きっての天才と称されるアルケーは、遠い存在だった。彼の仕事ぶりは正確無比で、私情を挟むことなく冷徹な判断を下す。そんな彼が、後輩に関心を持つことなどあるはずがないとカーラは思っていた。
だが、ある日、研究所で行われたクリスタルオーブ共鳴測定がすべてを変えた。
カーラのオーブとの共鳴指数が、桁違いに高かったのだ。
それを知ったアルケーは、初めてカーラに興味を示した。
彼にとって、カーラは単なる後輩ではなく、オーブと共鳴する貴重な研究対象となった。
彼はカーラの行動、嗜好、性格まで細かく観察し、徹底的にデータを収集し始めた。
一方のカーラは、無機質だった彼が自分に関心を抱くことが、怖くもありどこか嬉しくもあり、不思議でもあった。
――それが、すべての始まりだった。
アルケーがカーラと結婚したのは、合理的な選択だった。オーブとの共鳴適性を持つカーラを長期的に観察することは、ルミノイド研究の発展に寄与する。高次物質科学研究機構のトップとして、その決断には何の迷いもなかった。
結婚式は形式的なものにとどめた。
誓いの言葉も、指輪の交換も、感傷的な意味はない。ただの契約行為にすぎない。
だが、隣で微笑むカーラの表情を見たとき、彼は一瞬、戸惑いを覚えた。
なぜ彼女は、こうも自然に笑っていられるのか。
まるで、本当に「夫婦」になったような——
「最初から諦められてるのよね、私」
カーラが呆れたように言う。
「諦めてなぞいないぞ、君の共鳴指数は賞賛すべきものだ」
アルケーは淡々と答える。
「はぁ……先が思いやられるわ」
カーラは深いため息をつき、やれやれと肩を落とした。
——この結婚、長く続けられるの?
ふと、そんな考えがよぎったが、アルケーはすぐに打ち消した。
感情で決断を揺るがせるべきではない。
「お兄さまとカーラお姉さまの結婚生活がどのようなものか、確かめにまいりましたわ」
数週間後、アルケーの実妹ルリが屋敷を訪ねてきた。
部屋に足を踏み入れるなり、彼女はじっと兄の顔を見つめた後、カーラに向き直った。
「……お兄さまは、ちゃんと夫をやっていますの?」
「ルリちゃん、助けて!」
カーラが大げさに両手を合わせる。
「やっぱりダメでしたのね……」
ルリは呆れたように嘆息し、アルケーを鋭く睨んだ。
「お兄さま、少しは奥様のことを気遣っておりますの?」
「必要ない。カーラは自立した人間だ」
「そういうことではなくて!」
ルリが声を荒げるのを、カーラは楽しそうに眺めている。
彼女はアルケーの合理性を理解した上で、どこか面白がっている節があった。
ルリとカーラのやりとりは、まるで旧知の姉妹のようだった。
アルケーはその様子を見ながら、奇妙な感覚に襲われていた。
彼が「会話」として認識しているものとは違う、軽やかで温かい何か——
「お兄さまは、人の気持ちを考えたことがありますの?」
ルリの言葉に、アルケーは眉をひそめた。
「感情に配慮する必要性を感じない」
「それがダメなのですわ!」ルリは机を叩く。
アルケーはルリを見つめながら、ふと過去を思い出した。
幼い頃、風邪をひいたルリが弱々しくベッドの上で横になっていたこと。
『お兄さま……』
か細い声で名前を呼ばれたとき、彼は「放っておけば回復する」と考え、何もせずに立ち去った。
しかし、後ろから掴まれた腕の感触だけが、妙に鮮明に残っている。
——私は、ルリの言葉を、聞いていたのか?
その時、目の前のカーラが、あの時のルリと同じ表情をしていることに気づいた。
そして彼女は、静かにこう言った。
「アルケーって、本当に人と一緒にいる気あるの?」
ある日、カーラが体調を崩して寝込んだ。
アルケーは最低限の処置を施し、研究室に戻ろうとする。
だが、ルリがそれを制止した。
「お兄さま、それで良いのですか?」
「合理的な判断だ」
「またそれ!」
ルリは怒ったように頬を膨らませ、彼をまっすぐ見つめる。
「カーラさん、寂しそうでしたわ」
「寂しさは、回復に影響を及ぼさない」
「……本当に?」
アルケーは戸惑った。
もしルリが私の立場なら、きっと優しく声をかけていただろう。
「自分は、それができるのか?」
気づけば、アルケーはカーラのベッドの傍に座っていた。
「……珍しいわね、アルケーがこんなところにいるなんて」
カーラが微かに微笑む。
「合理的な判断だ」
「またそれ?」
カーラは苦笑しながら、布団を引き寄せた。
「アルケー、少しは『人間らしく』なったんじゃない?」
アルケーは、なぜここにいるのか自分でも分からず、何も答えられなかった。
それから数日後、カーラはアルケーの机に写真立てを置いた。
「これくらいは飾ってもいいでしょ?」
写真立ての中でカーラが笑っていた。そういえば前に撮った記憶がある。アルケーは邪魔だと感じたが、「片付ける理由」が見つからなかった。
しばらくそのままにしているうちに、気づけば視界にあることが「当たり前」になっていた。
——私は、何を……期待していた?
そんな問いが、ふと脳裏をよぎる。
それから間もなく、事故が起きた。
カーラが瀕死の状態となり、アルケーは合理的な判断のもと、ルミノイド化を決断した。
「これが、最適な選択だ」
そう言い聞かせるように。
しかし、すべてが終わった後、写真立てだけは捨てられなかった。
——なぜ?
アルケーは、その答えを見つけることができないまま、静かに写真を見つめ続けていた。