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第30話 グラヴィティ・ブレイク

 グラヴィティ・ブレイク――それは、重力コアで極限まで加速し、自らの運動エネルギーで空間そのものを歪め、距離を縮めて航行する重力跳躍法だ。


 ただ移動するのではない。空間のほうを、自らに引き寄せるのだ。


 速度、位置、質量、転移先の状況、他天体の重力――あらゆる要素が複雑に絡み合い、グラヴィティ・ブレイクの最適なタイミングを決定する。

 一度でもその瞬間を逃せば、次のチャンスまで年単位の時間が必要となる。


 今、ラウルス・プリーマ号は、グラヴィティ・ブレイクまであと数時間という地点に到達していた。


『本船はあと3時間でグラヴィティ・ブレイクを行います。乗員の皆さんは各自所定の待機エリアで待機して下さい。生活エリアは只今より、グラヴィティ・ブレイク終了まで閉鎖されます』


 落ち着いた男性の声で船内アナウンスが繰り返される。

 乗員3万人は、それぞれ待機エリアのシートに座り、ベルトを締め、静かにその時を待っていた。


 グラヴィティ・ブレイクの影響は、単なるGの変化や時空のゆらぎにとどまらない。

 それは、乗員の神経、さらには意識の深層にまで及ぶものだった。


 ブリッジでは最終チェックが行われていた。


「乗員の待機完了しました」


 ユミがオペレーター席でチェックリストの重要進行状況を読み上げた。この間も天文学的な数のチェックリストをN.O.Aがこなしている。


「グラヴィティ・ブレイク60分前。ポイント・オブ・ノーリターンを通過。現時点で中止不可能領域に突入しました」


「いよいよだな……」


 チーフオフィサー席でタカハシが緊張した声で呟いた。

 船長が静かに、しかし毅然とした口調で話し始める。


「本船はこれよりグラヴィティ・ブレイクを開始する。――この船で最後のグラヴィティ・ブレイクになる。これを終えたら、惑星セレスティアは目と鼻の先だ。最後まで気を抜くな」


ズスン


 突然、重い音と共に軽い振動がブリッジを襲った。


「何があった?」


 船長が緊張した声で聞く。ユミがコンソールパネルを急いで叩いた。


「重力コアのダンパーシャフトです。コアから30mの地点で異常があった模様です」


「ダンパーシャフトのセクションE8A16の冷却器からガスが漏れているな……」


 タカハシが眉間に皺を寄せてモニターを睨む。


「ユミちゃん、E8A16のバルブを締められないか?」


「ダメです。遠隔操作では反応がありません」


「このままだとまずいな……グラヴィティ・ブレイクの荷重にシャフトが耐えられんかもしれん」


「船がバラバラになるぞ」


「インターロックを解除して、もう一度バルブを締めてみてくれ」


「ダメです! インターロック解除しても反応しません」


 ユミが上擦った声で叫ぶ。タカハシが静かに席を立った、


「船長、ちょっと席を外します……」


 船長は静かに頷いた。ユミが青ざめた顔で振り返る。


「どこに行くんですか?」


「ここでダメなんだから、直接バルブを締めに行くしかないでしょう?」


「チーフは行かないでください! 私が……!」


「お前はここにいろって『俺がいなくても現場は回る』って言ったろ?」


「チーフが行くことはありません!」


「船の構造を熟知して、グラヴィティ・ブレイク時の『裏の裏』まで知ってる俺が適任だ」


「でも……」


「そんな顔するなよ、シャフトに行ってバルブ締めて帰って来るだけだ。行って帰って40分だ」


「でも……」


「ぶっちやけ、惑星セレスティアに必要なのは俺みたいなオッサンより、お前さんのような若い連中だからなぁ」


 タカハシは手を振ると、ブリッジから出ていった。


 防護服を着ると、リフターに乗り、ダンパーシャフトに向けて下降させた。

リフターは高さ800mの筒状になった空間を滑るように降りていった。


リフターが居住エリアを抜けると、800mの高さのリフター用の空間を降りていく。

 重力揺らぎが強く、悪天候を飛行中の飛行機のように上下左右に体が振られた。安全帯を掛けてないとリフターから振り落とされそうになる。


「こりゃあ、リハビリに丁度良いかな」


 コアに近づくたび、空気圧も高圧になり気温も高くなっていく。


 やがて、リフターが止まった。壁の向こうはダンパーシャフトが入る巨大なシリンダーだ、メンテナンスハッチを開くと、耳を塞ぎたくなるようなうなりを上げて巨大なダンパーシャフトが不規則に何十メールも上下していた。


「ダンパーシャフトにたどり着いた、これからバルブに向かう」


「大丈夫ですか? ダンパー・シャフト以外は全てクリアしています」


 スピーカー越しにユミの声が届いた。


「おう、今までもなんとかしてきたんだ。今度もやれるさ」


『グラヴィティ・ブレイクまでの時間はあと10分です』


 N.A.Sの合成音声が冷たく響く。


「それだけあれば充分だ」


 タカハシは手すりに捕まりながらキャットウォークを歩いた。ダンパーの周辺は2G近い重力がかかっている。キャットウォークの下は見えないほど高い。何度か重力揺らぎで重力が横に掛かり、手すりに押し付けられて落ちそうになり、その度にあばらを痛めた。


「ここが難所だな」


『グラヴィティ・ブレイクまであと5分です』


 タカハシははぁはぁと荒い息をしながら、左右によろけながら数メートル先の手動操作盤に向かって、這うように進んでいた。


「ちょーっとやばいかな」


 タカハシがやっと手動コントロール操作盤にたどり着いて手を掛けた瞬間。


『グラヴィティ・ブレイクまであと1分です』


 合成音声が響いた。時間はもうない。



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