路地から勢い良く飛び出した鷹音は、開けた景色の中で即座に視線を巡らせ、標的の姿を認識した。
神屍の八つ当たりによって運悪く隠れ蓑としていた建物を破壊された支機官数名が、神屍から逃惑っている姿を視界の端に捉える。彼らの後ろを棍棒を振り回して雄叫びを上げながら
一度地面に着地して体勢を沈めた鷹音は、両の脚に限界まで力を込めた後、コンクリートの平面を割り砕く勢いで地を蹴った。
数十メートルの距離を刹那の間に詰める。刀身の間合いに入る直前、もう一度強く地面を踏み放ち、疾駆の勢いを乗せたまま
感覚としては、突如として目の前に人間が現れたようなものなのだろう。本能に刻み込まれた嗜虐気質に任せて支機官達を追い回していた鬼の神屍は、瞬時に肉薄した鷹音へと驚いた表情を向けた――ように見えた。少なくとも、真紅に染まる歪な眼が鷹音の姿を捉えて僅かに見開かれる。
その時点で、少年は既に武装の柄へと手を掛けて抜刀の構えを取っていた。
――抜き放つ。
かつて共に死線を潜ってきた愛用のギアは、数年の歳月を経ても尚、驚くほど鷹音の動きに馴染んでいた。
戦闘の最中における少年の無意識な癖に対しても微細な調整が加えられた専用の武装は、驚くべき鋭さで鞘からの抜刀を可能とし、鈍色を宿す長大な刃を刹那に閃かせた。無音の中で行われた一斬。ありきたりな神屍であればまず間違いなく絶命させている神業の一振り。
けれど、振るわれた刃が漆黒の首筋を斬り裂く事はなかった。
人間と比較してどれほどの視野を得ているのか不明な鮮紅の瞳が、一切のフェイント無しにその速度のみで生み出した不意打ちの斬撃を、辛うじて捉えていた。鷹音の動きをしっかりと認識していた訳ではないだろう。だが本能による野生の戦闘感とも言うべき代物が、確実に鷹音が抜き放った太刀の煌きを追う。
鮮血が舞う。だが与えたダメージは微々たるものだ。流石は人種型の中でも戦闘能力に秀でた猛鬼種、それも上位種のC型だと鷹音はこんな時であるのに僅かな感嘆を抱く。
少年の視界の端で、異形の右腕が動く。上体を倒した体勢のまま、
しかし鷹音に焦りはなかった。
自らへと襲来する岩塊を視認したまま、中空で思い切り身体を捻る。標的の右眼を削るだけに終わった無意味な一振りの惰性すら利用し、そのまま身体に右の回転力を加える。それは言わば迎撃の準備だ。いちいち刀を引き戻して構え直すよりも、
上体と下体で捻りの勢いを変速させ、獲物を握る腕により一層の力を乗せる。そうして既に眼前にさえ迫っていた戦槌へと横合いから斬撃を放った。
『量産型』の時とは異なる衝突音が周囲へと伝播する。先刻は得物同士が激突する度に全方位へ見境なく衝撃が撒き散らされていたはずが、今は鷹音がぶつけた力のベクトルにのみ余剰の衝撃が突き抜けた。
鷹音は水平の軌道で刀身を振り抜いた。反して
真紅の隻眼が再び見開かれる。それは驚愕を表しているかのようだ。崩潰の名を持つ破壊の権化はその瞬間、一人の人間に力負けをした。
終始、鷹音の貌は冷淡そのものだった。振り抜かれた得物を即座に構え直し、大上段に掲げる。そうして音の無い世界で鋭い一閃が放たれ、漆黒の巨躯を縦に引き裂いた。
ドシュッ‼ と、
「……、」
その様を、鷹音は感情の無い双眸で見据えた。
神屍は人間や多くの動物と同じく、その体内に赤い血を持つ。その事実が鷹音の胸中に微かな嫌悪を
――人類史において突如出現した神屍という異形に関して、人間は全くといっていい程その正体を解明できていない。今から半世紀以上も前の時代、何故彼らは唐突に現れたのか……その原因究明の進捗はほぼゼロに近い。
機士が神屍を殺し、その遺骸を持ち帰って解剖しようとしても、漆黒の肉体は絶命したその瞬間からおおよそ一〇分も立たぬ内に跡形もなく消滅してしまう。細胞が末端から炭化するかの如く、一片の肉片すらも残さず消失の末路を辿るのだ。
先ほど鷹音が斃した餓狼種の遺骸も、既にあの場から完全に消え去ってしまっているだろう。当然、その体内にあるはずの内臓や血液さえも。にも関わらず、仮に肌や服へ付着した返り血は消え去る事なく残り続ける。過去に一度だけ神屍の血を全身に浴びた時は、その不可解な理不尽さに苛立ちを覚えたものだ。
口端に苦笑を洩らす。
その空隙は一秒にも満たなかった。
後方へ飛び退いた鷹音は即座に身体のベクトルを引き戻し、再び神屍へと疾駆する。
斬撃の衝撃から早くも立ち直ったらしい
だが、先程とは異なり、そのような苦し紛れな攻撃へと対処に及ぶ鷹音ではなかった。
振り下ろされる戦槌に対し、上体に僅かな捻りを加える事で回避する。ほんの数ミリ程度の距離を空けて落下する暴威を涼しい顔のままに躱した後、速度を落とす事無く神屍の巨躯へと接近した。
――そこから先はもう、ただひたすらの一方的な猛攻が続いた。
半ばやけくそに振るわれた戦槌を、瞬き一つ介さずに上半身の動きだけで躱す。その時点で、少年の右手に握られた太刀は次の動きを予測して切っ先を後方に向けて状態で構えられていた。
引き絞られた右腕。
その先に控える機械太刀の刀身が不気味に輝く。
逆袈裟に振るわれた刃が、神屍の巨躯に一筋の線を描いた。血飛沫が舞う。巨体が揺れる。強靭な肉の鎧を纏う鬼の躯は、既に幾筋も刻まれた裂傷によって血に
絶え間なく連なる攻撃に
そんな甘ったるい妄想を容易に抱くほど、鷹音は
一刀を振り下ろそうとして、だが即座に飛び退く。直後、それまで棒立ちのままに無数の斬撃に晒されていた
周囲全方向へと見境なく棍棒が振り回される。その動きに先刻まで蓄積され続けたダメージの影は見受けられない。苛烈な暴威を際限なく撒き散らしながら、
猛鬼種C型は人種型の中でも特に狡猾で、鋭敏化された本能に基づく知性的な動きを時おり見せる。先程も、繰り出される攻撃の全てを無防備に受けていたのは、機士の油断を誘う為だ。
こちらが優位に立っていると自覚した瞬間をまるで正確に見計らったかの如く、途端に
けれど、所詮は知能を持たない生物の小賢しい反抗だと言わんばかりに、鷹音がその狡猾さに引っ掛かる事などない。
荒れ狂う様を見せる鬼の神屍。予め距離を取っていた事でその暴威を受ける事はなく、乱雑に棍棒を振り回しながら迫って来る
逃げる事もしない。雄叫びを上げて襲い来る敵を
衝撃が放たれた。
軌道の認識も予測もできない戦槌に対して、鷹音が正確に刀を打ち込んだのだ。まるで台風の如く周囲の瓦礫を砕きながら迫っていた
正確に言えば、狙ったのは大木の如き右腕の先に握られた岩石の棍棒。見境なく振るわれていたそれがちょうど標的の中心点を通過する瞬間を見極めて、下から抉るような斬撃を見舞ったのである。
ガヅンッッッ‼ と、岩と鋼が同時に打ち付けられたかのような異音が響き渡り、
それだけで数百キロはある岩石の槌が派手に宙を舞い、やがて地面へと落下する。コンクリート面を砕きながら転がった棍棒はそのまま地を滑り、黒鋼壁の壁面に衝突して
静寂。
得物を失った
その仕草はまるで何かを掴もうとその存在を探しているかのよう。
間はなかった。
自らの成した神業に
刃が振るわれる。音のない世界で行われた一振りは僅かな煌めきを光条として残し、神屍の首筋を容赦なく横に斬り裂いた。
ドシュッ‼ と。肉を断つ生々しい音に反して、さながら空気の抜けたボールの如く。
胴体から斬り飛ばされた鬼の首が、鮮血を伴って中空へと放り出された。
二つの瘤を額に生やす鬼の頭部がゴロリと地面に転がる。
その傍らでは首から上を失った身体が派手に血を噴出しながらゆっくりと倒れ始める。数歩下がり、血の飛沫範囲から出た後に、鷹音は右手に提げた太刀を大きく振り払って腰の鞘へと納めた。刀身に付着した赤黒い血液が地面に弧を描いて飛び散る。
「……討伐完了までおよそ三分といったところか。まぁ、ブランクを考えれば妥当ではないかな」
吐かれた息は別段、身体の緊張を解くためのものではなかった。
少年の背後で頭部の欠けた
不意に。
耳に装着した無線端末から電子音が鳴る。間を置かずして微細なノイズと共に女性の声が飛び込んできた。
『こちら監理局オペレーションフロア。鷹音くん、聞こえますか?』
李夏の毅然とした声音が届く。
「問題ない。確か回線コードを保管室に切り替えたままだったはずだけど……もしかして有事連絡でもあったかな?」
『いいえ、それについては大丈夫ですよ』
鷹音の声に窺うような色を感じたのか、オペレーターの女性は僅かな苦笑を交えて応じた。
『こちらでも猛鬼種の討伐を確認しましたので。お怪我や不調等はありませんか?』
「あぁ、俺としては不思議なくらいに好調だよ。街に広がった餓狼種の群れは無事に一掃できたのかな?」
『まだ数体残してはいますが、時間の問題ですね。……それでですね、鷹音くん。戦闘終了直後で大変申し訳ないのですが……』
少し言いにくそうに言葉を途切れさせた李夏に、今度は鷹音が肩を竦めて答えた。
「この際だし、最後まできちんと仕事はするさ。だからまぁ、取り敢えず新しい機士を派遣する必要はない訳だけど」
そう言って、鷹音は腰に取り付けてあった最後の閃光手榴弾をおもむろに取り外して身を翻したかと思えば、自身の後方に向けてそれを思い切り投げつけた。
鬼の姿を象る神屍だけではない。孔の隙間を掻い潜るように、更に数体の餓狼種さえも侵入していた。猛鬼種C型、一体。餓狼種A型、十数体。それらは全て孔を超えた瞬間、即座に鷹音の存在を捉えて威嚇の咆哮を上げる。
金属缶を投げ付けられた
しかし。
たかが人間の投擲……神屍にとっては虫刺され程度のダメージさえ与えられなかった金属缶は、直後、ささやかな破裂音と共に周囲へ大質量の閃光を撒き散らす。
視界を灼かれた神屍が呻き声を上げるのと、鷹音がその場から弾丸のように駆けるのは、全くの同時であった。
手近な餓狼種の個体へと迫りつつ、鷹音は無線で繋がったままの李夏へと気負いのない声で言う。
「それで華嶋さん。現状確認だけど、
対する李夏も、既に緊張の峠は越えたのか、幾許か落ち着いた声音で応じる。
『基本的には
「……餓狼種は分かるけど、何でわざわざ猛鬼種ばかりが出張って来るのか。せめて
『あら、せっかく懐かしい姿になったんですし、存分に戦えて良かったんじゃありません?』
「生憎と戦闘狂の心意気だけは過去に置いてきたままな訳だけど。なるべく早く紗夜を局に帰還させてやりたいんだよ。意識操作の訓練も受けてないくせに
『……珍しいですね、鷹音くんがそこまで他人を気に掛けるなんて。雪村さんの事、そんなに気に入りました?』
「そういう話をしてるんじゃない。紗夜は将来有望な機士だ。監理局側も、そういう人材を使い潰すような真似はしたくないだろうと思っただけだよ」
『冗談です。手隙の機士を数名、そちらに派遣します。彼らに雪村さんの救助を頼みますので』
「助かる」
なんて。
そんな会話を交わしながらも、鷹音は集約しつつある神屍の群れは片端から打ち倒していた。
人間が目視すれば半日は盲目にならざるを得ない閃光手榴弾も、神屍にとってはほんの数十秒しか効果を発揮しない。それは並の機士にしてみれば、体勢を立て直したり、逃げの一手に繋がるきっかけを作る事ができる程度の時間。
だが、その数十秒で、筱川鷹音は神の殲滅を成し遂げる。
餓狼種の群れをあらかた斃し終えた段階で、微かに視力を戻しつつある
「……いや、まぁ……別にいいか」
ふと呟き、乱雑な振り下ろしを回避しかけた自身の身体を制動させる。
先刻と全く同じ光景。
だが弾かれた棍棒は先程よりも激しく吹き飛び、その先に群がっていた餓狼種数体を派手に巻き込みながら地を滑った。
ガガガガガガガガガガガガッ‼ と、コンクリートの地面が容赦なく削られる音が響く中、鷹音はひと呼吸の間を置いて無防備な姿を晒す猛鬼種へと肉薄し――、
やはり、先程と同じように屈強な筋肉に覆われた漆黒の首筋を横に薙いだ。
胴体から切り離された頭部が宙を舞い、頭部を切り離された胴体が鮮血を吹き出しながらゆっくりと倒れる。
そんな光景に至るまで、全て数分前の焼き直しのようであった。
「……昔なら、わざわざ得物を弾く事なく、そのまま首を飛ばせていたんだけどな」
何の達成感も見せず、少年は続けて残りの餓狼種を屠るべく駆ける。
少なくとも、それ以降に鷹音が危うい場面を見せる事など、ただの一度もなかった。