目次
ブックマーク
応援する
1
コメント
シェア
通報

第5話:きっかけ

 朝の7時半。秋葉原駅のロッカールームの前。晃宏はなるべく背筋を伸ばして、絢音を待つ。

 先週は連絡先を交換して分かれた。末広がお昼もたまにつけると言ったが、正直それは本当に体調が良い時に限られる。絢音はわかっているのかいないのか、今日はこれで、と言っても嫌な顔一つせずに帰って行った。

 お礼から始まったメールのやりとりは、なぜだか映画の話になっていて、次に封切られるヒーローシリーズについて語ったり、今まで観てきた映画でよかったものを紹介しあったりした。

 朝はいつもどおり隣に座ったけれど、会釈をするだけで話したりはしない。絢音が気を遣って黙ってくれているような気がする。そして、決まって会社に着く頃に次の返事が来る。

 おはようございます。今日は体調良さそうでしたね。今年はヒット作多いですよね。

 お疲れさまです。アクアマンはすごくカッコ良かったですよね。

 1日に2〜3回やりとりするメールは、晃宏にとってはちょうど良かった。

「あ、おはようございます」

 絢音が小走りで晃宏の前までやってくる。声を出して言葉を交わすのは1週間ぶりだ。

「おはようございます。行きましょうか」

 なんだか彼氏みたいな口調になってしまった。きっと周りからは早朝デートだとでも思われているのだろうな、と思うと絢音に申し訳ない。

「すっかり夏ですね」

「そうですね。セミも鳴き始めましたよね」

 夏はバテやすいので気をつけないといけない。正直、クーラーが効きすぎているのも、体調に変調をきたしやすい。だから晃宏は平日でもシャツだ。

「今日もよろしくお願いします」

 電車に乗る前に絢音に軽く頭を下げる。礼儀としてというのももちろんあるが、正直、自分の戒めのためでもある。隣に座る絢音の体温や髪の毛から香るシャンプーの匂い、労りのわかる喋り方。晃宏の心を柔らかくくすぐるその言動に、勘違いしないように。これは、絢音にとっては善意でのボランティアでしかない。

「今日もゆっくり休んでください」

 絢音の髪の毛を初夏の爽やかな風がさらっていく。その髪を耳にかけながら、絢音が微笑むその姿はとてもきれいだった。


 電車に乗ると足早に席を確保する。座れるように早い時間にしているが、これで座れなかったら絢音になんのために来てもらっているのか、目も当てられないことになる。けれど、そうやって焦って急に動くとへばるのが自分の体で、いつも注意深くフォローしてくれる末広がいないのも痛かった。

「大丈夫ですか?」

 座った途端に、ぐらりと体がかしぐ。絢音が体の側面で受け止めてくれてなんとか体勢を保てた。

「あ、ああ。ちょっと待ってくださいね」

 膝に肘を立てて、頭を支える。こうなると本当は寝転がった方が良いが、そうも言ってはいられない。性急すぎたか、と掌に隠れた唇をかむ。

 このチャンスを逃したくはなかった。絢音は晃宏にとって絶望の中で光る小さな星のようなものだ。眠れれば体調が比較的良いというのも、絢音がいなければわからなかったことだった。

「大丈夫ですよ。ゆっくりで」

 絢音がぎこちなく晃宏の背中をさすってくれる。温かなその手に涙が出そうになる。

 慢性疲労症候群は、理解されにくい病気だと思う。最初は風邪かな、と思うのだ。熱が続き、疲労感がある。下がったかなと思うとまた凄まじいほどの筋肉痛が体を襲う。布団から這い出ることもままならない日の方が多かった。

 だが、長引く「ただの風邪」に休んでいられるはずもない。けれど、無理を押して会社に行っても、頭は回らず頼まれた仕事もろくにできない。早退や遅刻、体調不良による相次ぐ休み。晃宏の仕事は他の同僚たちにのしかかる。晃宏の病気が「なまけ病」と呼ばれるのにはそんなに時間がかからなかった。

 疲労がとれないのは夜更かしでもしているからだろう。早退して何をやってるんだか。風邪なんて私もひいてるっての。会社やめれば良いのに。

 そんな面とは言われない陰口を聞きながら、君はやめたかと思ったよ、と部長には嫌味を言われ、フォローしきれなかったお客さんは晃宏の失態となる。

 復帰できた今も、末広がいるからやってこられているだけだ。いつバランスを崩して、また起き上がれなくなる日が来るかもわからない。

 その恐怖に寄り添ってくれる人は少ない。

「私も子どもの頃は小児喘息とかあって苦しいときに姉が背中をさすってくれたんですよ」

 優しくされるとよくなる気がしますよね。

 そう言ってくれる絢音の気持ちが体に染み渡るようだった。


 代々木まで来て、ようやく体を起こせるようにはなった。

「すみません、ご迷惑おかけしました」

 大丈夫ですよ、と笑う彼女は、代々木までずっと晃宏の背中をさすってくれていた。それは、もしかしたら周りの乗客にも、この人はちょっと具合が悪くて起き上がれないんです、というのをアピールしてくれていたのかもしれない。

 車内はそこまで混んでいないので、かろうじて迷惑とまではならなかったと思う。

「寝ますか?」

「はい。良いですか?」

 絢音がスマホを取り出し、イヤホンを差し込む。前を向きながらポンポンと自分の肩を叩く。

「いつでも空いてますからね」

 絢音が冗談めかして笑う。前回もきっとその肩を使っていたと末広からはニヤニヤしながら言われた。けれど、全く覚えていない。絢音の隣で寝る時はほぼ爆睡だ。夢も見ない。ただ、なんだか温かくて元気だった頃の温泉に入っているときのような、まろやかな気分になる。

「ありがとうございます」

 そんな自分に苦笑しながら、晃宏は目を瞑った。

 電車の揺れる音が心地よい。絢音の息遣いを感じる。ほわほわと漂ってくる香りが晃宏のモヤを包み込むようで、ゆっくりとその感覚に身を委ねた。

 次に起きた時は、晃宏のスマホが振動した時だった。秋葉原の手前、新橋駅に着く頃にセットしてある。晃宏は、絢音のジャマをしないようにゆっくりと背中を伸ばすと、スマホの振動をオフにする。

 肩は使わなかったかな、と絢音の方を見るとぎょっとした。

「西野さん……?」

「あ、すみ、ませ」

 絢音が目に溜まった涙を拭き、画面を止める。

「感動しちゃって」

 恥ずかし気に言う絢音にホッと胸を撫で下ろす。寝ている間に何か致命的なことでもしたのかと思った。

 絢音が肩掛けの小さな鞄からハンカチを取り出した。それを今出したということは──。

「やっぱり、肩使ってましたか?」

「え? あ、大丈夫ですよ」

 大丈夫かもしれないが、そのせいできっと絢音は鞄からハンカチも出さずに、目に涙を溜めるしかなかったのだろう。

 秋葉原に着き、絢音を連れ立ってホームに降りる。なんだか晃宏が泣かせているみたいだ。

「すみません、ちょっと感情移入しすぎました」

 涙は止まったが、目は赤いままだ。このまま帰ってもらうのも、男としてはいけない気がする。

 晃宏は慎重に自分の体調を伺う。たぶん、家の近くまで行ければ大丈夫だ、と思う。

「絢音さん、この後、時間ありますか?」

「え?」

 もう少し電車に乗って、ご飯でも食べに行きませんか?

 そう言うと、絢音はびっくりしたように頷いた。


「無理しなくて大丈夫ですよ?」

 この言葉を絢音が口にしたのは5回目だ。新木場駅に着くと、晃宏はまずベンチで休ませてもらった。ロータリーの大木の周りに造られたベンチは、木陰になっていて少し涼しい。

 秋葉原でも休んだし、乗り換えの有楽町でも休んだのだから、絢音が心配するのも当たり前だ。

 絢音を元気付けるために誘おうと思ったのに、自分が送ってもらうようなハメになっているのでは全く格好がつかない。

「いえ。ここまで来ていただいて、送ってもらうだけでは、天宮さんに叱られそうです」

 そこで天宮ですか、と絢音が笑う。

「こっち方面は私の帰り道でもあるんで、本当に気にしなくて良いんですよ」

 それでも、絢音は秋葉原から遠回りしてきてくれたはずだ。最初に聞いたときに、南流山に住んでいると言っていた。秋葉原からは、つくばエクスプレスで一本だと思うと、ますます、はいさようならとは言い難い。

「ここからすぐに、イタリアンのお洒落なレストランがあるんですよ」

 強引に話をランチに持っていく。そうしないと、本当に絢音は帰ってしまいそうだ。

 慢性疲労症候群を発症する前は、食べ歩くのが趣味のひとつだった。その時に、行ったお店のひとつだ。

「いいですね。ピザとか好きなんですけど、なかなか食べないんですよね」

 もちろん、ピザもある。

 さあ、立つぞ。

 晃宏は勢いをつけてベンチに手をかける。グイッと腰を上げようとして、脇にむず痒いような感覚が走った。

「ちょ、西野さん?」

 絢音が申し訳なさそうに脇をつついている。いや、顔こそ申し訳なさそうだが、少し笑っているような気もする。

 思わずまた座り込んでしまった。

「あ、えっと、東野さんが無理をしそうだったら、こうしてくださいと言われてまして……」

「誰に!?」

 末広さんに……、というか細い声が風に乗って届く。

 心の中で盛大に悪態をつく。いつ連絡とってるんだよ!

「なんで、鵜呑みにするんですか!」

「すみません。体調、悪くなっちゃいましたか?」

 心配そうに絢音が聞いてくる。すっかり、笑っているような気配はなくなっていた。

 しまったとほぞを噛む。末広も絢音も、晃宏が気落ちすることなく無理しないように、どうすれば良いかを考えてくれたはずなのに、ついムキになってしまった。

 脇をつつかれるなんて、子ども扱いされているようだったから。

「大丈夫です。これくらいで今更悪くなりようがないですよ」

 今度こそ、本当に立ち上がる。

「待っていてくれてありがとうございました。行きましょう」

 はい、と答える絢音が目に見えてシュンとしている。

 こう言う時にどうすれば良いのかわからない。

 末広を呪いながら、晃宏は俯く絢音に声もかけられずに、気怠い体を引きずって歩いた。


 沈黙を破ってくれたのは絢音だった。

「素敵なお店ですね」

 真っ赤な外装とは裏腹に、レストランの中はお洒落だ。所狭しと並べられたボトルに、机に見立てた樽。グラスがカウンターの上にずらりと吊るされていて圧巻だ。

「気に入ってもらえてよかったです」

 内心ホッと息をつきながら、メニューを開く。

「量が多いんですが、味は結構イケるんですよ。本当はお酒が豊富なんで、ディナーにいいんですけどね」

「やっぱりピザが良いですね。マルゲリータかな」

「じゃあ、ピザとパスタも頼んで分けましょうか?」

「良いですね」

 ご飯を決めるときは話題に困らなくて楽だ。絢音は特に先ほどのことを引きずっている様子もない。料理を頼むと、途端に手持ち無沙汰になった。手慰みに水を飲みながら、話題を考える。

 すでに二回も2時間以上の時間を絢音と過ごしながらも、大半は隣で寝ているだけなので、いざ会話しようと思うと難しい。

「あ、の!」

「はい!」

 絢音の力強い声のかけ方に、思わず晃宏も目一杯相槌を打ってしまう。

 晃宏のその様子に、絢音が肩の力が抜けたのか、へにゃりと気の抜けたように笑った。

 いつもどちらかと言うと凛とした表情が、油断したようにふやけている。

 その可愛らしい絢音の笑顔に思わず晃宏も笑った。

「私の、その、寝心地っていかがですか?」

「ねごこち、あ、良いです。最高です」

「良かったです。本当に座ってるだけなんで、ちゃんとやれているか不安で」

「いや、本当に、すごいめちゃくちゃ寝れてますよ! 俺の方こそ、急に、あの、こんなこと頼んで、引き受けてくれて、ありがとうございます」

 良かったです、と絢音が笑う。

 焦って、素で「俺」と言ってしまった。昔から「俺」が似合わないと言われてきたので、絢音が変に思わないか少し不安だ。

「東野さんって何か香水つけてらっしゃるんですか?」

「え? いや、つけてないですよ」

 急な方向転換だ。女性の話は飛躍するのでついていけない。

 そうですか……と絢音が残念そうに下を向く。

「西野さんは、香水が好きなんですか?」

「いえ、ただ、好きな香りがあるってだけなんですが……」

「へえ。僕は、そういうのに疎いんでよくわからないんですが、どんな香りなんですか?」

「なんていうか……甘いというか強いというか体にじんわりくるというか……」

 絢音もうまく説明できないらしい。いや、そもそも質問が悪かった。香りを言葉で説明するなんて至難の技だ。

 不思議な香りらしい。

 甘くて、強くて、体にじんわりくる。

 絢音の言葉をゆっくりと心の中で繰り返してみて、あれ、と気づいた。

「僕も絢音さんの隣で寝ているとき、そんな香りを感じることがありますよ」

「え?」

 絢音が惚けたように相槌を返す。

 強いというのとは少し違う気もするが、記憶に残る香りというのだろうか。

「そうなんですか……」

 顔を赤らめながら絢音が俯く。

 思わず口に出してしまったが、もしかして、気持ち悪かったかもしれない。

 いや、気持ち悪かっただろう。絢音の隣でそんな香りがしたなどと言ったら、匂いを嗅いでいると言っているようなものだ。

「すみません、あの、そんな気がするかもなってだけで」

「はい。わかってます」

 必死に否定すると、それはそれでよくなかったのか、絢音が曇りがちな表情で微笑んだ。

 これ以上何か言うと、本当に嫌われかねない。

 まだまだ、絢音の隣を確保したい身としては、言葉を慎むべきだ。

 晃宏は水と一緒に言葉を飲み込む。頼みの水もなくなりそうだ。

「お待たせしました」

 そこへちょうどよく料理がきた。よかった。これで、間が持つ。

「切っていいですか?」

「あ、ありがとうございます」

 絢音がマルゲリータをピザ用のカッターで手際良く切り分けてくれる。

 ピザと一緒に、気持ちにも区切りが付いたのか、料理の美味しさとともに、絢音にも笑顔が戻った。

「美味しいですね。生地がモチモチ」

「耳のところはサクッとしているから、よりモチモチ感が際立ちますよね」

 味付けも昔と変わらず濃厚だ。

 少し前まで、電車の隣に座っていただけの女性と、こんな風に一緒にご飯を食べるようになるなんて、なんだか不思議な感じだ。

 そう言うと、絢音も「本当に」と笑った。

「まさか誰かの枕になるとは思ってませんでした」

「正直、こんな最上級の枕が手に入るとは思ってませんでした」

 冗談めかした絢音の言葉に、晃宏も冗談で返す。二人で笑い声をあげる。

 一気に朗らかな雰囲気となった。

 映画や仕事、最近の末広と天宮がしているプロジェクトの話、二人の様子、いろんな話をした。

 メールでも話題になった内容だけれど、やはり対面だと話が弾む。

 末広と天宮は、いいタッグを組んでプロジェクトを回しているようだ。

 ──よかった。

 絢音と話すのはストレスではない。

 緊張しすぎたり構えてしまったり、何かストレスになるようだと、会話もままならなくなる。

 正直なところ、不安ではあった。

 もし、絢音と話すことがストレスになるのだとしたら、と考えるのが怖かった。これだけ自分に優しくしてくれている絢音を、ストレスだと感じてしまったら、おそらくもう隣では寝られない。自分が自分で嫌になるだろうから。

「あの、東野さん」

「はい?」

 店員さんに水を頼んでいると、絢音がフォークとスプーンを置いた。

 パスタは晃宏のリクエストで、きのことシャケの和風パスタだ。

「私、この契約について、少し考えたんですが」

 思わず、パスタをゴクリと呑み込んでしまった。ろくに噛んでいなかった麺が喉をずるずると落ちていく嫌な感覚が残る。まるで晃宏の不安を表しているかのようだ。

 やはり、嫌になってしまっただろうか。

 すぐに座り込んだり、体調が悪くなったり、情けないところを散々絢音に見せてきた。そして、それに付き合わせてきた。

 出会いから顔面蒼白で倒れそうになり、隣で寝させてくれと言ったそばから体調を崩し、ご飯を食べに行くときには自分の家の近くまでついてきてもらう。もう、たくさんだと思われても不思議ではない。

 最悪が倒れることで、この体はちょっと無理すればすぐに立つことを放棄する。倒れるよりはマシ、とその都度考えて行動しているつもりなのだけれど、十分絢音にとってはうざったいだろう。

 朗らかだった気分も萎み、代わりに背筋と心に力を入れる。そうしないと、すぐに潰れてしまいそうだ。

「体調がすぐれないときの話とかを決めた方がいいと思うんですよね」

「はい」

 途中で休むならその日は解散にするとか、もっと拘束料金を払うとか、たしかにいろいろある。絢音の好意に甘えていてはいけない。

 例えば、と絢音が続けた。

「朝、体調がすぐれない場合は日曜にリスケするとか、秋葉原に向かってる場合に体調不良になったら帰宅するとか。もちろん、山手線で寝ている間に辛くなったら途中でやめてもいいですし、なんなら家……はちょっとまずいかな、んー、まあ寝っ転がれるところで昼寝とかでもいいんじゃないかと思うんですよ」

「ええと、ちょっと待ってください」

 何か想像と違う。迷惑をかけているのだから、体調不良に対して、体調不良のときに絢音がどうするかという話だと思っていた。絢音が話しているのは、晃宏がどうするかだ。

絢音は晃宏の体調不良を少なからずも疎ましいと思っているだろうと思っていたし、そう思われて普通だと思っていた。けれど、絢音から出てきたのは、全て晃宏を労わる言葉だ。

「心配、してくれてます、か?」

「あたりまえじゃないですか」

 何を言ってるんだと絢音が晃宏をじろりと見る。

「セラピーなんですよね? ここでムリしたら意味ないですよ。治るものも治らないじゃないですか」

 そのとおりだ。

「東野さんは、とことんよくなることだけ考えてください。フォローは私の仕事ですよ」

「いや、隣で寝るだけのつもりで……」

「隣で映画見るだけで、あのお給料もらってたら、私、セラピーの仕事してる方に怒られます」

「西野さんは本業じゃないですし」

 だからです、と絢音が静かに言う。

「いくらお医者さんにいいよと言われていたって、私では東野さんが辛いときに何もできないんです」

 主治医にも了承を得て始めたことで、自分で体調の最悪にはならないようにしていたし、晃宏が絢音が困らないようにすべきだと思っていた。

 けれど、違うのか。

「倒れたら、もちろん起こす手伝いをします。でも、倒れる前は、寄りかかってくれないと、支えられないんですよ」

 体調は一時期よりもはるかに良くなった。良い医者がみつかった。助けてくれる人もいた。

 けれど、いつも不安だった。寂しかった。誰かに隣にいてほしかった。大丈夫だよと励ましてほしかった。

 それは、望むことではないと、そう思っていた。

「頑丈な枕ですからね、隣で休んでも寄りかかっても大丈夫ですよ。私ができるのは、隣にいることだけですからね」

 絢音が微笑む。

 その言葉にとっさに俯いた。目に浮かびそうになる涙をグッと堪える。

 なぜ、こんなにも、会ったばかりなのに、迷惑をかけてばかりなのに、こんなに。

 こんなに寄り添ってくれるのだろう。

 晃宏が慢性疲労症候群を患ってから、友人でさえ離れていった。

 寄りかかってくれと、大丈夫だよと言ってもらったのは初めてだ。

「ありがとうございます」

 本当に。どれだけ伝わるのかわからないけれど、心を込めて頭を下げる。

「違いますよ。よろしくお願いしますですよ、そこは」

 絢音の明るい言葉が、ポカポカと心を温めてくれる。

「よろしくお願いします」

 晃宏が笑って頭を下げると、絢音も満足そうに頷いた。


 新木場駅のロータリーの大木のベンチにもう一度腰かけたのは、1時もすぎた頃だった。

「長いこと付き合わせてしまってすみません」

「楽しかったですよ。ごちそうさまでした。今度は、カルボナーラとか食べてみたいですね」

 自然に次の話をしてくれる絢音に感謝だ。次がいつ来るかわからないが、次の話をしてくれると嫌じゃなかったんだと素直に安心できる。

「本当に今日はありがとうございました」

「気をつけて帰ってくださいね」

「西野さんも」

 はい、とはにかんで笑う絢音の姿が少し眩しい。

 休日にこんなに人と一緒にいたのは久々だ。もう少し、とも思うけれど、これ以上絢音を拘束してはいけないだろう。

「では、また電車で」

 晃宏の言葉に絢音が立ち上がる。

「東野さん、くれぐれもムチャしちゃダメですよ。末広さんも言ってましたけど、東野さんは少し遠慮しすぎなんですからね」

 最後の念押しのようにそう言うと、じゃあ、また、と絢音が手を振って駅へと向かっていく。

 ええと。

 絢音の後ろ姿をベンチから見送りながら、晃宏は今の言葉をゆっくりと咀嚼した。

 そうか、末広に何か言われたのか。

「そうだよな」

 天宮と末広は同じプロジェクトで働いている、天宮と仲の良い絢音が末広とどこかで話していてもおかしくはない。そして、自分を心配してくれている末広が何か言うのも想像できる。

 どこかでお昼でも一緒に食べたのか、メールでもしているのか。

 末広と笑って会話を交わす絢音を想像してしまって、その妄想を首を振りながら消す。

 ──末広さんに言われたからじゃないといいな。

 そう思うと、余計にそれが真実のような気がして、晃宏は胸やけのような感覚に胃をさすった。

この作品に、最初のコメントを書いてみませんか?