放課後の校舎は、窓の外に傾き始めた夕陽に照らされ、廊下の床に長い影を落としていた。
教室を飛び出した僕は、人気の少ない廊下をできるだけ静かに歩く。誰の目にも留まらず、息を潜めて帰るつもりだった。
だけど、そんな願いはすぐに打ち砕かれる。
「優!一緒に帰ろ!」
弾むような明るい声が、背後から響く。廊下にいた生徒たちの視線が、一斉に僕へと集まる。
振り返ると、そこには真珠が満面の笑みを浮かべて立っていた。
校舎に響き渡るほどの声で、堂々と僕を呼び止める。僕にとっては信じられない光景だった。今まで目を合わせることすら避けられてきた僕に、こんなふうに声をかけてくれるなんて。
「ちょ、ちょっと……」
戸惑う僕を気にも留めず、真珠はさっさと僕の腕を取る。周囲からは驚きの声と共に、信じられないものを見るような目が注がれる。
「なんであいつが……?」
「早乙女さんと?」
ひそひそとした声が追いかけてくる。それでも真珠は全く気にした様子もなく、僕の腕を引いた。
「行こ!」
強引に手を引かれ、気づけば僕は真珠と並んで校門をくぐっていた。夕焼けのオレンジ色が、校門から続く道を染め上げている。
西日に照らされる真珠の髪は、白金に輝いて見えた。
「ねぇ優、もっと近く歩いてよ。せっかく一緒なんだからさ」
真珠が楽しそうに笑いながら、今度は僕の腕に自分の腕を絡めてくる。近すぎる距離に心臓が跳ね上がる。周りからの視線も、後ろから聞こえるひそひそ声も、すべてが僕を焦らせた。
「ちょ、ちょっと……!」
「何照れてるのー?優、かわいー!」
真珠はケラケラと楽しそうに笑う。
僕の肩越しに校門を振り返ると、千秋や梢、翔子、陽介たちが目を丸くしてこちらを見つめていた。
梢は校門の近くで部活の仲間と話していたが、僕と真珠の姿に気づくと、手に持っていたノートをきゅっと抱きしめたまま動きを止めていた。知的で社交的、めったなことでは動じない梢が、珍しく目を見開き、目の前の光景をどう受け止めればいいのか判断に迷っているようだった。
翔子は少し離れたところで友達と並んでいたが、僕と真珠を見た瞬間、静かに立ち尽くしていた。控えめでおとなしい翔子は、胸の前で小さく手を握りしめながら、どこか不安そうな表情で僕たちを見つめていた。ふわりとした栗色の髪が頬にかかり、その隙間から覗く瞳には、驚きと戸惑い、そしてほんの少しの寂しさが滲んでいた。
陽介はグラウンド帰りのジャージ姿で、片手にボールを抱えたままじっと僕を見ていた。いつもの兄貴分としての軽いノリは影を潜め、何か言いたそうな表情を浮かべていたが、結局言葉にはせず、その場で黙り込んで僕たちを睨むようにして見ている。
特に千秋は、信じられないとでも言いたげに唇を強く噛んでいた。鞄のベルトを両手で握りしめ、声を出すこともできずに、ただ僕と真珠を見つめている。その瞳には焦りとも苛立ちとも後悔ともつかない、複雑な感情が交錯していた。
僕が目を合わせる前に、四人はそれぞれ視線を逸らし、何事もなかったように通り過ぎていった。
だけど、あの一瞬に感じたそれぞれの思いだけは、確かに僕の胸に刻まれていた。
さらに少し離れたところで、数人の仲間を引き連れた、浅間の姿もあった。ポケットに手を突っ込みながら僕たちを睨みつけるように見ている。あれほど余裕に満ちていた顔には、わずかな苛立ちがにじんでいるようにも見えた。
真珠の明るい声と笑顔だけが、僕の足を前へと進ませる。
校門を抜け、住宅街へと続く道を歩き出す。静かな並木道、風に揺れる木の葉が夕陽に透けて黄金色に輝く。住宅の窓からは晩ご飯を作る音や、子供の笑い声が微かに漏れ聞こえる。
今まで何度も通ったこの道が、今日は全く違う景色に見えた。
「優ん家って、この先だよね?」
何気なく真珠が尋ねる。
「え……どうして知ってるの?」
「だって優のSNS、昔から見てるもん。風景とか写真に写ってたから、何となく覚えてるの」
悪戯っぽく笑う真珠に、僕は言葉を失う。
もしかして僕の個人情報って思ってたよりダダ洩れじゃないのか……?
軽く身震いする僕をよそに、真珠が話を続ける。
「それに」
真珠は僕の前にくるりと回り込むと、夕陽を背にキラキラと微笑んだ。
「もちろん、優ん家に遊びに行くためにも覚えておかないとでしょ!」
「……は?」
「え?知らなかった?言ってなかったっけ?今日、優の家に行くって決めたの!」
「そ、そんな勝手に……!」
「いいじゃん、私だって優Pのファンなんだよ?生の優の作業部屋見れるとか、超楽しみ!」
真珠は両手を広げ、スキップでもするように先へと進む。
「ちょっと待って、掃除とか……何も……!」
「気にしなーい!」
くるりと振り返り、笑顔で手を振る真珠。その無邪気な笑顔を前にすると、僕は何も言えなくなる。
ブロンドの髪が夕焼けに溶け込み、真珠の背中が輝いて見える。
「ほら、優!置いてくよ!」
差し出された手を、僕はおそるおそる握った。
夕焼けの中、手を引かれながら歩くこの道が、僕にとってどれほど特別なものになるのか。
その時はまだ、気づいていなかった。
でも確かに、真珠の温もりだけは、僕の手のひらに残っていた。