「ごめん、
スマホの向こうから聞こえてきた彼の言葉は、夏の蝉の合唱がぐわらんぐわらんと耳に反響するのを、遥かに凌ぐほどくっきりとした輪郭を帯びた。
今まさに電車を降りて会社までの道のりを歩いていた私は、思わずぴたりと足を止める。後ろを歩いていた人の舌打ちする音が聞こえた。けれど、そんなものはほとんど気にならない。
耳にもう一度、スマホをぎゅっと押し当てる。
彼の吐息がちゃんと聞こえてきて、胸に疼痛が走った。
「ちょっと
何かの冗談かと思いたい。
だって、四年も交際してきた男に、朝の出勤前のこの時間帯に電話で振られるなんて、あまりに滑稽じゃないか。
それに、明日は私の誕生日だ。誕生日の前日にこんな酷い仕打ちができるほど、彼——
「ごめん」
理由を聞きたいのに、電話の向こうから聞こえてきたのはただ一言の謝罪のみ。
耳を澄ますと、彼が浅い呼吸を繰り返していることが分かった。つられて私の方も、ひぃひぃと呼吸が速く、短いものに変わる。過呼吸のような症状になりそうなのを堪えながら、なんとか「別れたくない」と絞り出した。
けれど、そんな私の必死の抗議を聞いても、大和は「ごめん」と繰り返すだけだ。この暑さの中、背中を冷や汗が伝う。お付き合いしている男性からこんなふうに頑なな態度を取られた時、こちらが何を言っても無駄だ。経験上ですぐに察知した私は、「うそでしょ」と漏らすばかりだ。
やがて、通話が切られる。
後に残ったツーツー……という電子音が耳に反響する。
「大和……」
何も言えなかった。
「別れたくない」以外の言葉を何も。理由も何も分からない。心変わりをしたとか、単に好きじゃなくなったとか、なんでも良かった。なんでもいいから、私を諦めさせてくれるだけの言葉がほしかった。
この時の私は、大和という人間を一ミリも理解していなかった。
ただこの瞬間に、大和に対する行き場のない恋心が、大きなわだかまりの芽になったのは間違いない。
ここから始まったのだ。
終わりのない、私の恋が。