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第32話 色彩を取り戻すため

 年が明けた。

 一月一日、渡瀬課長からいびられながら無事に年末の仕事を終えた私は、昨日の大晦日から福岡に帰ってきている。宮崎県へはここ数ヶ月の間に頻繁に訪れているのに、地元福岡へ帰ってきたのは去年のお正月ぶりだ。仕事が忙しいから、と何かと言い訳をして帰省していなかった。大和と別れてから、なんとなく母親と顔を合わせるのが気まずかったからだ。


 帰ってきた私の顔を見るなり、母は「あんた、痩せた?」と聞いてきた。さすがは母親。些細な変化でも気がつくものだなあ、と他人事のように感心していると、父からも「痩せたなー」と言われた。


「というか、痩せすぎなんじゃないの。ちゃんと食べてる?」


「食べてるよ」


 時々朝食を抜くことはあるけれど、とは口に出さない。

 母は私の嘘なんてきっと見抜いているだろう。「はあ」と呆れながら、昨日は夕食に私の好きなマグロの刺身、ローストビーフ、コロッケ、ポタージュと豪勢な料理を並べた。もう何がメインディッシュなのかも分からない。スタメン勢揃いの夕飯の席に、思わず頬をひくつかせた。けれど、食べてみると母の料理はやっぱり美味しくて、大好きなご飯の味がすっと胃の中に溶けた。そのあとはもう無我夢中で、貪り食うようにして料理をかき込んでいったのだから、文句は言えまい。


 そして年が明けて、今日。


「あけましておめでとう」


 テーブルの上に並んでいるのはおせちとお雑煮。昨日の夜に食べすぎたせいでお腹は空いていないけれど、おせち料理はやっぱり美味しくて、パクパクと口に運んでいく。せっせとご飯を食べていくうちに、日頃抱えているストレスから解放されていくから不思議だ。頭の中にぼんやりと残っていた上司からの罵倒の言葉が、しゃぼん玉が弾けるみたいに消えていく。お正月になると毎回思考が鈍くなるのは私だけだろうか。テレビ画面に映し出された情報番組では「今年のお正月も寝正月」とキャスターが話しているのを聞いて、日本中のみんなが同じ状況なのではないかと思っている。


 けれど、そんな私の緩やかな一日を打ち破りにかかってきたのは、母の一言だった。


「月凪、最近はどうなの? あれから良い人できた?」


 元旦の午後、もう少ししたら初詣にでも行こうかなとぼんやりと考えていた時のことだ。

 その問いは、あまりにも不意打ちすぎて一瞬私の耳を素通りした。けれど、母の視線がじっとこちらに注がれているのを感じて、はたと母の方へと首を傾ける。


「良い人……いや、いないよ」


 “良い人”とはむろん、恋人や好きな人のことである。

 味気ない私の回答を聞いた母は「そんなことだろうと思った」と吐いて、「まあ別に焦らなくても良いと思うけど」と矛盾したことを言う。

 誰に言われなくたって、別に焦っているわけじゃないんだけど……。 

 むしろ母に余計なことを聞かれて、苛立ちを感じているのは私の心が狭いからだろうか。


「この間、牧瀬まきせさんに会ってね、ひかりちゃん、来月結婚するんだって」


「へえ……」


 牧瀬光ちゃんとは、私が幼稚園の頃に仲良くしていた友達だ。親同士が仲が良く、そのよしみでよく一緒に遊んでいた。けれど、小学校、中学校へと上がるうちに、お互いに所属するコミュニティが違ってきて、全然遊ばなくなった。

 そんな昔の友達を引き合いに出されても。彼女とは会話をしなくなって十五年以上経ってるんだけど。


「急かしてるわけじゃないのよ? でももしまだあなたがその、秋月くんのことを引きずってるなら、もう前を向いた方がいいんじゃないかって、伝えたくて」


「っ……!」


 母の口から大和の名前が出てきて、思わず唾をのみ込む。

 何もかも、余計なお世話だ。大和と別れてから、母には大和のことなど一度も話していないのに、なぜ私がまだ彼との別れを引きずっていると思っているのか。

 そんな母の主張が間違っていないところが、さらに憎々しい。

 まったく、親というものは面倒な生き物だ。


「べ、別に引きずってるとかそういうのじゃないし。なんなら明後日、宮崎に行こうと思ってるっ」


「宮崎? 奈緒子のところ?」


 勢いに任せて言ってしまった。母の顔が怪訝そうに曇る。

 えーい、もう伝えてしまったんだし、このまま突っ走るのみ!


「奈緒子おばちゃんは関係ないよ。ちょっと用事があって。それこそ、会いたい人がいて」


「はあ。もしかしてあれ? 最近流行りのマッチングアプリ」


「いや、アプリではないけど」


 もう、詳細を伏せて話すのが難しくて、なんだか歯痒い。かと言って、真実を伝えたところで信じてもらえないだろうし、そんな危ない出会いはやめておけと釘を刺されそうだ。


「ふーん。なんだか知らないけど、まあいってらっしゃい」


 もっと深掘りされるかと思いきや、母は案外あっさりと引き下がってくれた。


 自分の部屋に入り、今は誰も使っていないマットレスだけ置かれたベッドに腰掛けると、どっと疲れが押し寄せてきた。

 まったく……なんで実家に帰ってまで疲れなくちゃいけないんだか。

 大抵の人は実家に帰省すると家事をしなくて楽だ、ぐうたらできると言うが、私にとっては違う。二十代前半までは確かにそう感じていたけれど、最近はプレッシャーを強く感じてしまうから。


 その日はもう、母も私に出会いや結婚の話は降ってこなかった。お昼のワイドショーを見て、夕方からはお正月の特番を見ていた。完全な寝正月。特に楽しいこともないけれど、いつものように職場で嫌な思いをするよりはずっとマシだと思った。

 大和がいなくなってからの私の人生は、どうも色彩が欠けている。

 失った輝きを取り戻すために、明後日、あの人に会いに行くのだ。

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