それは"死人のような顔"ではなく、間違いなく、"死者の面相"であった──腐敗し始めている肌は至る所で皮膚が裂け、中から湧き出した蛆虫がポト、ポト──と地面に落ちては体をくねらせた。
「──ッ……これは、鬼ではない──ですが、いずれにせよ……"仏刀"で断ち斬らねばならぬ──この世ならざる不浄の存在……ッ!」
そのあまりにも醜悪な姿と腐敗臭とに思わず息を呑んだ雉猿狗が、両手で構えた〈桃源郷〉の美しい刃の切っ先を松の木の下に立つ女に差し向けた次の瞬間──。
「──やめてェェッッ──!!」
喉が張り裂けんばかりの大声を張り上げた桃姫が雉猿狗の背後から走り抜け、女の前に立ちはだかった。
「──桃姫様……何を──!?」
「──母上を殺さないでえええッッ──!!」
「……っ──!?」
両手を広げて血相を変えた桃姫の口から発せられた言葉に雉猿狗は絶句した。
「──雉猿狗は母上のことをよく知らないんでしょッ……! ──この着物とこの髪は……間違いなく、母上だよ──ッ!」
「……いけませんッ──! ──離れてください、桃姫様ッ──!」
桃姫は雉猿狗の警告を聞かずに振り返ると、女の顔を隠した長い黒髪を両手でかき分けた。するとそこには腐敗こそしているが、確かに美しい顔つきをした女の顔が現れる。そして、その顔は正しく小夜の顔であった。
光を失い濁りきった黒い瞳、悪寒を催す腐敗臭、そして、顔と手足から次々と湧き出てくる蛆虫──しかし、桃姫にとっては今まさに自分の目の前に現れてくれた愛する母親に他ならなかった。
「──桃姫様ッ──! この御方は、既に母君ではございませぬ……! ──この世ならざる魔者(まもの)でございますッ──!」
「……ああっ──!」
雉猿狗は鬼気迫る表情で叫ぶと、桃姫の小さな体に手を伸ばし、力任せに引っ張って小夜から離そうとした。その拍子に、桃姫は体勢を崩すとよろめいてその場に尻もちをつく。
「──やだぁッ──!! ──やめてええっ──! ──やめてえええッッ──!! ──やめてぇッ──!!」
「──っ!?」
地面に倒れ込んだ桃姫はこれ以上ないほどに泣き叫びながら、一心不乱に雉猿狗の腰に両手でしがみついた。
「──おねがぁい!! ──母上を殺さないでえええっっ!! ──雉猿狗、お願いぃぃい──!!」
「……桃姫様──! お気を確かに……ッ!」
両目を見開いて滂沱(ぼうだ)の涙を流しながら懇願する桃姫に対して、雉猿狗は激しく動揺しながら叫んだ。
「──母上……! ねぇ、桃姫だよ……! ──ねえ……私のことわかるよね……? ──ね……?」
桃姫は雉猿狗の腰を掴みながらよろよろと立ち上がると振り返り、亡者のように沈黙して立ち続ける小夜に呼びかけるように、甘えるように声をかけた。すると、小夜の顔がブブブッ──と痙攣するように震えて動き、桃姫と腐敗した顔を合わせた。
「……は、母上──」
その動作を小夜の反応と受け取り、思わず笑みを見せた桃姫──次の瞬間、小夜の口がグワァッ──と裂けながら大きく開かれると、真紅の"鬼の角"がドヴァッ──と鮮血を噴き出しながら桃姫の顔面目掛けて鋭く伸びた──。
「えっ……?」
「──くッッ──!!」
母親の顔が裂けるという突然の事態に呆然として声を漏らした桃姫の顔面に向け、高速で伸びた鋭利な"鬼の角"を雉猿狗が咄嗟に両手で握りしめて受け止める──。
小夜の口内から放たれた真紅の"鬼の角"は燃えるような熱を持っており、掴んだ雉猿狗の両手がジウウウウ──と音を立てながら焼け、黒煙を放った。
「ッ──があ嗚呼ッ……ッ! ……桃、姫様ッ──!」
雉猿狗は両手に走る激痛に苦悶の表情を浮かべながら、小夜と雉猿狗の間に挟まれ、"鬼の角"から滴り落ちる鮮血によって、顔を赤く濡らした桃姫に向けて叫んだ。
「……う、ううっ……!」
ブブブッ──と細かく震えながら、口の端を更に引き裂き、喉奥から雉猿狗に向けて、"鬼の角"を刺し伸ばす小夜のその恐ろしい顔を見上げながら、桃姫は恐怖に嗚咽を漏らした。
「──……桃姫様ッ──どうか、この雉猿狗の顔を見てくださいませ──! 死者に引っ張られてはなりませぬ──!」
雉猿狗は恐慌状態に陥った桃姫に呼びかける。桃姫を正気に戻すために、これ以上、死者に心を捕らわれないために──。
「──……雉、猿狗──」
その雉猿狗の懸命な呼びかけによって、桃姫は小夜から雉猿狗へと視線を移した。そして雉猿狗は桃姫に翡翠色の瞳を力強く向け、口を開いた。
「──"生きたい"と言ってくださいませッ──! ……桃姫様ッ──!」
「っ……!」
雉猿狗の心からの願いの叫び、その叫びは死者に心を捕らわれていた桃姫の濃桃色の瞳を見開かせ、雉猿狗の光り輝く翡翠色の瞳と強く交差させる。
「──"生きたい"と言いなさいッ──桃姫ッッ──!!」
雉猿狗の桃姫に対する力強い願いの叫びを受けて、恐慌状態に陥っていた桃姫の濃桃色の瞳に輝かしい光の熱が戻る。
「……いきたい……──雉猿狗、私生きたいッ──! 私、死にたくないよッッ──!!」
「──フッ──」
雉猿狗は桃姫のその言葉をしかと聞き届けると、凛とした笑みを一瞬だけ桃姫に対して浮かべたのち──。
「──よくぞ言えましたッッ──!!」
翡翠色の瞳から黄金の光を放ち、大気を震わす力強い声を発した雉猿狗は、自身の顔に向かって伸びる小夜の"鬼の角"をパッ──と手放した。
「──デリャアアアアアアッッ──!!」
そして間髪入れず、獣の咆哮のような怒号を張り上げながら、小夜の胴体目掛けて全身全霊の正拳突きを繰り出し、小夜の体を松の大木に向けて弾き飛ばした。
雉猿狗は地面に落ちた〈桃源郷〉を拾い上げると、松の根本に倒れ込んで、ガクガク──と激しく体を震わせる小夜に近づきながら、静かに口を開いた。
「……いったい誰の手によるものか……このような邪悪な所業が許されてよいはずがない──これは、"命の冒涜"に他なりませぬ──」
雉猿狗は強い怒りを込めて言いながら、両手に構えた〈桃源郷〉の切っ先を悶え苦しむように体を震わせる小夜の背中に差し向けた。
桃姫はその光景を見ながら、沈痛な面持ちで雉猿狗の背中に向かって声を投げかけた。
「……雉猿狗……! お願い、終わらせて……! 母上のこんな姿、見たくない──!」
「はい……小夜様に対しての許されざる"命の冒涜"──御館様から授かりしこの仏の刃にて……雉猿狗が今すぐ、終わりにいたしましょうッ! ──フッ──!!」
桃姫の悲痛な願いを受け、翡翠色の瞳に熱を込めながら宣言するように告げた雉猿狗。両手で握りしめた〈桃源郷〉の刃を高く振り上げると、小夜の背中目掛けて振り下ろした──。
「──キシャアァァァアア──!!」
その瞬間、突如として奇妙な"鳴き声"を発した小夜。銀桃色の刃が当たる直前、背中がバクリ──と左右に大きく裂けると内部から灼熱に煮え立った鮮血を盛大に噴き出して、雉猿狗の上半身に浴びせ掛けた。
「──ウウッ──!? ──アア嗚呼ッッ──!!」
煮えたぎる赤い血液に顔を焼かれて、目を閉じながら絶叫した雉猿狗が、怯みながら小夜の前から一歩二歩と後退りした。
「──雉猿狗っ……!!」
「──くッ──!?」
桃姫の叫び声を背中越しに聞きながら唸った雉猿狗は、霧状になった赤い血煙の中で目を開けると、霞んだ視界の中で、小夜の裂けた背中から昆虫のそれに似た"節足"が伸びていくのを見た。
「──そんな……ッ!」
雉猿狗は眼の前の光景に戦慄した。小夜の体から"脱皮"するかのように黒く鋭い六本の脚がズオッ──と抜き取られ、足先に伸びた鉤爪で地面を踏みしめる。
次いで、小夜の喉奥から伸ばしていた真紅の"鬼の角"をズボッ──と抜き取り、いよいよ"カブトムシ"に似た"鬼醒虫"の成体──"鬼虫"としての異様な姿を顕にした。
「……こんな……こんな冒涜、許されるわけが……」
雉猿狗は、"鬼虫"のあまりにも禍々しい姿に唇を震わせながら声を漏らした。
"カブトムシ"と云っても人間大の"カブトムシ"である──長く鋭く伸びた"鬼の角"からは、フツフツ──とあぶくを立てる灼熱の赤い血が溢れ出て、地面に滴り落ちると、ジジジ──と黒煙を立てた。
「……雉猿狗っ……!」
「──桃姫様は下がっていてくださいませ……! ──私が、始末いたしますゆえ……!」
心配そうに声をかける桃姫に対して雉猿狗は言って返すと、〈桃源郷〉を両手で構え直して"鬼虫"と対峙した。
そんな雉猿狗に対して、"鬼虫"は後部の二本脚の鉤爪を広げて、ムクリ──と器用に立ち上がると、赤い複眼を光らせて雉猿狗を睨みつけた。
「──キィィイイイッッ──!!」
「──覚悟──ッ!」
鋭い鉤爪が伸びる前部の四本脚を左右に大きく広げながら威嚇の声を発した"鬼虫"に対して、雉猿狗は〈桃源郷〉を後ろに引き下げながら声を発して駆け出した。
しかしその瞬間、雉猿狗の視界にモヤが掛かったように赤く霞んだ──雉猿狗の体は汚れはしないが損傷は受ける。灼熱の血液を顔に受けた雉猿狗の視界はまだ回復していなかった。
「──くッ……!」
視界が歪み、突き刺さされるような目の痛みを感じた雉猿狗。それと同時にブォン──と風切音を立てながら、雉猿狗に向かって高速で閉じられた四本脚から伸びる鉤爪の一本が、雉猿狗の左頬をスパッ──と切り裂いた。
それでも雉猿狗は怯まず、後ろに引き下げた〈桃源郷〉を"鬼虫"に向けて思いっきり横薙ぎに振り払った。
「──フゥッ──!!」
「──キシャアアアッッ──!!」
しかし、それより早く動いたのが"鬼虫"であった。真紅の"鬼の角"を振り払って雉猿狗の脇腹にズンッ──とぶち当てると、その体をグンッ──と持ち上げるようにして弾き飛ばした。
「──かはッ──!!」
苦悶の表情で翡翠色の瞳を見開いた雉猿狗は、"鬼の角"が当たった衝撃で肺から押し出された息を漏らすと、背中から地面に強かに叩きつけられる。
身悶えしながら苦しむ雉猿狗。その姿を見下ろした"鬼虫"は赤い複眼を妖しく明滅させながら、鉤爪が伸びる四本脚をワナワナ──と蠢かして、崩折れる雉猿狗に迫った。
「──あ……いやッ──!」
出血はしていないものの、左頬に切り傷をつけられた雉猿狗は、地面に叩きつけられた衝撃と脇腹の激痛とによって思うように立ち上がれず、倒れたまま悲鳴のような声を漏らして後退りした。
「──キシィィィイイイッッ──!!」
それに対して、あざ嗤うように甲高い声で鳴いた"鬼虫"──鋭く伸びた真紅の"鬼の角"を雉猿狗に差し向け、地面を踏みしめる二本脚にググッ──と力を込め、今にも雉猿狗に向けて飛び掛かろうとした瞬間──。
「──ヤエェェエエエエッッ──!!」
桃太郎ゆずりの裂帛の声を張り上げながら駆け出した桃姫──濃桃色の瞳を怒りの炎で燃やし、両手に握りしめた〈桃月〉による上段突きを"鬼虫"の背中に向けて全力で突き出した。
「──ッ……!」
雉猿狗は今にも襲い掛かろうとしていた"鬼虫"の腹部から伸びる銀桃色の刃を見た。そして、桃姫が"鬼虫"を刺し貫いたのだと瞬時に理解し、〈桃源郷〉を握る右手に力を込めた。
「──デヤァァァアアッッ──!!」
怒号を発しながら力を振り絞って立ち上がった雉猿狗が、右手に握りしめた〈桃源郷〉の聖なる刃を"鬼虫"の心臓目掛けて突き伸ばした。
前後から二本の仏刀で刺し貫かれた"鬼虫"は、自分の身にいったい何が起きたのかわからず一瞬、完全に沈黙した後──。
「……クィィィイイイイッッ──キュウウウ──!!」
耳障りな虫特有の断末魔を鳴きながら、絶命する──そして、桃姫と雉猿狗が同時に仏刀を引き抜くと、穿たれた二つの穴から黒い血がドポポ──と溢れ出し、"鬼虫"はその場にドサッ──と倒れ込んだ。
「──はぁ……はぁ……はぁッ……!」
「──ふぅ……ふぅ……ふぅッ……!」
桃姫と雉猿狗は倒れ伏した"鬼虫"の死骸越しに互いの顔を見合わせ、荒い呼吸を繰り返した。
「……桃姫様……ありがとう、ございます……」
そして息を整えた雉猿狗は、小さな両手に〈桃月〉を握りしめる桃姫の姿を見ながら感謝の言葉を述べた。
「……桃姫様が、勇気を振り絞っていなければ……今ごろ雉猿狗は──」
「──斬ったのに……大好きな母上を斬ったのに……」
雉猿狗が笑みを浮かべながら言うと、悲痛な面持ちをした桃姫は黒い血のついた〈桃月〉の刃を見ながら、呟くように声に出した。
「──母上を斬った感覚が、ない……悲しいはずなのに……涙も、出ない──私、おかしくなっちゃったのかな……ねぇ、雉猿狗」
桃姫は言うと、歯噛みしながら雉猿狗を見た。それに対して、雉猿狗は静かに首を横に振ると、桃姫の目をしっかりと見て口を開いた。
「……桃姫様……小夜様は天界に居られます……──桃姫様は、鬼を斬ったのです」
「……鬼……」
雉猿狗にそう言われた桃姫は、"鬼虫"の死骸を見下ろしながら口にすると、雉猿狗は桃姫に歩み寄って、桃姫を胸元に抱き寄せた。
「……御立派でしたよ……本当に、御立派でした……」
「…………」
雉猿狗は桃姫の柔らかな桃色の髪の毛を撫でると、桃姫は雉猿狗の胸に顔をうずめながら黙って頷いた。
「行きましょう、桃姫様。この"鬼の虫"は、悪意ある何者かによる差し金でございます……ここに長居すれば、すぐに次の鬼がやって参りましょう」
「……うん」
雉猿狗の言葉を聞いた桃姫は雉猿狗の身体から離れると、〈桃月〉の黒い血を振り払って帯の左側に括り付けた白鞘にスッ──と納めた。
「──桃姫様」
その姿を見ながら、雉猿狗は翡翠色の瞳を細め、確信と共に言葉を告げる。
「……あなた様は、誰よりも強くなります──雉猿狗には、それがわかります」
そう言った雉猿狗も〈桃源郷〉の刃を振り払い黒い血を飛ばすと、白鞘に納める。そして、人がやってきて騒動になる前に、二人はその場を離れるのであった。
「──ほう……桃の娘と──三獣の化身……これは……かかかか……! ……たまげたのう──」
感心したようなあざ笑っているような、どちらとも取れる声音で発せられた特徴的なしゃがれ声。早朝の宿場町を遠くに去っていく二人の姿を見ながら、役小角が黄金の錫杖をチリンチリン──と突きながら現れた。
「……ふん……無様じゃのう……所詮は虫ケラ。一匹ではどうにもなりますわいの」
役小角は息絶えた"鬼虫"の死骸を見下ろして吐き捨てるように言うと、黄金の錫杖の先端でその黒い殻を軽く突いた。すると、突かれた箇所から瞬く間に灰に転じていき、"鬼虫"の死骸は風に吹かれて消え去った。
次いで、役小角は宿屋の前に倒れ伏している巨漢の鬼人兵の前まで歩み寄ると白装束の懐から左手で一枚の呪札を取り出し、右手で黄金の錫杖を構え、マントラを唱える。
「──オン──アミリテイ──ウン──ハッタ──」
そして、紫光した呪札を巨漢の鬼人兵に向けて放り投げると、ひらひらと舞った呪札が鬼人兵の心臓の穴を塞ぐように貼り付いた。
「……ヴゥ……ウグゥァ──ガガアア……」
息を吹き返した鬼人兵は、唸り声を上げて赤い眼に光を取り戻すと役小角はふんと鼻を鳴らしてから口を開いた。
「おぬしは運がいいのう……いんや、死ねなかったのだから、運が悪いのか……? ──かはははは──!」
役小角は高笑いの声を発すると、呪札の束を空中にばら撒いて門の形を作り出す。
そして、巨漢の鬼人兵を先に呪札門の向こう側に映る鬼ノ城の広場に送り込むと、自身も呪札門をくぐろうとして、その手前で振り返った。
「……"千年儀式"……その総仕上げの直前だというに……よもや、このような楽しみが増えるとはな……」
宿屋が立ち並ぶ道の先、微かに見える桃姫と雉猿狗の姿。役小角は漆黒の眼球が隠れるほど目を細め、満面の笑みを浮かべながら呟いた。
「──まったく、長生きはしてみるものだ……のう、桃よ? ──くかかかかかッッ……!!」
役小角は高らかに笑いながら白装束の裾を持ち上げて呪札門を跨いで入り込む。次の瞬間、門を形作っていた呪札は、フッ──と紫光を失い、バラバラに崩壊して地面に落ちた。
そして赤い呪文が書かれた黒い呪札の群れは、独りでにボッ──と火がついて燃え上がると、東の空に太陽が昇り出した早朝の秋空を、灰に転じながら舞い飛ぶのであった。