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7.獣心閃

「──ッ、桃姫様ァアアッ──!!」


 鬼蝶の取った不穏な動作に危険を察知して叫んだ雉猿狗が、獣の如き速さで駆け出し、枕元の〈桃源郷〉を拾い上げながら桃姫の背中に飛びつくと押し倒すように鬼蝶の面前から退けた。

 その瞬間──左手の人差し指を左目の下に押し当てた鬼蝶が黄色い瞳をカッ──と大きく見開く。


「──燃え尽きなさいなァッ──!!」


 鬼蝶の怒号と共に燃え盛る左目から撃ち放たれた火炎の渦は、雉猿狗と桃姫の脇を通り抜けると、並んだ布団を燃やしながら引き戸を吹き飛ばし、階段を下って宿屋の一階を瞬く間に火の海に変えた。

 その信じがたいほどの破壊力を目の当たりにした雉猿狗は、抱きかかえる桃姫に向けて叫ぶように言った。


「──お逃げください、桃姫様ッ──ッ!」

「……雉猿狗ッ……!?」


 声を上げる桃姫を背にして立ち上がった雉猿狗は、〈桃源郷〉を両手で構えて鬼蝶と対峙する。


「──私が相手をします……! ──悪鬼ッ──!」

「雉猿狗……あなたはどうでもいいのよ。私のお目当てはね、そっちの可愛い──」


 翡翠色の瞳に力を込めながら告げた雉猿狗に対して、鬼蝶は冷めた口調で答えながら雉猿狗の後ろで戸惑っている桃姫の姿を燃える瞳で捉えた。


「──私が相手だと言っているでしょうッ──!!」


 桃姫を狙いすました鬼蝶に対して、雉猿狗は自身に注意を引き付けるように大声を張り上げながら駆け出すと、高く振り上げた〈桃源郷〉の刃を桃姫を見る鬼蝶の顔目掛けて全力で振り下ろした。


「──ッ!?」


 しかし、雉猿狗の気合を込めた渾身の一太刀は、鬼蝶が顔の前に軽く持ち上げた左手の鬼の爪でいとも簡単に防がれてしまった。


「──ああ……弱い、弱い──♪」


 鬼蝶は残忍な笑みを浮かべながら言うと、桃姫から雉猿狗に視線を移動させて、その顔を睨みつけながら口を開いた。


「ねェ……"祭り"の邪魔をしないでちょうだい──ケモノ女」


 ドスの利いた低い声を発し、"鬼の眼"で睨みを利かせる鬼蝶。雉猿狗は〈桃源郷〉を握りしめる両手を通じて、圧倒的な力量の差を鬼蝶から感じ取ると、戦慄しながら桃姫に向けて叫んだ。


「──桃姫様──ッ! 今すぐ逃げてッッ──!!」


 雉猿狗の鬼気迫った叫び声を聞いた桃姫は、ハッ──と正気を取り戻すと、崩れた外壁の外に広がる大通りに顔を向けた。

 そして、視界の中に飛び込んできた光景に桃姫は言葉を失った。

 あたり一面に広がった燃え上がる町並み──半年の暮らしの間に見慣れた美しい堺の都が真っ赤に燃えて見るも無惨な地獄絵図と化していた。

 人々は叫びながら逃げ惑い、その光景は二度と思い出したくないはずだった花咲村の"祭りの夜"を桃姫の脳裏に想起させた。


「──……うそ、でしょ……」


 濃桃色の瞳の中に赤く燃える堺の都を映し出した桃姫が、絶望に打ちひしがれながら声に漏らすと左目からゴウゴウと灼熱の炎を噴き上げる鬼蝶が笑みを浮かべながら答えて返した。


「ホ・ン・ト──これが現実なァの……あーはははははっっ──!!」


 鬼蝶は愉快そうに炎を噴き出す目を細めながら高らかに笑う。桃姫はその姿を見て、この鬼が一人でこれをやったのだと理解し、そして、"敵わない"──と怯える心で確信した。


「ああ……っっ──!!」

「──そうです、走って──!」


 激しい恐怖に襲われた桃姫は力を振り絞って立ち上がると、脱兎の如く部屋から走り出した。それに対して雉猿狗が声を上げる。

 一心不乱に走った桃姫は、崩れた宿屋の外壁から瓦屋根の上に飛び乗ると、そのまま大通りに向かって転がり落ちるようにして飛び降りた。


「……あら、待ちなさい桃姫ちゃん──」

「──あなたの相手は私だと言ったはずですッ──!!」


 鬼蝶が桃姫の背中を追いかけようとしたその時、雉猿狗が声を張り上げて鬼蝶の左手で受け止められている〈桃源郷〉を握る両手に力を込めた。


「雉猿狗……何度も言って申し訳ないんだけど──あなたに興味ないのよ……私」


 鬼蝶は雉猿狗に対して吐き捨てるようにそう言うと、空いている右手をフッ──と大きく振って、袖の中から金色の篠笛を取り出し、その手に握った。


「……そうねェ、あなたのお相手は……虫ちゃんにお願いしましょうかしら──♪」


 鬼蝶はそう言ってにんまりとほほ笑むと、歌口に赤い唇を重ねて篠笛を吹き鳴らして物悲しい旋律を奏で始めた。


「──妙な真似をするなッ──!!」


 鬼蝶の左手に向けて押し込んでいた〈桃源郷〉を振り上げ、鬼蝶から距離を取った雉猿狗は、目を閉じて優雅に篠笛を吹く鬼蝶に対して声を発した。

 雉猿狗の声に動じることなく篠笛を吹き続ける鬼蝶に対して、雉猿狗が再び〈桃源郷〉を振り上げたその時──崩壊した外壁の向こう側に広がる赤く染まった夜空から、大きな"翅"を広げて飛翔する赤い物体がこちらに向かって突撃してくるのを雉猿狗は視界の端に捉えた。


「──なッ──!?」


 瞠目した雉猿狗が対応する間もなく、宿屋の二階に飛来した赤い物体は〈桃源郷〉を振り上げた雉猿狗の体に体当りするようにぶつかってきた。


「──面白いでしょう……? "宿主"が女の場合はカブトに、男の場合はクワガタに似るのよ。"鬼醒虫"って不思議……ねぇ、そうは思わない──?」

「……ぐ……グッ──!」


 鬼蝶が奏でる篠笛の音を合図に、外から飛び込んで来た"鬼虫"によって畳の上に押し倒される状態となった雉猿狗。

 人間大の赤いクワガタに似た"鬼虫"が左右に開いた大きなアゴで雉猿狗の頭を押し潰そうと迫る。

 それに対して、左手に握った〈桃源郷〉と手甲を付けた右手とで必死にアゴを閉じさせまいと耐える雉猿狗は、その赤い異様を見て播磨で遭遇した"鬼の虫"のことを思い出した。


「──"播磨の虫"を作ったのはあなたですか……! 桃姫様の……小夜様の亡骸を──! "命の冒涜"をして……ッ!」

「ああ……あれをやったのは私じゃないわ──それに、"命の冒涜"だなんて人聞きの悪いことを言わないで──これは"命の再利用"よ」

「──ふざけるなあッッ──!!」


 雉猿狗は叫びもがくが、しかしこのクワガタに似た"鬼虫"は男を元にして作られているというだけあって重さと力も相応にしてあり、押し返すのは困難を極めた。


「──それじゃあ、私は桃姫ちゃんと遊んでくるから。あなたはその醜い虫ちゃんと遊んでいなさい──よくお似合いよ、低俗な獣らしくてね」

「……待て──待てぇッ──!!」

「──あーはははははっっ──!!」


 叫ぶ雉猿狗の声も虚しく、鬼蝶は笑いながら崩れた外壁の縁に踊り出ると、隣接する家屋の屋根に向かって軽々と舞うように飛び移りながら移動していった。


「──クソぉッ──! くそっ──! こんな、虫如きに──! 私がッ──!」


 雉猿狗は何とか抜け出そうとするが、しかし抑えている腕の力を弱めればアゴが閉じて万力のような怪力によって頭が潰されてしまうことが雉猿狗にはわかった。

 この状況を抜け出すためには、誰か第三者の助けが必要なのは疑いようがなく、雉猿狗は情けないと思いながらも力の限りの大声で叫んだ。


「──どなたか……! どなたか、おりませんかッ──!! 助けてくださいませッッ──!!」


 雉猿狗の助けを求める声は、丁度大通りを走っていた会合衆の若い男の耳に届いた。

 会合衆の男は、声のした方向、宿屋の二階を見ると叫ぶ。


「その声……! 雉猿狗殿かい──!?」


 会合衆の男は一階が燃えていることも気にかけず宿屋に押し入ると、階段を駆け上がって二階にいる雉猿狗の元へと駆けつけた。


「──雉猿狗殿ッ──!」

「──会合衆のお侍様ッ──!」


 巨大な赤いクワガタに押し倒されている雉猿狗の姿を見た会合衆の男は咄嗟に刀を抜いて構えると、鬼虫に向かって有無を言わさず斬り掛かった。


「こンの化け物ッ──! 雉猿狗殿から離れろおッッ──!!」

「──キィイイイイッッ──!!」


 背中を斬りつけられた鬼虫は叫びながら後ずさり、雉猿狗の体から離れる。その隙に雉猿狗は立ち上がり、会合衆の若い男の隣に並んだ。


「……雉猿狗殿、ご無事ですか──!?」

「──はい! 本当に助かりました……!」


 雉猿狗のことを気遣う会合衆の男に感謝の言葉を述べると、雉猿狗は〈桃源郷〉を構え直してクワガタ型の鬼虫に切っ先を向けた。


「いったい何なんだ、こいつは……! こんな虫の形をした化け物が堺の至るところにいやがる──!」

「っ、まさか……他にもいるというのですか──!?」


 雉猿狗は驚いて聞き返すと会合衆の男は頷いて返した。


「はい。男ども十人掛かりでなんとか一匹倒したのですが、そのあとも次から次へと湧いて出てきて。町は火の海になるし……一体何が起きて──」

「──キシャアアアッッ──!!」

「──伏せてくださいましッッ──!!」


 奇声を発しながら、跳ねるように会合衆の男に向かって飛びかかって来た鬼虫に対して、雉猿狗は〈桃源郷〉の銀桃色の刃を横に倒すと、全力で薙ぎ払うように振り払いながら獣の咆哮のような大声で叫んだ。


「──獣心閃(じゅうしんせん)ッッ──!!」


 仏の加護を受けた〈桃源郷〉の長い刀身が、咄嗟に伏せた会合衆の男の頭上をブオンッ──と高速で通り過ぎると、勢いそのまま飛びついてくる鬼虫の胴体を上下に寸断した。

 ドサッ、ドサッ──と鬼虫の上半身と下半身が畳の上に落下し、切断面から黒い体液がドプッ──とあふれ出した。


「……ひ、ひっ──!」


 それを見た会合衆の若い男は引きつった声を上げて尻もちをついて後ずさりすると、怖ず怖ずと雉猿狗の姿を見上げた。

 〈桃源郷〉の刀身についた黒い血を振り払った雉猿狗は、会合衆の男に振り返って丁寧にお辞儀をすると口を開いた。


「──助けて頂き誠にありがとうございました。この御恩、決して忘れません──会合衆の皆様のご無事を祈ります……!」


 雉猿狗はそう告げると、桃姫が投げ捨てていった〈桃月〉の白鞘を拾い上げ、〈桃源郷〉を収めた白鞘と共に左腰に括り付けてから、崩れた外壁に向かって駆け出し、桃姫と鬼蝶の後を追って大通りへと躍り出た。

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