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43.VS湯水(part5)

……お兄ちゃんと、本当の意味での二人暮らしが始まってから、私はもう楽しくって仕方なかった。


だって、だってだって、お兄ちゃんと二人きり。


前の家もほとんどそうだったけど、でも、今度はホントの二人きり。自分達の選んだお部屋で、一緒に暮らす喜びって、こんなに大きいんだって思った。


今は家賃を隆一パパから貰っているけど、お兄ちゃんが就職した後は、もう完全に私たちが自立する時。


今家賃を貰っていることすらお兄ちゃんはあんまり好んでないけど、隆一パパは今まで構ってやれなかったからってことで、お金をくれている。柊さんと城谷さんも言ってたけど、貰えるものはありがたく貰っておいていいと私は思うな。


「ただいまー」


私が夕飯の準備をしていた時に、お兄ちゃんが玄関から帰ってくる。私はすぐに玄関へ向かい、「お帰り!」と言ってお兄ちゃんを出迎える。


「ただいま美結!今日のご飯はなにかな?」


「今日は肉じゃが!もう少しでできるよ!」


「おー!いいね!何か手伝おうか?」


「えーと、じゃあ食器だけ用意しててくれる?」


「はいよ~」


そうしてお兄ちゃんと共に、キッチンへと向かう。


お兄ちゃんがお茶碗にご飯をよそったり、コップにお水を注いでいる横で、私はお鍋に入っている肉じゃがを味見していた。


「よし、もういいかも」


鍋の火を止め、肉じゃがをお皿に盛る。お兄ちゃんと一緒にリビングのテーブルへできた料理を持って行って、座布団を敷いてその上に座る。


今日のメニューは、炊きたてのご飯に、豆腐とワカメのみそ汁、そして豚肉と玉ねぎがたくさん入ってる肉じゃが!


「「いただきまーす」」


手を合わせて、二人一緒にご飯を食べ始める。ホクホクのじゃがいもがあったかくできてて美味しい。


「肉じゃがうまいなー!さすが美結!」


お兄ちゃんがにっこり笑って、そう言ってくれた。私は嬉しさと恥ずかしさで、「えへへ」と肩をすくめて笑い返した。


お兄ちゃんは嬉しそうに私のご飯を食べてくれている。いつもお兄ちゃんは、私のご飯を褒めてくれる。お兄ちゃんの一言だけで、頑張って作った甲斐があるなって、そう思える。


「……………………」


ふと見ると、お兄ちゃんは黙り込んでいた。あれ?と思って、私は首を傾げた。


いつもなら、私の料理を褒めてくれた後、学校であった面白話や、私と土日にするデートの予定なんかを話題にしてくれるのだけど、今日のお兄ちゃんはやたらと寡黙だった。


いや、寡黙というか……何か考え込んでいる感じだった。手にお茶碗を持って、口にご飯を運んでいるけれど、心はここにあらずといった雰囲気で……。


一度そういう風に捉えると、心なしか眉も険しくシワがよっているようにさえ思えてくる。


「お兄ちゃん?」


私がそう尋ねると、お兄ちゃんは「ん?」と言って私に顔を向けた。私はお兄ちゃんに「何かあったの?」と続けて告げる。


「何かあったかって?」


「いや、お兄ちゃん……なんとなーく考え込んでる感じだったから」


「……ふふ、そうか。さすが美結。バレちゃったな」


「バレちゃった?」


「……ちょっと、湯水の件で困ったことになってさ」


「何か……湯水に嫌なことされた?」


「……少し長くなるけど、話しても大丈夫かい?」


「う、うん」


私がうなずくと、お兄ちゃんはお箸を置いて、私に今日の出来事を語ってくれた。







……事の起こりは、朝方のホームルームすら始まる前だった。


俺が自分の教室に向かうと、その入り口付近に湯水が立っていた。


俺のクラスメイトたちが、「なんでここに一年生が?」といった表情で彼女を見ていたけど、当の本人は丸っきり気にしていなさそうだった。


「あ!渡辺先輩!」


彼女は俺を見つけたるや否や、スタスタと俺の元まで歩いてきた。そして、俺に遊園地のチケットを差し出した。


俺が、これはなに?と尋ねる前に、彼女の方から答えてきた。


「今度の日曜日、私とデートしてください」


「は?」


「もうチケットは買いました。だからデートしてください」


「な、何を言ってるんだ……?」


この前、あれだけはっきり『嫌いだ』と言われておいて、まだ懲りずに俺を誘ってくるのか……?鋼のメンタルというか、頑固者というか……。


当然、俺の答えは決まっている。「行くわけないだろ」と、彼女も理解しているはずの返事をした。


「湯水、俺はちゃんと言っただろ。俺はお前が嫌いだ。本当なら顔だって見たくない。そんな子とデートなんて……するわけないだろ」


「渡辺先輩、あなたは私を誤解してます」


「誤解?」


「ええ、その誤解を……このデートで払拭したいんです」


何がなにやら分からない。どういうことだ?俺が一体、何を誤解していると?


「誤解だかなんだか知らないけど、湯水、俺には彼女がいる。お前であろうとなかろうと、デートなんてできるわけない」


「……………………」


「ほら、さっさと教室へ帰んな。そろそろホームルームが始ま……」


と、そこまで言いかけた時、俺は湯水の顔を見てぎょっとした。


なんと彼女は、泣いていた。


目に涙をためて、うるうると濡れた瞳から、一筋の涙が頬をつたる。 もちろん、それが嘘泣きであろうことはすぐ予想できたが、まさかこいつが泣くところを見ることになるとは……と、そんな驚きが俺の中にあった。


「なんだなんだ?」


「見て、あの子泣いてる」


「明が泣かしたのか?」


辺りがざわつき始めたのを感じて、俺はハッとした。


そうか、こいつ……わざわざ人通りの多いところでデートの誘いなんてお前らしくもないと思ったら……そういうことか!


俺にフラれて泣いている様を見たら……見物人たちが集まってくる。そして、デートを受けない俺が悪いという空気になる。俺はその空気に負けて、しぶしぶデートを受ける……と、そんな作戦だってことか。


くそったれめ!そんな戦略に乗せられてたまるか!


「じゃあな湯水、お前も早く自分のクラスに帰れ」


そう言って、素っ気なく帰ろうとした時、なんと湯水は、俺の袖を掴んできた。


「渡辺先輩……一回だけ、一回だけで良いですから」


そしてさらに、うるうるした上目遣いで俺を攻めてくる。


「一回も糞もあるか!行かねえと言ったら行かねえよ!」


さすがにイラついてきた俺は、自ずと語気が荒くなった。その時、クラスメイトの女の子が「そう怒ることないじゃん渡辺くーん」と野次を飛ばしてきた。


「渡辺くんの彼女ちゃんには一言説明してさ、その子とデートしてあげなよー。一回だけなんでしょー?」


「俺は浮気なんて真っ平ごめんだよ!一回やるも百回やるも同じだ!」


「そう意固地にならずにさ~。彼女ちゃんが許してくれたら、万事解決じゃん?相談くらいしてみなって~」


「……………………」


彼女の言葉を皮切りに、周りにいた何人かが俺へ次々に言葉をかけてくる。


「その子、めっちゃ渡辺のこと好きっぽいんだしよ、ちょっとは許してやったらどうだ?」


「そんな可愛い子泣かせちゃうのはよくないってー!渡辺くんも譲歩してあげたら?」


「バカ言うな!泣いてるからって浮気していい理由にはならないだろ!むしろ、相手が泣くくらい俺に対して本気なら、俺も本気の気持ちで接するんだ!俺の本気は、彼女以外とはデートしないってこと!だから絶対に断る!」


「相変わらず硬派だな~明は!もう少し柔軟になれよ~」


アウェーな空気の中、俺は必死に抵抗した。百歩譲って、美結の親友であるメグちゃんならまだいいが……相手はあの湯水だ、美結をいじめた湯水 舞だ。意地でもデートなんてするもんか!



キーンコーンカーンコーン



俺を焦らせるチャイムが、廊下や教室に鳴り響いた。


周りの野次馬たちは、急いでクラスの自席へと座っていく。当然俺もクラスに入りたいのだが、湯水が離してくれない。


「湯水!いい加減にしてくれよ!お前も俺も先生から怒られちまうぞ!」


「ねえ渡辺先輩!お願いですから!デートして!デートして!」


……湯水に対しての腹立たしさはもちろんあるが、それ以上に……なぜこんなにも必死なのか分からなくて、非常に不気味だった。


湯水は今まで、影でこっそり男を落としていくタイプだった。柊さんの分析では、表沙汰にすると他の人間から妬みを買うので、それを避けるために彼氏を公にしない……そんな人間だと思われていた。


しかし、ここにきてまさかの……公どころか、面前の前でこんな展開は、さすがに予想していなかった。


ひょっとして本当に……俺はこいつに好かれてしまったのだろうか?と、そう錯覚してしまうほどに……。


「……………………」


いや、そんなわけない。湯水はそんな甘い人間ではない。必ずこれも意図的だ……!


俺が最も断りずらい状況に追い込むための、そういう戦略だ!


「ねえ渡辺先輩!私のこと、好きじゃなくてもいいですから!一度だけ……思い出をちょうだい……?」


うっ……!ちくしょう、この女優め……!俺の罪悪感を突っついてくるセリフを上手いこと吐きやがる……!


「……………湯水」


俺はもう、これ以上怒っても仕方ないと思い、一旦深呼吸をしてから、彼女の目を見て言った。


「とりあえず、今は一旦帰れ。話は後から聞いてやるから」


「嫌です!デートを承諾してくれるまで帰りません!」


く~~~~!!なんて女だこの野郎!切れ者め!俺を焦らせる状況にことごとく追い詰めてきやがる!


「おい、何をしてるんだ?渡辺」


ふと気がつくと、廊下には既に担任の先生が立っていた。俺と湯水を交互に見て、怪訝な顔をして俺たちに言った。


「もうホームルーム始まるぞ?席につきなさい」


「ほら湯水、先生もこう言ってるだろ!?早く帰れよ!」


「うう~~!ううう~~~!」


湯水は涙に濡れた頬を手で拭いながら、俺の先生に向かって言った。


「先生……渡辺先輩が、デートに来てくれないんです……」


はあ!?こ、こいつ、先生まで巻き込むつもりかよ……!


「デ、デート?」


ほら見ろよ!さすがに先生も驚いてるぞ!これ以上お前が騒いでも、自分の信用を落とすだけだぞ!


「あ~、ごほん。渡辺と~、それから一年生の君。そういうことは授業が終わってからにしなさい。いいね?」


「……………………」


湯水は唇を尖らせてうつむくと、小さく「はい……」と言って、ようやく俺から腕を離した。


そうして、名残惜しそうに俺へ一瞥を送ると、とぼとぼと自分の教室に帰っていった。


「はあ~~~…………」


盛大にため息をついた俺は、先生とともに教室へと入った。


「ひゅーひゅー!明モテモテじゃーん!」


「渡辺くん、女の子泣かすなんてサイテー!」


「ねーねー!ホントにデートしないのー!?もったいないなー!」


クラスメイトたちから、やいのやいのまたもや野次が飛ぶ。


「ちぇ、他人事だと思って、言いたい放題言いやがって!デートなんかするわけねえよ!」


俺が野次に対してそう答えるが、クラスメイトたちはまだまだ熱が冷めないでいた。


「なんか渡辺くん、珍しく怒ってるねー!なんでー?」


「そうそう、渡辺くんがあんなに怖い顔してるの、初めて見たかも」


「明ー!お前あれだろ!ホントは好きだけど意地悪したくなる系のやつだろ!」


「渡辺ー!カッコつけんなー!素直になれー!」


矢継ぎ早に送られる野次は、先生によって止められた。


「はいはい、そこまで。渡辺、男女間のもつれは、ほどほどにするように」


「……すんません」


俺は全く悪くないけど、この場ではそう言わざるを得なかった。なんとも嫌な気分を抱えながら、俺はその日を送る羽目になった。





「……と、まあ朝方に起こったのが、まずそんな感じだ」


そう言ってお兄ちゃんは、グラスに入ったお水を一気に飲み干した。


「危うくさ、『美結をいじめたお前なんかと誰が行くか!』って言いそうになったよ」


「……そっか、湯水、手を変えてきたんだね」


「ああ、さすがに俺も困惑した。だが……俺よりも大変な思いをしたのは、メグちゃんの方だ」


「メグ?」


「そうだ。当然、彼女の方にもこの件が飛び火するのは予想がつくが……まさか、あんなことになるとはな」


お兄ちゃんはひとつため息をつくと、話の続きを聞かせてくれた。






……その日の昼休みも、当然いつものようにメグちゃんと一緒にいた。


屋上で二人、お弁当を食べながら話すことと言えば、やはり湯水のことだった。


「……すごいですね、湯水。演技とは思えないくらいの迫真さですね」


メグちゃんは俺の話を一通り聞いた後、そんな風に答えた。俺も購買で買った焼きそばパンを齧りながら、「そうだね、俺も正直度肝を抜かれたよ」と、率直な意見を述べた。


「人前で泣きわめくなんて、たとえ演技であろうとも、プライドの高いあいつが一番やりたくなさそうなことなのにな」


「……………………」


「だが、今までにない方法を使うようになったってことは、間違いなく本気ってことだ」


俺はパンを全部食べ尽くし、手についたパン粉を払って落とす。


「もう、一年生たちから俺に黄色声をかけられることはずいぶん減った。だから今の俺にそこまでする価値があるなんて到底思えないが……湯水は何がなんでも、俺を手に入れたいらしい。しかし、なんでまたそんなことになったんだろうなあ……?」


「……………………」


メグちゃんが、何か言いたげに俺へ目配せをしてきた。だが、言うのを迷っているのだろうか、彼女の口は閉ざされたままだった。


「どうしたの?メグちゃん」


「……いや、あの……明さんを本気で狙うようになったきっかけ……たぶんこれじゃないかな?っていう心当たりが、ひとつだけあるんです」


「え!?メグちゃんに心当たりが!?」


「実は午前中の……国語が自習だった時のことなんですけど……。湯水がクラスメイトたちに話してたんです。『私はこの前、渡辺先輩に元カレから助けてもらった』って」


「!?」


「『元カレにしつこく付きまとわれてたところを、渡辺先輩が颯爽と助けてくれて、それでさらに好きになっちゃった』……って、そう話してたんです」


「……………………」


メグちゃんは俺の目を見て、おそるおそる伺うようにして「これは本当のことなんですか?」と尋ねてきた。


「……ああ、確かに本当のことだ。湯水が元カレにだいぶしつこく付きまとわれてるのを、帰り際にたまたま見かけてな。最初はそのまま無視して帰ろうと思った。むしろ『日頃の行いが悪いからだ、ざまあみろ』なんて、醜い気持ちもあったりした。だけど……」


「だけど?」


「……そんな醜い気持ちを持った人間で、本当に良いんだろうか?って、そんな考えが頭をよぎったんだ。俺がじいさんになって……まあ、じいさんじゃないかもしれないけど、いつの日か死んだ時、母さんの前に出ていって……『母さん!俺は立派な人間だったよ!』って、胸を張って言えるだろうか?って、そう思ってさ……」


「……………………」


「人が嫌な目に遭っているのを、ざまあみろって思うような俺だったら、母さんの前で胸を張れる気がしないんだ。だから……湯水であっても、助けるべきだって。本当にただの、俺の自己満足だよ。俺が母さんの息子として恥ずかしくない人間でいたいっていう、本当にただそれだけなんだ。だけど、それが裏目に出ちまったな……」


「……………………」


「やらない方が良かったかもな……。こういう『表だって好きになったと言いやすいきっかけ』を、湯水に与えてしまった。そこをなにか……やつの戦略の一部に使われてしまっているのかも知れない。軽率なことをした……」


「……いえ、そんなことありません。明さんは、とても立派です」


「そうかな?」


「はい……」


その時、メグちゃんは突然、ぼろぼろと泣き出した。そして、「私……明さんのそういうところ、大好きです」と、声を震わせて言った。


俺はあまりに突然のことで、一瞬固まってしまった。何秒か経って、ようやく絞り出すように出てきた言葉は……「大丈夫かい?」という、なんともベタなものだった。


彼女は下唇を噛み締めて、すんすんと鼻をすすりながら話してくれた。


「……別れたらいいのにって、言われました」


「え?」


「クラスメイトたちから……『渡辺先輩は、湯水ちゃんと付き合うのがお似合い。平田さんじゃない』って、そう言われました」


「……………………」


「湯水さんも、渡辺先輩も、どっちもすごい人たちだから……すごい人たちがカップルになるべきだって……」


メグちゃんは手の甲で目をごしごしと拭う。肩が上下していて、呼吸が浅いことが容易に見て取れる。


「ごめんなさい……私が泣くなんて、意味わかんないですよね。でも、なんか……すっごく辛くって……」


「……………………」


「明さんとは、嘘の恋人ですけど…………でも、やっぱり、私は明さんが好きで……それで……」


「……メグちゃん」


「私、きっと平気だって思ってました。嘘の彼女だから、何を言われても平気だって。たぶん、湯水本人に言われるんだったら、私もへっちゃらだったと思います。でも、他の人からも言われるのが、こんなに辛いとは思わなくて……」


「……………………」


「ごめんなさい……思ったより、私、弱かったです…………」


俺は、気がつかぬ内に……歯を思い切り噛み締めていた。そして……目をつぶり、メグちゃんを抱きしめようと手をのばした。


だけど……美結の顔がどうしても目蓋の裏に現れて……その手は行き先を失った。


美結以外の女の子を抱きしめるのは……やっぱり、いけない気がした。


どこにも行けなくなったその手は、そのまま空中で止まり、ぎゅっと拳を作って丸くなった。


「……ごめんね、メグちゃん…………俺のせいで……」


俺にできたのは、彼女に謝ることだけだった。メグちゃんは首を横に振って、少しだけ微笑んだ。


「明さんのせいじゃ、ないですよ……」


「だけど……俺が余計なことをしなければ……」


「いいんです。明さんは、明さんらしいことをされた。それでいいんです」


「……………………」


「大好きです、明さん」


彼女がうつむいて泣く様を、俺はただ見守る他なかった。


抱きしめられなくとも、せめて何かしようと思い、彼女の丸まった背中を静かにさすった。


彼女は黙ったまま、少しだけ嬉しそうに笑った。





「……そっか、メグ…………」


私は、お兄ちゃんからの話を聞いて、なんだか苦しくなった。


メグは、メグ自身がお兄ちゃんを好きだからって理由もあるけど、私のために……お兄ちゃんと嘘の恋人を演じてくれてる。だから……メグが傷ついたのは、私のせいでもある……。


「……私、メグに謝らなきゃ」


「美結が?」


「だって、湯水から私のことを守るために……お兄ちゃんと嘘の恋人をしてくれてるんだもの。私のせいでも……あるもん」


「……………………」


お兄ちゃんは少しだけ考えた後、「絶対に美結のせいなんかじゃないと思うけど……」と、前置きしてからこう言った。


「メグちゃんには、一言声をかけてあげるといい。電話か何か……簡単でもいいから」


「うん」


「……それから、その。ごほん、実はまだ話には続きがあってさ……。ちょっとその……美結に謝らないといけないことがあって」


「謝らないといけないこと?」


「実はその……約束しちまった。湯水とのデート」


「え!?」


「とりあえず、話を続けてもいいかい?」


「う、うん……」







「……湯水」


放課後、みなが帰宅するために下駄箱へ向かったり、あるいは部活のために体育館やグラウンドへ走ったりしている中、俺と湯水は廊下のど真ん中で対峙していた。


「渡辺先輩!」


湯水がキラキラと眼を輝かせ、両手を前で組んで俺の名を呼ぶ。 それに苛立ちつつも、俺は彼女へ言った。


「ちょっと、時間あるか?」


「はい!渡辺先輩のためならいくらでも時間作りますよ!」


「……………………」


「ところで、彼女は……平田さんは良かったんですか?」


「今日は先に帰ってもらった。長引くと迷惑かけちまうからな」


そうして俺は、湯水を連れて保健室へと向かった。


今の時間帯は、保健室に先生がおらず、誰もいない場所なので密会には持ってこいなのだ。


扉を閉める前に、入り口前の廊下をキョロキョロ見て、誰もいないことを確認してから、ぴしゃりとその扉……引戸を閉じた。


「保健室で、話すんですか?」


「………………」


「うふふ、なんだか緊張します。渡辺先輩と、個室で二人っきりなんて」


「………なあ湯水」


保健室の真ん中に立つ彼女に向かって、俺は告げた。


「お前、一体なんで俺に……そこまで拘るんだ?」


「拘るって?」


「なぜわざわざ、俺のクラスの前で……あんな真似をした?」


「あ、ごめんなさい……。私、その、どうしても渡辺先輩とデートしたくて……」


「御託はいい!湯水、お前はなぜ俺にそこまで執着するんだ!?」


……俺は、もう正面から湯水と向き合うことにした。


メグちゃんに飛び火してしまった今、下手に湯水を泳がすのは危険だ。もちろん、懐に飛び込むのも同じくらい危険だが……相手にされるがまま、状況を動かさないまま硬直するのはより危険だと判断した。


今、俺のズボンのポケットにはスマホがあり、録音アプリが起動している。何か湯水が余計なことを口走ったら、すぐに証拠に残せる。


「それは、この前にも言ったじゃないですか……。元カレからあなたが助けてくれたから……あの、先輩のこと、好きになっちゃったって」


けっ、しらばっくれやがって。一丁前にもじもじしてるのも、潤んだ瞳を上目遣いにしているのも、全部癇に触るぜ。


「……今ここには俺しかいない。いい加減、その仮面を外したらどうだ?」


「仮面って……そんな!私は本当にあなたのことが……!」


「いいか湯水、お前は俺に彼女がいると知りながら、あんな真似をしてきた……。明らかに『過剰すぎる演出』だ。周りにアピールするためとしか思えない」


「そんな、演出だなんて……」


「悪いが、俺の目は誤魔化せないぜ。今お前が俺に見せている顔は……本物でないことくらい分かる!しおらしく可愛げのあるフリをしてるが、中身は……影から獲物を狙う蛇そのもの!」


「……………………」


「本心を出してみろよ!素顔を見せてみろよ!それともなんだ?加工してない自撮り写真は人に見せられないタイプか?」


「……………………」


俺はここで、やつを煽れるだけ煽った。


無論、こんな煽りであの湯水が本性を出してくるとは思っていない。これはあくまでジャブ……。


向こうも軽く受け流すだろう。 そこからどう踏み込んでいくからは、やつの出方次第だ!


絶対にその小綺麗な面の下……拝んでやるぞ!


「なあ!どうなんだよ湯水!黙ってばかりじゃ分からねえよ!」


俺がやつをじっと睨んでいると、湯水は「……ふーん、なるほどね」と言って、己の髪を耳にかけた。


そして、ニッ……と、口角を上げて、不敵な笑みを見せた。




「私のこと、よく観てるじゃない。“渡辺”」




「……………!」


「なんだかんだ言って、やっぱり本当は私のこと、好きなんでしょ」


湯水の雰囲気が、ガラリと変わった。


可愛い子ぶった上目遣いが、すっと鋭い三白眼になり、ピンと張りつめるような緊張感を孕んだオーラが生まれた。


まさか……これが素顔?


「ねえ渡辺、そうなんでしょ?私のこと、本当は気になるんでしょ?」


「……アホンダラ、寝言は寝て言え。誰がお前なんか……」


「ふふふ」


「湯水、教えろよ。なんで俺なんだ?なぜ俺に執着する?なぜあんな……泣きわめくような醜態を晒してまで、俺に近づく?」


「あなたが欲しいからよ」


「だから!それがなぜかと聞いてんだ!」


湯水はまたもやニヤっと笑い、ツカツカと俺の前まで来て、腰に手を当てて顎をしゃくった。


「あなたが……私のことを嫌いだから」


「は?」


「私のことを嫌いだなんてほざく人間が、私に恋をして……服従する様を見たいのよ」


「……けっ、その汚ならしい本音を聞いた時点で、お前には一生『可愛い』の『か』……いや、『k』の字すら浮かばないだろうぜ」


「ええ、私も他の男たちにだったら、こんなこと言わないわ。不利なこと分かってるもの」


「ならなんで、俺には本音を語った?黙っておけばいいものを」


「……………………」


湯水はすっと真顔になって、ふいっと顔を横に切った。そして、「あなたが言ったんじゃない」と、小さな声で呟いた。


「は?俺が……なんだって?」


「あなたが本音で語れっていうから、本音を語ったんじゃない。文句ある?」


「……………………」


なんだ?何を言ってるんだ?こいつは……。


「とにかく、これ」


湯水はもう一度俺へ向き直ると、例のチケットを渡してきた。


「私とデートしなさい。必ず、私のことを惚れさせてみせるから」


「……………………」


「言っておくけど、断ったらあなたの彼女……平田 恵実になにがあっても知らないからね」


「……!彼女に何をするつもりだ!?」


「さあ?私は何もしないわよ?でも……生憎うちのクラスのモブキャラたちはバカばっかりだから、平田に何かしちゃうかも……?」


「鬼が……!」


「美少女に向かって、そんな口は聞かない方がいいわよ」


ムカつく野郎だ……!やっぱり、クラスメイトたちを操ってるのはこいつだったか!


メグちゃんがクラスメイトたちに『別れた方がいい』と言われて、追い詰めるきっかけをこいつが作った……。


俺がここで断れば、メグちゃんの立場は余計に危うくなる。


「………………」


湯水に対する物凄い腹立たしさと同時に……『ついに言いやがったな!』という、ある種の歓喜が沸き上がっていた。


今の会話も、スマホがバッチリ録音している。脅迫紛いのことを俺へ話した事実をゲットできた!


もちろん、これだけでは美結へしたいじめを湯水に認めさせるほどの効力はないが……少なくとも、湯水がこういう女だということは記録できた。


「……………………」


俺はこの時、あるアイディアが浮かんできていた。


こいつのデートを……敢えて受けてみるか?


メグちゃんを守るためでも当然あるが……デートの最中に、もっと素顔をゲットできるかも知れない。そうなれば、より湯水を追い詰められる。


何故かは分からないが、湯水は幸いにも、俺には素顔を見せてきている。もちろん、これが奴の罠である可能性もあるから、危険かも知れないが……このチャンスは逃せない。


「……わかったよ、湯水」


俺はなるべく苦々しい顔を作り、あいつに向かって言った。


「そのデート……受けてやるよ」


「“受けさせていただきます”……でしょう?」


「……調子のんなよ、この女狐が」


「ふふふ、まあいいわ。じゃあ決定ね」


彼女からチケットを受け取り、俺はそれを制服の胸ポケットにしまった。


「それにしてもなんだなあ、自分を嫌ってる俺を……よくもまあデートに誘いたいと思うもんだ。湯水様はドMのご趣味をお持ちと見える」


「……渡辺、好きの反対ってなに?」


「は?」


俺は唐突な彼女の質問に、思わず固まってしまった。そんな俺にお構い無しに、湯水は話を進める。


「好きの反対は嫌いではなく、無関心……なんて話、よく聞くじゃない。関心があることの対岸に立つのは、無視、無関心……」


「……………………」


「なら、嫌いの反対は?」


「!」


「今の理屈で行くなら、嫌いの反対もまた、無関心……」


「……何が言いたい?」


湯水は俺を真正面から見つめる。俺の目の奥……そのさらに向こう側に潜む何かを覗こうとするかのように。


「好きの反対は無関心。嫌いの反対も無関心。つまり、好きであることも、嫌いであることも、関心があることの証明」


「……………………」


「憎しみもまた、ひとつの繋がりなのよ」


「……詩人でも目指してるのか?」


「最近あなたに会ったせいで、そんな考えをするようになったのよ」


「……………………」


「さ、もう話はいいでしょ。私は帰ることにするわ」


湯水は俺の横を通り過ぎて、保健室の入り口の引戸を開ける。その瞬間、廊下から保健室の中に向かって風が入る。


「覚悟しておきなさい」


俺の方へ振り向いた湯水は、風で髪をなびかせながら、不敵に笑った。


「あなたはもう……私から眼を離せなくなる」






「……………………」


お兄ちゃんから全部を聞き終わった私は、しばらく何も告げられないでいた。


かなりの急展開というか……たった1日でそんなにたくさんの動きがあったなんて……。


肉じゃが立つ湯気がゆらゆらと揺れる様を、お兄ちゃんがじっと見つめていた。


「ごめんな美結……湯水のデートにのってしまって」


「う、ううん!全然浮気なんかじゃないし、私は大丈夫だけど……お兄ちゃんこそ、大丈夫?湯水に面と向かって……いくことになるけど」


「ああ、貴重なチャンスを逃したくない」


「……………………」


「それに……大丈夫、俺たちにはたくさんの友だちがいる。みんなに協力を、仰いでみようと思う」


「協力?」


「うん」


お兄ちゃんは私の方へ眼を向けた。それは……覚悟を決めた鋭い眼差しだった。


「みんなで湯水と……戦おう」







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