……私とお兄ちゃんは、二人でベッドに仰向けになって寝転がりながら、夜の暗い天井を見上げていた。
月明かりがカーテンの隙間から漏れて、一筋の光が暗い天井を斜めに切っている。
私もお兄ちゃんも、どちらも服をきていない。素肌がそのまま触れ合う状態で、上布団の中に胸まで潜っている。
私の頭の下にはお兄ちゃんの左胸があって、少し頭を傾けると、こつんとお兄ちゃんの顔にぶつかる。
「……………………」
しんとした静粛な空気が、部屋全体を包んでいた。世界中の誰も彼もが、私たちのために喋るのを止めているかのような、そんな静けさだった。
「……お兄ちゃん」
そんな中、私がお兄ちゃんに声をかけた。それは囁くように小さく、静かな声だった。
お兄ちゃんは天井を見上げたまま、「どうした?」と、私と同じくらい小さな声で返事をした。
「お兄ちゃん、辛くない?」
「辛いって……なにが?」
「湯水とのこと」
「……?あいつが……なんだって?」
「その……湯水の恋心を利用してること、やっぱり……辛い?」
「……別に、なにも辛くなんかないさ。美結のいじめを認めさせるためなんだ、これくらいへっちゃらだっ……」
「本当に?」
「……………………」
私は、顔を斜め上に傾けて、お兄ちゃんの横顔を見た。お兄ちゃんは寂しそうな瞳で、天井を黙って見上げているばかりだった。
「お兄ちゃん、最近なんだか……とっても苦しそうにしてる。ご飯食べてる時も、一緒にお出かけしてる時も、何かじっと考え込んでる。私、それを見てね?もしかしたら……湯水のことで、ずっと悩んでるんじゃないか?って思って……」
「……………………」
私がさらに問いかけると、お兄ちゃんは深く息を吸った。お兄ちゃんの胸が膨らんで、私の頭も少し持ち上がる。
「……美結、ごめんな。頼りないお兄ちゃんで」
「え?」
「上手くできない俺で……ごめんな」
お兄ちゃんは未だに、物悲しい瞳で天井をじっと見続けている。私もお兄ちゃんと同じ目線になりたくて、顔を真正面へ向き直し、天井を見上げた。
「確かに、美結の言うとおり……罪悪感を抱いてしまってる節はある。あんな奴のことなんて少しも気をつかう必要なんかないのに……俺の彼女がメグちゃんであると嘘をつき、その上であいつが俺に好意を寄せてくることが……どうしようもなく、申し訳ないと思う時がある」
「……………………」
「前回のデートの時、俺を……信頼しているようなことを言ってきただろ?」
『兄貴さんってね?中学時代に三股してたり、セフレをたくさんつくってたり、とにかく女癖が悪いみたいで……』
『アキラはそんな人じゃない!』
「……あれを聴いてしまって以来、どうも俺は……湯水に対して後ろめたい気持ちを抱えてしまうんだ。あいつもなんだかんだ言って……俺のことを、誠実な人間だと信じたいんだなって」
「……………………」
「もちろん、湯水自身が他人に対してたくさん嘘をついてて、今回湯水がこんな風にされることも、自業自得だと言って割り切ることが可能なはずなんだ。でも、心が理屈に追いついてこない」
「…………ごめんね、お兄ちゃん」
「……?なんで美結が謝るんだ?」
「いや、私のせいで……辛い想いさせちゃってるから」
「……バカ、いいんだよそんなこと。君が何も気にすることじゃない」
お兄ちゃんの左手が私の肩を掴み、ぎゅっと抱き寄せた。
「悪いのは俺だ、俺が……」
「……………………」
「半端な覚悟で、半端な気持ちでいるせいなんだ」
「半端な……気持ち?」
「美結のためなら、なんだってする。そういう覚悟ができているはずだったのに……見てよこのザマ……」
「……………………」
「つくづく自分に嫌気がさすよ。柊さんやメグちゃん、そして城谷さんや藤田くんたち……。いろんな人を巻き込んでおきながら、湯水に対して同情なんて……」
「……でも、それはお兄ちゃんが優しいからだと思う。みんなに優しい気持ちがあるから、湯水であっても、後ろめたくなっちゃう。私はそれが……とっても、お兄ちゃんらしいなって思うよ?」
「……………………」
私がそう言うと、お兄ちゃんは黙ってしまった。良くない答えだったろうか?
「ごめんな、美結」
「え?」
「気を使わせて……ごめんな」
「そんな……いいのに。そんなところまで気にしないで?ね?」
「……………………」
お兄ちゃんは、さらに私のことをぎゅっと抱き締めて、おでこにキスをした。 私はそのお返しに……お兄ちゃんの左胸に、キスをした。
「「……………………」」
私たちは、またしばらく無言になった。寄り添いあって天井を見つめて、その沈黙を聴いていた。
今、果たして何時なのだろう?感覚的には、おそらく夜中の一時とかだと思う。窓の外からも音はないし、隣の部屋の人の音もない。
草木も眠る丑三つ時なんて言葉があるけれど、まさしくその通りだなと思った。
「……俺さ」
その沈黙を破ったのは、お兄ちゃんだった。
「とりあえず、このままあと一回……あいつと、デートをしてみる」
「……うん」
「その後……その後は…………」
「……ねえ、お兄ちゃん」
「ん?」
「私、湯水に会うよ」
「え?」
私がお兄ちゃんに顔を向けると、お兄ちゃんの方もこちらを観ていた。心配そうに眉をひそめているのが、暗闇の中でもはっきりと見えた。
「最後のデートまで終わったら、私とお兄ちゃんのことを、明かしてほしい。そして……私が、湯水の前に出る」
「…………何をするんだ?」
「……分からない。でも、私が出ないといけない気がする。みんなが勇気を持って湯水と接してるのに、当事者の私が……何もしないなんて……」
「……………………」
お兄ちゃんはぐっと、真一文字に口をつぐんだ。そして、私の頭を左手で撫でながら、眼を細めた。
「……無理しなくていいんだよ?美結。俺たちはみんな、美結を守るためにやってるんだ。だから……」
「……………………」
だけど、私の顔をじっと見つめていたお兄ちゃんは、そこで一度言葉を止めた。たぶん……私の気持ちを汲み取ってくれたんだと思う。だから次の言葉は、こんな風に繋げられた。
「……でも、まあ、そうだな。今度柊さんたちに相談してみよう。みんなでこれからどうするか……考えてみようか」
「うん……」
……私は、お兄ちゃんのことがたまらなく愛おしくなって……眼を瞑り、頭をお兄ちゃんに傾けた。お兄ちゃんの頬が、私の髪に触れるのが分かる。
「……お兄ちゃん」
「なんだい?」
「大好き」
「……………………」
「愛してる……」
私の眼から、ふいに涙がこぼれた。なぜなのか分からない。
それは、悲しみだったり苦しみだったり……あるいは、喜びだったり愛だったり……。
分からない、とにかくいろいろな感情が、その涙の粒に込められている気がした。
「お兄ちゃん、私と一緒に、幸せになろうね」
「……………………」
お兄ちゃんが、自分の頬を私の頭にすり寄せながら、「そうだな」と、小さく呟いた。
その声は、少しだけ震えているように思えた。
「二人で一緒に、ここまで来たんだもんな。きっと幸せになれるさ」
「うん……」
「ずっと……そばにいるよ。美結」
「うん、私も……お兄ちゃんのそばにいる。ずっとずっと、一緒にいる」
「うん」
……私たちは、その言葉を最後に、二人とも眠りについた。
静かな夜は、さらに静かに…………ひとつの物音も囁きもないまま、夜はふけていった。
「……はあ」
朝の七時半。
私……湯水 舞は、誰もいない下駄箱で盛大なため息をついた。
下駄箱は、上段に上履きを入れ、下段に靴を入れるようになっているのだが、その上段……上履きの方に、手紙が入っていた。
白い便箋に入れられた、丁寧な作りの手紙だ。
「……………………」
その手紙を取って便箋を破り、中身を取り出す。一通り読んでみると、それは私の想定通り、ラブレターだった。
ビリリリリッ!!
手紙を真っ二つに引き裂いて、ぐしゃぐしゃと丸めた。そして、それを廊下に置いてあるゴミ箱へ放り投げた。
「バカにすんじゃないわよ」
クラスへ向かう廊下の途中で、私は捨て台詞を吐いた。 だって、あの手紙……あまりにも無神経すぎるんだもの。
『最近、湯水さん髪の毛を水色にしたね。とってもかわいいよ』
ってなんて書いてあるのよ?何を言ってるのよ。お前のために染めたんじゃないから。勘違いも甚だしい。
これだから頭の悪い脇役は嫌いなのよ。脇役はね、脇役としての自覚を持つべきよ。あくまで主役である私を輝かせるための舞台装置……。シンデレラが結婚するのは王子であって、村人Aじゃないんだから。
「私、バカはやっぱり嫌いね。この世のバカはみんな死んでくれないかしら」
再度捨て台詞を吐いて、私は自分のクラスに入った。 クラスメイトは誰一人としていない。当然よね、朝7時半なんて誰もいるわけないわ。
いつもならこんな時間に来ることはないんだけれど、考え事をしたくって、わざわざ誰もいない時間帯を狙って来たってわけ。
私は自分の席まで歩いていって、鞄を机に置いて、椅子に腰を降ろす。そして、その机に突っ伏して、ぼーっとその考え事をする。
考え事というのは、アキラのことだ。
(……残るデートは、あと一回。その一回で……なんとかアキラを惚れさせたい……)
しかし、アキラを惚れさせるには、一体どうすればいいのだろう? どんな場所に行っても、どんな体験を一緒にしても、アキラが私に靡くイメージができない。
成功するイメージができないというのは、私にとってかなり……屈辱的なことだった。
イメージとは、成功するために不可欠な要素。イメージがあって初めて、人は動くことができる。
本当の天才とは、そのイメージが隅々まで行き渡っていて、それ通りに物事を運べることができ……そしてついには『当たり前にこなせる』ようになる人間のことを言うのだ。
(……だから、この私がイメージできない……なんてこと、あってはならない。なのに、あのアキラは……きっと平田のことを裏切らないだろうなって、それがアリアリと分かってしまう)
私は顔を机へ横向きに乗っけたまま、平田の席へ眼を移らせた。
(そして……アキラが平田を裏切らないことを、心のどこかで望んでいる自分がいる)
この気持ちが、私にとっても非常に驚きだった。
意味が分からない。私に靡かないことを望む?あまりに心がちぐはぐすぎる。
私はアキラがほしい。何がなんでもほしい。でも、アキラが平田を見捨てて私のところへ来てしまうと、私はアキラにひどく失望するような気がする。
その他の有象無象とアキラも同じだったのかと、そんな風に思うんじゃないかしら?
だから私は、平田に何も手を出さない。やろうと思えば、彼女の浮気をいくらでも捏造して、別れさせてやることだってできる。たぶん、今までの私なら平気でやってる。
それをやらないのは、平田にそんなことをしたところで、アキラはたぶん、彼女を見捨てやしないだろうからだ。
(……それに…………)
それに、もし私が平田の浮気を捏造したら、おそらくアキラは真っ先に私を疑う。
『湯水の捏造に違いない』と、妙に勘のいい鼻で探ってくる。
そうなれば、アキラの私に対する信用はガタ落ち……。今まで以上に、嫌われることになる。0点どころの騒ぎじゃなくなる。
「……………………」
……この際だからはっきりしよう。
私は、アキラに嫌われたくない。
この事実から目を背けてしまっていたが、いよいよ受け入れるしかなくなった。
いや、というより……受け入れるもなにも、嫌われたくないというのは、別に何も恥ずかしいものではないと自覚したからだ。
だって、私はアキラをほしいと思ってるのよ?ほしいと思う人間に嫌われるのは、不快というか……まあ、普通に嫌じゃない?
だから嫌われたくないと思うのは、至極当然のことなの。
そう、あくまで合理的に考えた上で、嫌われたくない事実を認めた。そういうことよ。
「……………………」
……アキラ、私はあなたがほしいと思ってる。でも私に靡いてしまったら、きっと失望する。
変な感情よね、全く。今まで経験したことのない……極めて非合理的な気持ち。
そのことを、アキラ……あなたに話したら、あなたはバカらしいと言って笑うかしら?それとも、気持ち悪いと言って顔をしかめるかしら?
「……いいえ、違うわね」
あなたは……悲しい顔をして、何も言わずに私を見つめてるような気がする。
そうよアキラ、私には分かってるんだから……。
「……………………」
耳をすますと、グラウンドで朝練をしている野球部たちの声が、微かにうっすらと聞こえる。そのくらい、教室の中は静かだった。
「……だな」
「……ですね。だから……」
ふと、その野球部たちの声に混じって、廊下の方から話し声が聞こえた。小さすぎて確認できないけれど、もしかするとそれは……。
「……アキラ?」
そう、たぶん……アキラだと思う。
アキラと……それから女。おそらく平田だろう。その二人の会話する声が聞こえる。
「……………………」
何を話しているのか興味が沸いた私は、音を立てずに席を立ち、抜き足差し足で、教室の引き戸まで歩いてきいった。
「……としては、そういう気持ち……なのかなあって思うんだよ」
「でも、私はまだ時期尚早な気がします。湯水と近づけるは、やっぱり危険だと思います」
「俺もそう思うんだけど……。うーん、一回柊さんとかに相談してみようかな」
「そうですね、その方がいいと思います」
私が引き戸に近づくにつれ、その声がだんだんと鮮明になってくる。
(私の話をしている……?)
余計に気になった私は、引き戸をそー……と開けて、顔を少しだけ廊下へ覗かせた。
すっと伸びるその廊下の先、おそらく5mくらいの距離の地点で、やはりアキラと平田が会話をしていた。
その場にしゃがみこんで、廊下側からは見えないように、引き戸を背にして聞き耳を立てる。
「それじゃあメグちゃん、またお昼休みに」
「はい、お待ちしてます」
「ごめんね、いつも俺と一緒にさせてしまって」
「いえいえ、私は全然構いません。本当の彼女みたいで、嬉しいです」
そう言われたアキラの、照れ臭そうに笑う声が廊下に響いた。
(……なに?どういうこと?)
私は、彼らの会話の中にあった……とある単語が脳裏に焼き付いた。
“本当の彼女みたいで、嬉しいです”
(なに言ってるのよ平田、あなた、あなたが本当の彼女……でしょ?え?違うの?本当の彼女じゃないの?)
私は額に手を当てて、ぐっと眉間にしわを寄せた。
あの会話をそのまま受けとると、平田とアキラは本当は恋人同士じゃなくて……偽物の恋人ってことになるけれど……。
(まさか、でも……そんなわけ……)
だって、あの平田は……間違いなくアキラが好きだ。それは感覚的に理解できる。
なぜなら、眼差しが違う。あれは本当に、恋をしている人間の眼差し。
(私は、大量の男たちを落としてきた女……。恋を込めた眼差しがどんなものか、熟知している。今日の朝だってラブレターを貰った。この前だって告白された。元カレにも未だに執着される。彼らが私に向ける眼は、まさしく切望の眼差し。心から欲する眼差し。すなわちそれが……恋の眼差し……)
そんな私だからこそ、平田がアキラに向ける眼差しが本物の恋であることくらい、すぐにわかる。
……いや、待って。眼差し云々以前に、あの女は今『彼女みたいで嬉しいです』と答えた。
この言葉からもわかるように、平田は絶対にアキラが好きだ。本物の恋人関係かどうかはこの際置いておいて、平田の好意そのものは、間違いなく本物だ。
(じゃあ、仮にその関係が偽物だったとして……なんで二人は、そんなことをしているの?)
目的はなに?なんのために偽物の恋人を演じるの?なぜ演じる必要があるの?
……今すぐに予測できるものとしたら、おそらく、平田からの要望。
1.平田がアキラに告白する
2.アキラは恋人になることを渋ったので、平田が「少しの間、仮の彼女にさせてください」と要望する。
3.しばらく二人で過ごしてみて、本当に気が合うと判断したら、晴れてちゃんとした恋人になる
……みたいな感じ? いやでも、これでは筋が通らない。
アキラは常々、私にこう言ってる。
『自分はメグちゃん一筋だ』
『湯水、お前とのデートで彼女を不安にさせるのは嫌だ』と。
つまり、アキラの方もちゃんと平田へ好意を抱いてる。よって、きちんと両想い……であるはず。
それに、あのアキラよ?アキラは絶対、人に対して曖昧な態度を取る人間じゃない。 告白されて、その人と付き合えないと思ったら、ちゃんと断る。付き合いたいと思ったら、仮ではなく正式に受ける。
『それが誠実さだろ?』と、そう語る人間だ。
仮の彼女だなんだって、本命以外の女の子をキープして思わせ振りなことをするなんて、あの男はしない。
(なのに、偽物の恋人?まさか、そんなはずはないわ。まさか本当にあの日髙が言ったように、浮気性なの?でも、あのアキラに限ってそんなこと……)
そう、頭で弾き出した理屈では、そういう答えに行き着くのだが、あの平田の言葉が……どうしてもその答えを納得させてくれない。
朝の静かな教室と対照的に、私の胸はざわつきで満ちていた。理解できない、納得できないという思考が、不安と不気味さを呼び起こす。
アキラ……あなた、一体何を考えているの?