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 それからというもの、ピアニストはまったくあらわれなくなってしまった。

 次の金曜日も、その次の金曜日も。

 彼は落ちつかなくなった。毎週楽しみにしていたことがなくなった、というだけでなく、最後に聴いた演奏が気になっていたのもある。

 金曜日以外の日にも立ち寄ったこともあったが、いつも空振りにおわった。彼はQUUSのアルバムを数え切れないくらい聴きこみ、Kaiのピアノがほとんど入らない曲もすっかり覚えてしまった。


 やがて真夏になった。実家に帰省したり、盆明けにトラブルで残業が続いたりして、彼の足は街角ピアノのあるショッピングセンターから遠のいてしまった。QUUSの曲も聴きすぎたせいか、だんだん飽きてきた。彼は動画サイトでレコメンドされる他のバンドの音楽を聴いたりもしたが、やがて音楽を聴くことそのものに飽きてしまった。


 暑さが去り、風が涼しくなり、しだいに冷たくなった。いつのまにか駅前にクリスマスツリーが立っている。同じような毎日をくりかえしていると、季節があっという間にすぎてしまうような気がする。ほとんど変わらない彼を置き去りにして、世界の方が過ぎ去ってしまうのだ。


 ツリーを眺めて彼はそんなことを思い、急にぽかりと空虚な気持ちになった。しかも、横断歩道を渡ろうとしたとたん信号が点滅をはじめたので、裏切られたような気分にもなった。

 信号は彼のことなんか知ったことじゃないのだし、彼のほうこそ勝手なものだ。寒風のなかあわてて横断歩道を渡るのも、次の信号を待つのも嫌で、彼は方向を変え、ひさしぶりに街角ピアノのある建物に入った。


 ピアノは前と同じように置いてあって、看板も変わっていなかったが、誰も弾いていなかった。横にはクリスマスツリーが立てられていた。駅前に立っていたような立派なものではなく、彼の胸ほどの高さしかない、貧弱なツリーだ。彼はピアノの蓋をそっと持ち上げた。あのピアニストのことを思い出しながら。演奏されるのをあれだけ何度もみていたのに、彼がこのピアノに触るのは初めてだった。そもそもピアノに触ること自体が中学生以来のような気がする。


 白黒の鍵盤におそるおそる指を置いてみたが、触ってはいけない大きな動物を撫でているような気持ちだった。思い切ってぽん、と叩くと、トーン、と音が零れた。ド、レ、ミ。三つ音を鳴らして、弾けないのに馬鹿みたいなことをしていると思って、手を離した。また蓋を閉めようとしたとき、突然見られているのに気がついた。


 あのピアニストだ。

 彼は驚いて蓋をはなしてしまった。バタンと大きな音がして、思わず「ごめん」と声が出てしまう。ピアニストの口元がちょっとだけ動いた。微笑んだようにみえた。

「あ、あの」彼はあわてて声をかけた。

「弾きますか?」


 ピアニストはスーツの上にコートを着ていた。地味なグレーのリュックを持っている。首を横にふろうとしたように思えたので、彼は重ねていった。

「前によく弾いてましたよね? 金曜日に。いつも聴いていたんです。もう弾かないんですか?」

 ピアニストは驚いたようにまばたきした。彼はさらにいった。

「あの、それと、Kaiさんじゃないですか? QUUSってバンドの」

 ピアニストはぎこちなく笑った。

「え――何それ。なんで知ってるの。もうやってないのに」

「いや、ちがうんです」彼はしどろもどろになった。

「ここではじめて聴いて、ネットにあがった動画をみて、あとその、なんか人が話してるのとかもきこえて、それでいろいろ探したらそうじゃないかと思って、QUUSのアルバムも買って聴いて、ここで弾くのも聴いて、やっぱりそうじゃないかって思ったんです。だからあの――すみません」


 彼は口を閉じた。自分が異常な話をしているような気がして、手のひらが湿ってきた。

「すいません、なんかストーカーみたいだ。そうじゃなくて……ピアノがよかったんです。俺、音楽とかぜんぜん興味なかったんですけど」

 ピアニストはまた目をぱちぱちさせた。

「それはどうも。……ありがとう」

「来なくなったから、最近ずっと近寄ってなかったんですけど、今日はたまたま――」

 そこまで口に出して、彼はピアニストがここにいる理由を思いついた。


「あ、また弾いてるんですね? 俺すぐどきますから」

「いや、いいんだ」

 ピアニストは首を振った。彼はがっかりした。胸の中でぱっとふくらんだものがしぼんでいく。


「どうして?」

「今日は通っただけだよ。このピアノ、誰が弾いてもいいんだし、他に弾きたい人もいるだろうし」

「そんなことないです」彼は思わずむきになってたずねた。「なんで来なくなったんですか? ずっと毎週、金曜日に弾いていたじゃないですか」

「なんで?」ピアニストは彼の問いをくりかえした。

「あれはその……暇つぶしだったんだ。ここで人を待っているあいだの」

 あの革ジャン。彼は思い出した。

「待ちあわせがなくなったから、来なくなったんですか?」

「別れたからね」


 ピアニストはさらりといったが、彼はその意味を深く考えなかった。伝えたいことで頭がいっぱいになってしまったからだ。

「もう弾かないんですか? 俺、ファンになったのに。QUUSの曲よりここで聴く方が好きでした。すごく楽しそうだったから」

「ここの方が?」

「うん。音が降ってくるみたいですごいから……」

 ピアニストは彼をじろじろみた。

「生演奏は迫力あるからね。でも今は用もないし、聴かせる人もいないし」


 弾く気はない、ということなのだろう――彼はがっかりした。もっともなかばあきらめもついていた。ピアニストの正体についてのここ数カ月の謎が解けたのだから、むしろよかったと思うことにしよう。と、そこまで思ったとき、自分に対して恥ずかしさがつのってきた。一方的に呼びとめて、こんな風にべらべらと喋るなんて、なんてことだ。

「すみません」あわてて彼はいった。

「俺はもっと聴きたかったんです。ありがとうございました」


 軽く会釈してピアノから離れようとしたとき、目の前で手が動いた。ピアニストが蓋をあけたのだ。

「ちょっとだけ、弾こうか」

 え!

「は、はい!」


 彼はあわてて椅子をおしやった。ピアニストは椅子の高さをあわせ、ペダルに軽く足先を乗せ、腰をずらした。彼は息をつめている自分に気づいて、ふうっと吐いた。ため息のような声が出た。

 ピアニストが彼の方へ顔を向けた。面白い動きをする動物でもみているような目つきだ。

 彼はおそるおそるたずねた。

「あの、横で見ていてもいいですか?」

「いいよ」


 両手の指が広がり、白と黒の鍵盤に乗った。

 そしてついに、音楽があふれだした。



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