バン！ と夜中に突然、勢いよく自室の扉が開かれ、俺は書物を開いたまま転寝をしていたせいで、危うく椅子から転げ落ちそうになった。

「たのも～！」

　言って、キラさんが白煉はくれんの手を引いて部屋に入ってきた。なんだ？ 決闘でもしに来たのか？ って、そんなイベントないだろう！　

「····か、華か雲英うんえい····こんな時間になにか用か？」

「青藍せいらん様、ハクちゃんから聞きました。皇帝陛下たちの前で謁見すると」

「それがどうした？ 前々から決めていたことだ」

　そんなのキラさんだって知ってるでしょ！

　そういう本編の流れなわけだし！

「ハクちゃんがその件について、ひとりで悩んでいることは知ってました？」

　え？ 悩むってなんで？

　そもそもこれが正規のシナリオだし、なにもおかしくないはず。白煉はくれんがこの婚姻に対して異を唱えることはない。それにあの分岐でハッピーエンドのルートが確定して、青藍せいらんの気持ちもちゃんと伝えたはずだ。

「ということで、ハクちゃんとちゃんと話し合ってください。あ、このまま青藍せいらん様のお部屋にお泊りしても、私は黙っててあげるから安心してね☆」

「は？ え？ お泊りって····どうしてですか？」

　キラさん、たぶんそれまったく伝わってない。

　いいから、いいから、あとは当人同士で！ と白煉はくれんの背中を押して俺の前に差し出すと、自分はさっさと部屋から出て行ってしまった。しん、となった部屋の中で気まずい空気が流れる。

（いや、困るんだけど⁉ 変な空気のまま残されて、俺にどうしろと？）

　話し合うってなにを？

「····ここ、座ってもいいですか？」

　白煉はくれんが自分から寝台の方へ向かって行き、訊ねてくる。椅子じゃ駄目なんだろうか。正直、また同じ過ちを犯しそうで怖いんだけど。

　俺の答えを聞く前に白煉はくれんは座ってしまった。あんなこと（押し倒された過去）があっても、不安じゃないんだろうか。

　俺も遅れてその右横に腰を下ろす。肩が触れるか触れないかギリギリの距離。白煉はくれんの左手首を飾っている半透明の青い腕輪。それは、このゲーム内の設定では現実セカイでいう指輪の代わりなのだ。それを青藍せいらんが白煉はくれんにはめた意味を、今更わからないなんてあり得ないだろう。

「俺は、白煉はくれんじゃないって前に言いました。記憶がないとか、それ以前に····俺は転生して気付いたら彼になっていたって」

「ああ、聞いた。でもそれがどうしたんだ？」

　白煉はくれんの中身が白兎はくとであること。それを知った時、俺は胸の奥から込み上げてくるものを抑えきれなかった。そして白兎はくとが想い続けている＂誰か＂に嫉妬したんだ。けど、あの市井しせいでのイベントや過去を取り戻すための試練を乗り越えて、俺たちは想いが通じ合ったんじゃないの？

　白煉はくれんじゃないとか、記憶がないとか。

　それって大事なこと？

「俺、本当の名前、教えていなかったかもって····雲英うんえいさんが、それなら今すぐ教えてあげた方がいいよって。でも、こんな時間に来るべきじゃなかったかも、です」

　名前？

　確かに俺は白兎はくとだって知ってるけど、青藍せいらんは知らないはずだもんな。でも確かに今じゃなくてもいい気がするけど。

　キラさんが改変のペナルティで、カウンターひとつ減らしてまでそうした方がいいって思ったなら、なにか理由があるってこと？

「青藍せいらん様には、俺の本当の名前、憶えてて欲しくて。きっともう、誰にも呼ばれること、ないと思うから」

　白煉はくれんの泣き出しそうな顔に、俺は気付いたら唇を噛み締めていた。

　そうだよな。現実セカイの俺たちは、もう····死んでるんだもんな。本当の自分を知っているのは、自分たちだけ。

　俺とキラさんは早い段階でお互いの存在に気付けたけど、白兎はくとは未だにひとりぼっちなんだ。俺たちが転生者であることを話せないせいで、たったひとりでこのセカイに放り込まれているようなもの。

『駄目ですよ、主マスター。あなたはもう後がないんですから。他の方法を』

　わかってる。

　あとひとつで俺は強制排除。そうなったら、もう本当に白兎はくとを守れなくなってしまう。それだけは絶対に避けなきゃならない。

「教えてくれる？ 君の名前。望むなら、今後はその名で君を呼ぶ」

「だ、だめです。他のひとたちにこれ以上は話しちゃだめって、青藍せいらん様が言ったんですよ？」

「じゃあ、ふたりきりの時に呼ぶ」

　俺は白煉はくれんの、白兎はくとの手を取り、真っすぐにその赤い瞳を見つめた。その瞳が瞬きもせずにこちらを見上げてきて、やがて柔らかい笑みが浮ぶ。

　その表情に、絆される。疼く。あの淀んだ感情をなんとか抑え、俺は同じように笑顔を浮かべて覆い隠した。

「教えて、君の名前」

　顔を近づけて覗き込むように訊ねると、白兎はくとは真っ赤になって俯いてしまった。こんなの、もう、好きといっているようなものだ。青藍せいらんを、好きだと。俺のことなんて見てないって、わかってる。それでも。向けられている感情は、確かに俺へのものだって。そう思って、いいんだよな？

「······は、白兎はくと、です。俺の名前」

「白兎はくと。それが、私がこの世で一番大切なひとの、本当の名か」

「お、大袈裟ですってっば！ でも····嬉しいです」

　愛しいひとの名前。

　壊したいくらい、閉じ込めたいくらい、狂いそうなくらい愛しいひとの。

　でも、もう絶対に傷付けないと決めたんだ。だから、優しくして、甘やかして、白兎はくとがずっと笑っていられるように努力する。

　けど、ひとつだけ。

　どうしても終わらせたいことがあった。

「何度も、しつこいって思われるかもしれないけど、訊いてもいい？」

「え····？ なんですか？」

　ぽつりと呟いた言葉に、白兎はくとは不思議そうに首を傾げていた。俺には大切な問題で、現実セカイでの未練を断ち切る意味でも、知らなければならないことだった。

「前に言っていた好きなひとって、誰のこと？ 大丈夫。この前みたいにはならないから。だから、正直に教えて欲しい」

　白兎はくとはものすごく困った顔をして、俺から眼を背けた。そんなに言いたくないのか？ っていうか誰だよ、白兎はくとにこんな顔させる奴！ 年上の先輩とか？

　やっぱりいつも白兎はくとのことを気にしてたあいつ・・・？ 昔から事あるごとに、俺の邪魔してきたっけ。俺はもうひとりの幼馴染である、同級生の顔がふと浮かんだ。

　彼女は海鳴かいめいのキャラの参考にしている同級生で、俺と白兎はくとの幼馴染でもある。同性から『格好良い』といわれるような見た目の、クールビューティーな女の子。

　けれども彼女が同性にしか恋愛感情をもてないことを、一番親しい白兎はくとが知らないはずはない。つまり、俺と同じ叶わない恋をしているってこと？ 

「それは····その、言わなきゃダメですか？」

　涙目で訴えるように訊ねてくる白兎はくとに俺は心が折れそうになるが、これから先のことを考えると、やっぱり今しかないと思った。

「君が白煉はくれんとしてではなく、白兎はくととして私の傍にいてくれるのなら、どうか教えて欲しい」

　精一杯の言葉を尽くして。それが伝わったのか、白兎はくとの唇が微かに動く。どんな答えが出ようが、もうどうでもいい。それは過去のことで、俺はこれから訪れる未来だけみると決めた。

　いや、未練がないっていったら嘘になるし、数日闇落ちするかもしれない。その答えを聞いた瞬間、俺の初恋は完全に終わるのだから。

「俺、青藍せいらん様を見ていると、そのひとのことを思い浮かべてしまうんです。すごく、その、似てて。そのひとは、小さい頃に容姿のせいでイジメられていた時に助けてくれた、俺にとってのヒーローで。今も昔も誰よりもカッコ良くて。みんなの人気者で。それでも俺なんかに声をかけてくれるような、優しいひとで」

　うん？

　え？ あれ？

「あの時····青藍せいらん様がいってくれた言葉。俺を見て、って。俺、その言葉をもらった時、本当に、目の前にそのひとがいるんじゃないかって思って····びっくりして。甘い物苦手なのも一緒って····これって偶然ですか？」

　白兎はくとの好きなひと····って？ 

　忘れられないひとって？

「俺が好きなひとは――――、」

　それを聞いた瞬間、俺は思わず白兎はくとを抱きしめていた。

　だってそんなこと、考えてもみなかった。

　叶わない恋だって、両思いなんて絶対にあり得ないって。

　始まる前から終わっていた恋のはず、だった。

　もっと早く伝えておけばよかった。

　俺が俺として生きていた時に。

　この感情から逃げずに、踏み出す勇気が少しでもあったなら。

「ごめん、白兎はくと」

　抱きしめていた身体をゆっくりと離し、大きな瞳を見開いて驚いた顔をしている白兎はくとと、数秒ほど見つめ合ったのも束の間。

　俺は、白兎はくとの唇に自分の唇を重ねていた。