私と邪羅威たちは迦麗の運転する車に乗り込むと、蛇餓魅の森と言われる峠の森へ向かった。
助手席に邪羅威。後部座席に私と巴。その後ろに諏訪式姉妹が座った。
蛇餓魅の森までは二十分程で着く。
「人には言えない仕事ってこういうことだったんですね」
巴が運転している迦麗に向かって言う。
「そうよ。だって『殺し屋』やってますなんて言えるわけないじゃない」
迦麗が笑って言った。
「あなた会ったことあるの?」
私は巴と迦麗を交互に見る。
「まあ、ちょっと」
巴はそう答えると目をそらした。
「邪羅威様。なぜ蛇餓魅に狙われている彼女たちを森へ連れて行くのですか?危険では?」
祓椰が邪羅威に尋ねる。
「俺が受けた依頼は蛇餓魅の抹殺。そしてそれを阻む者共の駆逐。そのやり方は俺に一任する。それが依頼したときに決めたルールのはずだが?」
振り向かすに邪羅威が返す。
その口調には有無を言わさない厳しさがある。
「そうですが……」
ミラー越しに祓椰を見た邪羅威は、仕方ないという感じで話した。
「俺が奴等を殺しに行ったときに奴等が全て揃っていないと意味がない。一ヶ所にまとめておくためには、奴等が狙ってるこの女たちがいる方が確実だからだ」
「彼女たちには結界に入ってもらうから。後のことは私たちに任せておきなさい」
邪羅威に続き迦麗が答える。
「私たちもお手伝いします。姐さんたちの足は引っ張りません」
清伽が強い眼差しを向けて言った。
「そう?なら彼女たちを守ってあげてね」
「はい」
清伽と祓椰の顔は新たな決意に満ちているように見えた。
「一つ聞いてもいいですか?」
私は邪羅威にきになっていることを聞いてみることにした。
「なんだ?」
「あなたたちは殺し屋で、この世のものでない怨霊や化け物まで殺せると言うけど、どういうことなんですか?」
「教えておいてやろう。死者よりも生者の方が強い。生者の強靭な意思は死者の持つそれを凌駕する。そのことを理解していれば殺せる」
「どうやって?」
やはりわからない。
生きている人間の意思の方が怨霊より強いとして、実体もなく一度死んでいる存在を殺すなんて考えられない。
困惑する私の表情をミラー越しに見た迦麗が「あらゆる怨みや憎悪といった陰の気を上回る純粋なる殺意。圧倒的な殺意。これを以て魂を斬るのよ」と、言った。
怨みや憎悪を上回る圧倒的で純粋な殺意?
それを以て魂を斬るというのは、大まかに言えばより強い意思をぶつけて消すということだろうか?
「まあ、いくら話してもピンとは来ねえだろう。直に見るのが一番だ。迦麗、こいつらのために着いたらすぐに結界を張れ」
「OK」
殺し屋二人のやり取りからは余裕すら感じた。
「あのう…… なんで殺し屋なんてやってるの?」
巴が若干遠慮気味に邪羅威に聞く。
「人を超えるためだ」
邪羅威が答えた。
「え?なにそれ?」
「この世界は本来自由なもの。それこそ人を殺す自由もある。強者も弱者も等しく殺されるリスクがあるのが本来の自由な世界。だけどそれじゃあ強者といわれる人たちは生きている旨味がないのよね。そこでルールを作ったの。人殺しはいけないことだと」
迦麗が運転しながら話す。
「だから自由に生きるためには、人間の作ったルールの外で生きなくてはいけない。そのために人が決めた最大の禁忌である殺人を生業とした。天国の奴隷でいるより地獄の王を選んだということだ」
「ごめんなさい。やっぱぜんぜんわかんない」
巴が申し訳なさそうに言う。
「わからないでしょう?私も最初聞いたときはピンとこなかったもの」
迦麗が笑いながら言う。
だが、そう言うということは、今の彼女は邪羅威の思想というのだろうか?この独特の考えを理解できたということだ。
私には到底理解できない考え方だった。
車が蛇餓魅の森に着いたのは四時を少し過ぎた頃だった。
田園と民家が密集する地帯を走っていくと、開けた場所が道沿いに現れた。
その奥に森が見えた。
開発工事でかっての森は半分程が更地になっている。
私たちを乗せた車は更地の手前、道路沿いにエンジンをかけたまま停まった。
「あれが蛇餓魅がいる森か?」
「はい。あそこにいます」
邪羅威と祓椰が話す。
「車を森の手前に寄せろ」
邪羅威の言われるまま、迦麗は車を更地に乗り入れて森の手前に停めた。
「よし。全員降りろ」
車を降りた迦麗はすぐに周囲を見回すと「ここらがいいわね」と、言って地面に人が二三人は入れそうな円と、その中に五角形の星に見える図形をいつの間にか手にしていたステッキで描いた。
さらにその中に複雑な記号や文字を書いていく。
そして「この円の中に入るのよ。急いで」
私と巴は迦麗に指示されるままに描かれた円の中に入る。
「魔方陣だよ。姐さんは黒魔術も使えるんだ」
清伽が教えてくれた。
その間、迦麗はなにか唱え、邪羅威は森の方に視線をやっていた。
にわかに黒雲が現れ、遠くの空か光り始める。
まだ明るかった西日が陰ってくると風が森の木々を揺らし始めた。
「来ますよ。清伽」
「はい」
諏訪式姉妹は首から神鏡をかけ、祓い串を手にした。
迦麗に作られた魔方陣の中にいる私と巴は固唾をのんだ。
「来たな」
邪羅威が嬉しそうに口の端を吊り上げると、周囲からざわざわと声が聞こえ始めた。
数人とかいうレベルではない、大勢の人間が話していて視線を感じる。
迦麗は胸の前で印を結び、オン・マリシエイ・ソワカと唱え始めた。
邪羅威が刀を抜くと雲の隙間から差す西日に照らされて、異様に光った。
私たちの周囲の声はいよいよ大きくなり、まるで地響きのように空気を震わせる。
それは怨みや悲しみの声だった。
「瀬奈……瀬奈……」
無数の怨嗟の中から聞き覚えのある声が私を呼んだ。
「あっ……友里!それに綾香の声も!」
「私にも聞こえる!真一と千沙の声だ!」
突然、私たちを呑み込むような怨み声が止んだ。
風も止み、辺りが急に静かになる。
ふいに鼻を突くような腐った臭いが漂ってきた。
結界のすぐ外、目の前の地面に黒い靄のようなものが広がっている。
そこに四つの真っ白い顔が浮かんだ。
「瀬奈……助けてぇ」
「友里!綾香!」
「巴ぇ…… 苦しいよぉ……」
「千沙…… 真一…… 嘘でしょう」
私と巴は思わず口に手をあてた。
地面に広がった靄の中から、血みどろの友里と綾香、野村千沙と伊藤真一が這い出でるように姿を現す。
「瀬奈、お願い。こっちにきて私たちを助けて」
「私たちと一緒にきてよ」
目の前にいるのは紛れもなく友里と綾香だ。
ずたずたに傷付き血塗れだが、私に語りかける声も生前と変わらない。
「巴ぇ…… あなた死にたかったんでしょう?こっちにおいでよぉ~」
「ごめん千沙。もうできない」
巴は悲しみを浮かべながらも、きっぱりと拒絶した。
「ごめんなさい……一緒にはいけないの」
私も友里と綾香の誘いを断る。
これは本物の友里と綾香ではない。
死んだら別物になる。諏訪式姉妹が言っていたではないか。
「どうして?私たち友たちじゃない」
「ここから出ておいでよ」
私を呼び続ける二人の声はだんだんと冷たく、うねるようになってきた。
迦麗が私の背中を強く叩く。
「耳を貸してはダメ。無視しなさい。もうあれはあなたの友人じゃない。蛇餓魅に取り込まれ悪霊となった化け物よ。あなたを殺して仲間にすることしか考えてない」
「はい」
すると友里と綾香はニタ~として邪悪な笑顔を見せると、背筋も凍るような声で話しかけてきた。
「伊佐山君や叔父さんまで犠牲にいて、自分だけそんなに助かりたいの?」
私が一番堪えるところを抉ってきた。
「私たちがその気になれば、こんなとこに隠れててもすぐにばらばらにしちゃうよ。だから大人しく言ってるうちに――」
綾香が最後まで言い終わらないうちに一筋の光りが走り、その首はまるで実体のある人間のものみたいにドサッと地面に落ちた。
すぐさまもう一筋の光が走り友里の首が飛ぶ。
野村千沙も、伊藤真一も、その首を地面に落とした。
邪羅威だ。いつの間にか邪羅威が後ろから綾香や友里たちの首を切り飛ばしたのだ。
四人の胴体と首は黒い靄のようになると霧散してしまった。
その瞬間、森から耳をつんざかんばかりの悲鳴があがった。
思わず耳を押えたが大勢の悲鳴が聞こえる。
「あの庭からあの者共が一斉に逃げ出したときに私が言った『想定外のこと』とはこのことです。あの者共は一度死んだ身の自分たちがまた死ぬとは思ってもみなかった。そのはずです。命が二度死ぬことはありません。それがこの世の理だからです。この世の理が崩れて、自分たちの『死なないという優位さ』が消し飛んだ。だから混乱して逃げたのです」
祓椰が私と巴に話す。
あのとき言った想定外とはこのことだったのか。
それにしても…… 命は二度死なないという理すら崩してしまう邪羅威という男。
私には味方ながらに、彼が悪霊よりも恐ろしい存在に見えた。
「ふん。一度死んだ自分たちが、また死ぬことに驚いてやがるな」
邪羅威は嘲笑うかのように言うと「皆殺しにしてやる」と、つぶやき走り出した。
悲鳴が一際大きくなったかと思うと、無数の木の枝が赤黒い槍のように変質し、タールのような光沢を放ちながら凄まじいスピードで邪羅威に迫った。
邪羅威は無数の枝の槍を事も無げになぎ払うと、悲鳴とともに枝の切り口から真っ赤な血が吹き出した。
枝の槍が数を増して迫るが、常人をはるかに超えたような身体能力でかわしながら周囲の木に斬りつける。
斬られた木からは悲鳴と共に血飛沫が飛び散った。
「木から血が!」
「地下に封印されていた蛇餓魅が根を伝い侵食した結果ね」
「いわばこの森全てが、蛇餓魅と連なる悪霊そのものということです」
「姉上!私らも祓おう!」
「そのつもりですよ!清伽!」
諏訪式姉妹が神鏡を天にかざすと、暗雲が裂けて陽の光がさした。
その光が神鏡に反射してまばゆい輝きを放つ。
「大神通自在!天地清浄!浄化再生!」
私たちの方へも迫ってきていた悪霊たちが苦しみ呻き、祓椰が開いた異界へ吸い込まれていく。
「さすが諏訪式姉妹。仕事がやりやすくなるわ」
迦麗が二人を見て言った。
周囲の地面から木の根が邪羅威を捕らえようと、地を割って襲いかかるが邪羅威に触れることもできずになで斬りにされていく。
血が吹き出し、悲鳴と怨嗟の声が上がる。
殺戮…… 死者を相手にこの言葉が適当なのかわからないが、邪羅威と悪霊の戦いはもはや一方的な殺戮の様相を呈してきた。
「森が……悪霊たちが怯えている」
私には森全体が邪羅威という「恐怖」に恐慌状態に陥っているように見えた。
邪羅威は一際大きな巨木に斬り掛かろうとした。
周囲の木が一斉に枝を槍にして伸ばし、邪羅威を刺し殺そうとするも、叶わなかった。
巨木が枝で邪羅威を搦めとろうとするも刀が一閃するたびに切り落とされる。
巨木は複数の枝を絡めると一本の槍にして、枝を払う邪羅威の背後から刺し貫こうとしたが、瞬間、邪羅威は振り向き槍先を素手で掴むと捩じり折った。
他の木からの攻撃を跳躍してかわすと、巨木のすぐ真下に着地する。
「下から切り刻んでやる」
巨木の下にきた邪羅威は刀を一閃させると、幹がバックリと裂けて血が噴水のように吹き出した。
さらに目にも止まらぬスピードで何度も斬りつける。
老若男女、幼子の声まで混ざった悲鳴が大気を揺らすほどに響きわたると森中の木々から
無数の黒い靄がわき上がり邪羅威めがけて殺到した。
「殺されに来たか!」邪羅威は笑みを浮かべると短く鋭い気合を発した。
邪羅威が発した気合は突風のように離れていた私たちのところにまで押し寄せた。
瞬間的に意識が固まったような気がしたが、私の目に映るものは不思議な光景だった。
邪羅威めがけて襲い掛かった無数の黒い靄が動きを止めている。
全てが止まったような世界で邪羅威一人が動いていた。
地を蹴った邪羅威は巨木の枝を踏み台にして、さらに跳躍すると止まっていた時間が動き出したかのように黒い靄が邪羅威の元居た場所に殺到し互いにぶつかり合う。
そのとき邪羅威は巨木の天辺まで跳躍していた。
そのまま落下しながら刀を縦横にふるうと巨木は全体から夥しい血を切りのように噴出して、朽ち果てたように崩れ落ちる。
残った黒い靄は着地した邪羅威にことごとく斬って棄てられた。
悲鳴と怨嗟に満ちていた森に静寂が訪れる。
凄まじいの一言に尽きた。
あれだけの数の悪霊をたった一人で全滅させたのだから。
刀を下げた邪羅威がゆっくりとこちらへ歩いてくる。
「そ、そうだ!さっきのはなに?彼以外の全てが止まっているように見えた」
そうだ。あの不可解な現象はなんだったのか?
「あれは殺気にあてられたのよ」
「殺気に?」
合点のいかない私たちに迦麗が説明する。
「瞬間的に圧倒的な殺気を相手にぶつけると意識が硬直する。それは人も化け物も一緒。硬直はほんの一秒にも満たない時間だけど、彼にはそれだけあれば十分なの」
「す、すごすぎる……」
こんな人間がこの世に存在するのだろうか?私にはまさに人を超えた存在に見えた。
「も、もう終わったんですか?あの大きな木が蛇餓魅の本体?」
巴が周囲を見渡しながら聞く。
蛇餓魅に侵食されていた森の木々は、同化していた悪霊が全て邪羅威に斬り殺されて朽ちたように崩れ落ち、死の森と化していた。
「いいえ。まだ終わっていないわ」
迦麗の言葉に私たちは驚いた。
この森に巣食っていた悪霊は皆殺しにされたのではないのか?
「これからが本番だ」
私たちのところに戻ってきた邪羅威が不敵な笑みを浮かべながら言う。
すると轟々と地の底から地鳴りが聞こえてきて、大地を揺らし始めた。
「じ、地震?」
「違う。蛇餓魅が姿を現すのよ」
迦麗が言い終わると、巨木のあったあたりの地面が割れはじめて木々の残骸が呑み込まれていく。
地割れはさらに広がったかと思うと、地の裂け目から巨大な蛇のようなものが現れた。
天に昇るようにその身を現した大蛇のようなものは全身が赤黒くぬらぬらと光り、よく見ると長大な体は無数の人が重なりつながるようにして構成されている。
地の裂け目から現れた部分は数十メートルを超えていようか。それでも全身が出てきたわけではない。
「これが蛇餓魅です。気の遠くなるような時間をかけて地に溜まった陰の気、人の負の思念が集まった大呪から生まれた、人の負の思念を自ら求めて、際限なく貪り食う化け物」
祓椰が蛇餓魅を指して言った。
「こんなでかいのは初めて見るけど」
清伽の顔には目の前の巨大な蛇餓魅に対する畏れが浮かんでいた。
「清伽。畏れてはダメです。畏れを捨てて邪羅威様の援護を!」
「はい!」
これが蛇餓魅……!
こんな途方もない化け物。
その姿を見ていた私は体の震えが止まらなかった。
それは巴も同じで、震えながらしがみついてきた。
巴を抱きしめた私は、自分の震えを止めようと、歯を食いしばって必死になったが止まらない。
人の原始の記憶を揺さぶるような恐怖。
蛇餓魅の姿にはそれがあった。
「邪羅威。こっちは任せて」
「ああ。すぐにケリをつける」
怯える私たちとは違い、迦麗は平然として真言を唱え始め、邪羅威にいたっては嬉しそうですらある。
諏訪式姉妹も祓い詞を読み始めた。
天に向かって伸びあがった蛇餓魅の先端が避けると、そこから恐ろしい咆哮が辺りの大気を震わせた。
裂け目は巨大な口のようになると邪羅威めがけて迫る。
邪羅威は蛇餓魅と私たちを引き離すように走り出した。
それを追う蛇餓魅は血のような真っ赤な霧を口から吐き出すも、邪羅威はまるで後ろにも目があるが如くかわしながら走る。
邪羅威を追う蛇餓魅の体は幾条にもわかれて、私たちのいる方へも大蛇の群れのように襲ってきた。
無数の口から血のような霧を吐いてくる。しかし迦麗の結界が悉く跳ね返すも、執拗に何度も結界を破ろうとしてくる。
「あれは呪いの毒です!あの量をまともに浴びたら即死します!」
「このままだと二、三分も持たないわね」
祓椰の言葉を受けた迦麗は不敵に笑うと両腕を舞のように振り、私たちに襲い掛かってきた蛇餓魅の身体が輪切りのようにばらばらになった。
ばらばらになった大呪の欠片は地面に落ちると、すかさず迦麗が真言を唱えて雷を落とす。
迦麗の指先から細い幾条もの光が見えた。
「これはなに?」
「摩利支天真言の念を七日間込めた鉄鋼線。化け物には一番効くわ」
迦麗は私に答えると、さらに腕を振って迫りくる蛇餓魅を切り刻む。
そして諏訪式姉妹が浄化の炎で焼いて異界へと祓う。
「先生!これ凄いよ!今度こそ勝てるよ!」
「そうね!殺されたみんなの無念が晴らせる!」
いつの間にか私も巴も震えが止まっていた。
邪羅威の方は、本体から無数に枝分かれしたような蛇餓魅の攻撃をかわし、悉くを斬り刻み、彼を吞み込もうとする本体の巨大な口から身をかわして蛇餓魅の頭にあたる部分に飛び乗った。
そのまま刀を突きさすと蛇餓魅の頭を切り裂く。
悲鳴と血飛沫を上げる蛇餓魅の頭を蹴って高く飛び上がった邪羅威は一気に巨大な首を両断した。
切り口からは怨みの声を上げながら数百もの人面蛇身の悪霊が邪羅威の身に噛みつかんと四方八方から迫ったが、邪羅威は目で追うことも叶わないほどの速さで全て斬って落とした。
私たちの方からは、邪羅威の周囲で悲鳴と共に、赤黒い血が霧のように広がっているように見えた。
「やったの!?」
巴が身を乗り出す。
蛇餓魅は鼓膜を震わせる悲鳴のような声を上げると、その身はいくつにも裂けて、真っ赤な霧を噴き出し、遂に動きを止めて地面に横たわった。その巨大な体が靄のようになり、風に流され消えていく。
同時に地割れによってできた裂け目も大地を揺らしながら元に戻った。
邪羅威が刀を納めるのを見て、ようやく悪夢のような戦いが終わったのだと思った。
「まだ終わってはいません。蛇餓魅は死にましたが、全身から吐き出した呪いの毒が町の方へ流れていきました。あれを浄化して消さないと町は穢れた土地になってしまいます」
「穢れるとどうなるの?」
「人は狂い、禍が集中します」
「どうしたらいいの?」
「私たちを町が見渡せる高台に連れていてください」
「いいだろう。連れて行ってやる」
邪羅威があごで車を指す。
「町を見渡せるような場所はどこ?」
迦麗が私と巴に聞いてきた。
町を挟んでこの森の反対側にちょうどいい高台がある。
私たちは蛇餓魅の森を後にして、町を見渡すことができる高台へ向かった。
「あなたたち、大丈夫なの?」
諏訪式姉妹の体力は見た目でもかなり消耗しているのがわかった。
傷の応急手当こそしているが、血が滲んでいる。
「大丈夫です」
「自分の体だから。どこまでがいけるか自分でわかるよ」
祓椰と清伽はそう言うが、とてもそうは見えない。
それは巴も同じで、心配そうに姉妹を見ている。
邪羅威と迦麗は姉妹のことは全く気になっていないというふうに、前を見ていた。
町全体を見渡せる高台で最も近い場所は、町を横断した場所にある丘になる。
その丘の展望台がある場所なら、町全体を見渡すことができる。
展望台の駐車場に着くと車から降りて、フェンスの間際から町を見降ろした。
「先生!あれ見て!」
巴が指さす先に私たちの町があり、赤い霧のようなものに覆われていた。
「あれが呪いの毒素です。放っておけば人の体、地に染みこみ全てを穢れで満たします」
「どうするの?」
「光を以て浄化するしかないね」
諏訪式姉妹はフェンスの手前に二人並んで座ると祓い詞を口にした。
そして二拝二拍手すると印を組み「天乃息(あめのおき)、地乃息(つちのおき)、天乃比禮(あめのひれ)、地乃比禮(つちのひれ)」と祓い詞を唱えた後に「あーまーてーらーすーおーほーみーかーみー」と、ゆっくり唱え、それを繰り返した。
「あれはいったい?」
「十言の神咒よ」
私に迦麗が後ろから言った。
「とことのかじり?」
「言霊を宿して邪気を祓う。天照大神は日本の最高神。その効力は絶大にして強力無比」
諏訪式姉妹が天照大神の名を繰り返し唱えていると、まばゆい光が天から降り、姉妹を包んだ。
その光景を見ているだけで、自分の体、心の隅々までが清々しくなり、心の奥から温もりを感じる。
何とも心地よく不思議な気分になった。
「大神通自在!天照大浄光清邪祓!」
諏訪式姉妹が言葉を発すると、空が輝き、煌めく雨のように光が町全体に降り注いで赤い霧を跡形もなく消滅させた。
やがて光も徐々に消えて、空もいつもと同じものになった。
諏訪式姉妹は正座をしたままこちらを向くと「全ての祓いの儀が終わりました」と、告げた。
「これも全て、あなた方のおかげです」「ありがとうございます」と、祓椰と清伽が邪羅威と迦麗に深々と頭を下げた。
「礼はいい。俺は依頼された仕事を完遂したまでだ。蛇餓魅の抹殺。それを妨げる者の駆逐。確かに果たしたぞ」
次に邪羅威は私たちに言った。
「いいか。俺たちのことを他言したら必ず殺しに行く。わかったな」
と、言うと同時に底冷えのする眼光を向けた。
「わかりました」
私と巴は、決して二人の殺し屋について他言しないことを誓った。
「特にあなた。気を付けてね」
迦麗が巴に冗談めかして言う。
「わかってます」
そう答えた巴を迦麗の淡褐色の瞳がしばし見る。
「まあ、せっかく命拾いしたんだしね」と、言って笑うと巴の柔らかい頬を軽くつねった。
これで、あの恐ろしく異常な事態が全て終わったのだと実感した。
同時に、犠牲になった人たちを思うと胸が痛んだ。
蛇餓魅と同化した友里や綾香が発した言葉が頭に残っている。
「そんなに自分だけ助かりたいのか?」
私は死にたくなかった。しかもこんな理不尽な呪いで死ぬなんてまっぴらだった。
でも、他人の命を犠牲にしてまで助かりたいとは思っていなかった。
だが、私が除霊という選択をしなければ、少なくとも伊佐山君と叔父さんは命を落とすことはなかった。叔父さんのお弟子さんたちも。
私が激情に駆られて再び家に行かなければ、祖母も死ぬことはなかった。
でもあのときは綾香の身が心配でいてもたってもいられなかった。
友里のときも、あのときは本物の呪いだと思っていなかったにせよ、彼女の身を案じて自分が思いつく出来得る限りのことをしたつもりだった。
私の考えたこと、したこと、間違っていたんだろうか?
もっと正しいやり方があったんじゃないのか?
私はあまりにも無力だった。
そう考えると、体が震え、涙が溢れ出してきた。
「先生……」
私の方に巴がそっと手を置いた。
「あなたの思っていること、おおよその見当は付きます。でも、先のことなど誰にもわからないのです。そのときに最善と思える手を尽くした、一生懸命だった、友達のために一生懸命だった。それでいいのです」
祓椰の言葉は私の胸にしみた。
それでも亡くなってしまった命のことを思うと、首肯できなかった。
「大切なのは縛られずに生きることだよ。そうじゃなければ誰一人浮かばれない。あなたが間違っていなかったことは、生きていなければ証明できない」
祓椰の横に並んで清伽が言った。
「先生は…… 瀬奈は悪くないよ」
巴が私を名前で呼んだ。
そうだった。この子は私の友人だった。
この子だけでもこうして目の前で生きている。
それは今の私にとって掛け替えのない事実だった。
陽が海の彼方へ傾き、空が紫色に染まる中、町を見降ろせる展望台の片隅で私は泣き続けた。