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第50話 静寂の教室

第50話 静寂の教室


「ふんふん」


 翌朝、隼人は上機嫌で制服に身を包んでいた。

 今日行って、明日行けば、とうとう明後日から夏休みだ。


「楽しみだなあ」


 でも、まずは今日を楽しもう。鏡の前で笑顔を作る。持ち上がった頰に手を当て、じっと顔色を見る。ダイエットを始めた頃より、良くなった気がする。


「問題もくらいつけるようになってきたし……嬉しいなあ」


 なんだかいいことばかり起こる気がする。隼人はにこにこ勝手に笑んでくる頬のまま、カバンを背負う。

 早く龍堂に会いたい。

 出かける前に、もう一度姿をチェックして、隼人はドアを出た。


「行ってきます!」



 教室の扉を開けようとして、隼人は異変に気づいた。

 なんだか、騒々しい。にぎやかというより、ざわめいていて、不穏な感じがする。

 何かあったのかな?

 不思議に思いながら、扉を開ける。

 ざわめきが引いた。しん、と辺りが静まり返る。

 隼人は戸惑う。みんなが自分を見ていたからだ。

 どうしたんだろう? また何か……

 圧のある静寂の中、隼人は視線をさまよわせる。そして、隼人は、「あっ」とそれに気づいた。

 黒板に、無数の紙が貼られている。黒板だけじゃない。大多数の生徒たちが、同じ大きさの紙を手にしていた。白い紙の向こうから、皆隼人を見ているのだ。

 隼人は引きつけられるように、黒板に近づいた。蜘蛛の子を散らすように、皆、隼人から遠ざかる。隼人が起こす、空気の揺れさえも触れたくないというように、徹底的な避け方だった。

 隼人の息は浅く、耳まで鼓動が響いていた。

 そして、隼人はついにそれを見た。それはノートのコピーだ。無数の見慣れた文字の羅列に――隼人は息を呑んだ。

 ハヤトロクのコピーだ!


 ぐわん、と頭が揺れる。影がぐんと伸びて、地面が遠くなったような気がした。ついで、どっ、どっ、と血の音が体中に響く。

 どうして? 誰が――


「君との婚約を破棄する」


 とおくフェードアウトしそうな意識の向こう、誰かが囁いた。引き笑いが、さざ波のように辺りに伝搬する。隼人は雷に打たれたように現実に戻ってきた。かあっと頭が熱くなる。

 声はひとつではとどまらなかった。


「いつでも自分に胸を張れる自分でいたいのさ」

「タイチ、お前がいるから」


 隼人はとっさに振り返った。

 声の主らしき生徒が、嘔吐するように笑い出した。自分の言葉ではないのに、自分まで汚された、というようにその身を抱き身震いする。


「きめぇ」

「まじ、ないわ」


 ひーっと悲鳴をあげ、友人たちで恥辱を慰め合う。

 隼人は全身から、汗がふきだしていた。熱いのに、凍えるように寒い。頭ががんがんと痛み、手が震えた。

 隼人の様子を知ってか知らずか、笑い声がどこからともなく上がる。その声には、はっきりと侮蔑と嫌悪が混じっている。

 隼人は、よせばいいのに視線をさまよわせる。隼人の視線は、あるところでは逃げられ、またあるところでは、なぶられた。

 ぶつかった先――マオが、目を細め、隼人を見ていた。その目の奥には、勝利の余韻と獲物を追い回す残忍な光が宿っている。


「ほんと、まじで無理なんですけど」


 一歩、二歩、三歩。マオは隼人のもとへ歩いてくる。コピーを隼人の頭にぱんと叩きつけた。


「お前、何なの? まじきもいんだけど」


 隼人は、呆然と見上げる。マオは身をかがめて、隼人の顔をのぞきこんだ。


「あんだけ偉そうなこと言っといて、なんだお前。やってること、一番陰湿じゃねーかよ」


 言いたいことも言わずに、このクソ陰キャがよ。


 周囲には、音くらいしか聞こえない音量で、どすの利いた声が隼人の鼓膜に吹き込まれる。


「まじで終わってるよお前。消えろよ」


 耳の奥に刺さる言葉は、氷よりも冷たかった。

 マオは顔を離すと、にっこりと笑う。それは、周囲を鼓舞するような笑みだ。皆も、安心したように笑う。

 みんなの気持ちが自分に集まっていると気づき、マオは手にした紙を放り投げた。ばさばさと白い紙が、宙を舞う。ひらひら揺れるそれを隼人は思わず追いかけた。

 マオに背中を叩かれよろめくも、その一枚を捕まえる。二枚、三枚と拾い上げた。

 その時、他の生徒達もマオに倣って紙を放り投げた。教室中のあちらこちらで、紙が舞う。

 隼人は、弾かれたように駆け出して、それらを追いかけた。「犬みたい」と誰かが笑った。

 隼人が床にひざまずいて、必死に拾い集めるのを、皆白けた笑いで見下ろしていた。中には、足で踏んで止める生徒もいた。

 あまりに大量で、一度ではかき集められない。いったい何部すられたんだろう。こんなことの為に。隼人は喉をしゃくりあげそうになり、必死に抑え込んだ。そしてコピーを机に積んだ。

 次いで、黒板のコピーを一枚ずつ剥がしていく。

 「キモい」余白の部分に書かれた言葉に、涙が溢れそうになる。一枚、手から、ひらひらと床に落ちる。慌てて拾いにひざまずいた。


「あー本当きもーい! 変態じゃん!」


 ヒロイさんがうんざりというように笑い叫んで、コピーを拾い上げ、びりびりと破った。隼人の頭の上で散る。


「変態紙吹雪〜」


 周囲がどっと笑った。マオのように放り投げるものだけでなく、ビリビリに破りだす者まで出てきた。マオとヒロイさんの笑いが、ぐるぐる頭に回る。


 やめて! 隼人は叫び出したかった。


 わかっていた。他人にとって、受け入れられる趣味ではないのは何となくわかっていた。けれども、隼人は大好きで、ずっと大切にしてしてきたものだ。だから、こんなふうに無下にされて、踏まれ、破られるなんて――受け入れられるものではなかった。

 自分の席に山積みになったコピーと塵屑を見て、隼人は絶望的な感慨を覚えた。

 どうしよう。一体誰が、こんなこと?

 咄嗟に浮かんだのはユーヤの顔だった。そういえば、今、ユーヤはいない。

 一体、どこにいるんだろう――不安になったとき、ユーヤが、教室の扉を吹き飛ばす勢いで入ってきた。





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