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第60話 姉弟だから


 着替えの間、少年は外へ出ていた。男同士なのに律儀だなと思ったのも一瞬で、弟の服の下のおびただしい打撲に、月歌は真っ青になった。となりで母が、必死に涙をこらえているのがわかる。月歌は、母の背に手を添えた。

 白く汚れた制服を見て、覚悟はしていたつもりだった。けれど、こんな――温かい濡れタオルを持つ指先が、冷たい。

 どうして、もっと早くに隼人に聞かなかったんだろう。

 後悔先に立たずだ。月歌は歯を食いしばった。

 隼人の様子がおかしいことに、ずっと気づいていたのに。隼人がひとりで戦っていることも、わかっていたのに。

 隼人は頑張っているからなんて、悠長に構えていた。こんなに酷い目にあうなんて。

 月歌の背中に、母の手が当てられた。とめどなく頰に涙が伝う。月歌は泣きながら、隼人の体を拭いた。清潔でやわらかいパジャマに着替えさせてあげた。

 看病の体勢を整え、部屋の外の少年に声をかけた。少年は頷くと部屋に入り、すぐに隼人の傍にひざまずいた。

 献身、というに相応しい様子に、月歌は勝手ながら自分の心が慰められるのを感じていた。母も胸打たれるものがあったのだろう。


「本当に、ありがとうございました」


 深々と少年に頭を下げたのだった。



 少年の名は、やはりというべきか――龍堂太一と言い、彼は自分を「隼人さんの友だちです」と言った。――彼は隼人を「隼人さん」と呼んだ。中条家の人間の前で便宜上とわかっているが、妙にしっくり来る品があった――龍堂の言葉は、月歌と母には疑いようがないと思った。龍堂の様子から、二人はすでに信頼していた。――嘘で、あんな目ができるはずがない。

 月歌は、意を決して龍堂に「何があったのか」を尋ねた。龍堂は目を伏せ、首を振った。


「ぼくもくわしくは知らないんです。中条――隼人さんは、ぼくにも話しませんでしたから」


 その声は悲しげで、隼人への慈しみに満ち溢れていた。龍堂は、月歌と母に、深く頭を下げた。


「隼人さんをこんな目にあわせてしまい、申し訳ありません」


 母は、顔をあげるよう言った。月歌は、ひたすら泣くしかできなかった。龍堂の悔恨は痛切で、自分の内にもあるものだったから。

 龍堂は長居せず、帰っていった。その時間いっぱい、隼人を見守っていた。


「また明日、来ていいですか」


 龍堂に尋ねられ、月歌は頷いた。隼人が喜ぶ――ふたりが接しているところを見たことはなかったが――そう思った。

 月歌は、小さくなっていく龍堂の背に、ずっと頭を下げていた。



「でね、こうするとこの公式が当てはまるでしょ」


 月歌は、くるくるとテキストに解法を書き込む。その文字の流れを、一生懸命追いかける弟に、月歌はほほ笑む。


「お姉ちゃん?」

「何でもない。はりきるね、隼人?」

「うん! 次のテスト、いい点取りたいんだ」


 真っ直ぐに月歌を見つめ、はっきりと答える。昔から、人の目をじっと見る子だ。月歌は、隼人の頭を、やさしく撫でた。くるくる回るくせっ毛は、さわり心地がよくて月歌のお気に入りだ。

 結局、隼人は戦うことを決断した。

 話を聞いた父いわく、そういうことらしい。「なんで、どうして」って母と一緒に、不安で詰め寄ったが、父も覚悟の表情で、


「あの子を信じよう。そして、いつでも助ける手立ては整えておこう」 


 と言った。

 可愛い弟は、ほけっとしているようで、我が強い。これが男の子ってやつなのかな? そういう事を言うと、「あんたも大概よ」と母に言われてしまうけど。

 まあ、よくわからないけど、「ひとり」じゃないんだよね。

 浮かぶのは、高い背の少年の姿。彼が、隼人の傍にいる。


「ありがとう、お姉ちゃん! ナナさんも、ありがとうございました!」


 隼人は立ち上がり、机の上のスマホにも一礼する。そうしてドアに向かう。月歌は、その背を追うように、「隼人、」と呼んだ。


「うん? 何、お姉ちゃん」


 隼人は笑って振り返る。


「大好きだよ」


 隼人が目を丸くしたのと、スマホから吹き出す声が聞こえてきたのは同時だった。

 隼人は、嬉しそうに破顔する。


「俺も大好きだよ!」


 そう言って、部屋を出ていったのだった。





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