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第64話 甘い香りとはしゃぎ声

 洗い物をしていると、オーブンから甘い香りがしてきた。振り返ると、切り込みのはいったケーキが膨らんでいる。いつもこれを見ると感動してしまう。隼人はスポンジ片手にしばし見入った。視線を戻すと、月歌たちも遠目に見ていたらしい。ソファの向こうの三つの視線とかちあった。心はひとつ。どちらからともなく笑った。


 焼きあがったケーキを型から出すと、早速ナナは一切れ切り分けた。


「はい、ハヤちゃん!」

「ありがとうございます!」


 隼人は三人が見守る中、焼きたてのケーキをほおばった。


「おいしい!」


 隼人は目を輝かせた。その顔に、ナナは嬉しそうに胸を張る。


「でしょ!」

「ナナ、私も」

「私にも」


 月歌とアオイの手にも、ナナはケーキをのせる。二人も即座にぱくついて感激の声をあげた。


「焼きたては特別ですねえ」

「手作りの特権だよね。しみる~……」


 隼人は久しぶりの甘味に舌鼓を打っていた。月歌の言うとおり染みる。おいしいなあ。この幸せを誰かと共有したい。そう思って浮かんだのは、黒髪の大きな背だ。龍堂くん、けっこう甘いもの好きだし、喜ぶだろうな。そう考え、ひとり笑う。


「ハヤちゃん、ぽーってしてる! そんなに美味しかった?」


 ナナにからかわれ、隼人は戻ってきた。アオイが、首を傾げて、


「どちらかというと物思いでは?」


 と考えを述べる。するとナナが、


「えーっ私のケーキというものがありながら!」


 と憤慨する。


「こらこら、落ち着きなさい!」


 月歌がたしなめる。隼人はあわてて手を振った。


「違うんです! すごく美味しくて……友達にも食べさせてあげたいなって思っただけなんです」


 しん、とあたりが静まりかえった。隼人は「あっ」と焦った。しまった、図々しかったかも。その瞬間、ナナが絶叫した。


「えーーーーーーーーーーっハヤちゃん友達できたのぉ!?」

「ど、どっどこの馬の骨です!? ちゃんといい人なんでしょうね!?」


 ナナのハイトーンボイス(絶叫)にくらりと来ている隼人を、真顔のアオイが、がくがくと揺さぶる。月歌が「こらーー!」と二人の暴走を止めた。


「心配しすぎ! すっごいいい子なんだから! ねっ隼人」

「う、うん!」


 隼人は何度も頷いた。思いのままに言葉をつぐ。


「すっごく優しくてかっこいんだ。すごく大切な友だちで……」


 言いながら、隼人はなぜだか顔が熱くなってきた。うれしさと恥ずかしさが共存している。思えば、龍堂のことをこんな風に紹介するのは初めてかもしれない。照れてしまって、黙り込んだ隼人に、ナナは「うう」と顔をおさえた。


「よかったねえハヤちゃん」

「ぞっこんじゃないですか……」

「ううっ、私たちだけのハヤちゃんではなくなっちゃったか……嬉しいけどさみし~~~」


 ナナは目元をぬぐう。アオイは「父親じゃないんですから」とナナの背をさすった。隼人はくすぐったくなる。ふたりには――月歌の友だちみんなそうだが、特に――、本当にずっと心配をかけてきた。バレンタインのたびに、友チョコならぬ姉友チョコをたくさんくれて、


「ハヤちゃん、こんなにチョコもらう男の子なんてそういないんだからね! 友だちいるやつより断然偉いって!」


 と励ましてくれた。


「ナナさん、アオイさんありがとう。ふたりのおかげです」

「えーーーんやめて泣けるーーーー」


 ナナはぐすぐす言いながら、ケーキを切り出した。大きめのそれを皿にのせると、アオイが手早くラップをかける。


「ハヤちゃん、あげる!」

「えっ」

「お友だちと食べてこい!」


 そういって、ずいと隼人に差し出した。隼人は受け取ったケーキを見下ろした。


「いいんですか、こんなに……」

「いいよ! これはお祝いだから!」

「さ、行ってこい!」


 アオイにとんとんと背を押される。月歌が、「待て待て、隼人にも予定があるから」と二人を止める。いいつつ、二人を見る目はやさしかった。


「ありがとう、ナナさん、アオイさん、お姉ちゃん」

「いいよ!」

「よかったね!」

「行ってきます!」


 隼人はケーキを抱え、感激のままに走り出した――。



「――って、龍堂くんの家ってどこ!?」


 隼人が、龍堂の家を知らないどころか、スマホまで忘れてきたことに気づくのは三分後のことである。





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