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第66話 部屋に二人きり

 それからは、あっという間だった。

 気づけば隼人は龍堂に伴われ、雨の中を走り出していた。


「気を付けて」


 龍堂はシャツを脱いで隼人にかけてくれた。そのまま服越しに肩を抱かれ走り出す。シャツと雨にさえぎられ、龍堂をうまく見上げられない。龍堂は直に雨に打たれているだろう。心配で尋ねた声さえ、雨にかき消される。隼人は声をはり、もう一度尋ねる。


「龍堂くん」

「走って」


 隼人の言わんとすることがわかったのか、ただシンプルに一言返される。落ち着いた、でも雨に消されない芯のある声。その声は、腕と同じく熱を伴っていた。それ以上は聞けなくて、隼人はただ走った。

 龍堂の家ということ以外、行き方さえわからない。けれど、なにも不安はなかった。ただ時が止まったみたいに、どきどきしながら、隼人は走り続けた。


 ◆


 たどり着いたのは、大きなマンションだった。いっそものものしいくらい立派なそれは新築で、そのきれいさがいっそう迫力を増していた。立派なエントランスを通る。龍堂はその場に控えているスーツの人に、さらりと挨拶する。隼人を伴って、エレベーターへ向かった。隼人はぽかんと辺りを見回していた。

 すごいとこだなあ……!

 さすが龍堂君、と意味のわからない賛辞をつけつつ、龍堂を見上げる。目が合うと、龍堂は隼人に尋ねる。


「寒くない?」

「あ、うん!平気。龍堂君こそ」

「ぼくは平気だよ」


 龍堂は自分を庇ってくれていたから、隼人以上にずぶぬれだった。上着は隼人に貸してくれたままなので、上は黒のタンクトップ一枚の姿だった。真夏とはいえ、この大雨の後だ、寒いに決まっている。

 おろおろと隼人は龍堂を見つめると、龍堂はふっと目を細めた。


「もうすぐ着替えるしな」


 そう言って、隼人の前髪に触れる。くせっけな隼人の髪は、雨に濡れると少し伸びる。目に入りそうだったそれをそっとよけてくれる。じっと視線が重なり合う。あっと思った時にはエレベーターが到着していた。



「行こう」


 龍堂はそっと手を離した。隼人は「うん」と応えた。エレベーターの独特の空気のせいだろうか。なんだか息がうまくできなくて、どきどきしてしまった。


「どうぞ」

「お、お邪魔しまーす!」


 龍堂に促され、隼人は部屋に入った。モデルルームみたいに広くてきれいなリビングに通され、「楽にしていて」と言われたものの、どこにいていいかわからず、水滴ができる限り落ちないように硬直していた。大きなソファを見るともなしに見つめ、すごいとこだなあ、ともう一度繰り返す。

 ここが龍堂君のお家か。

 そこで、「あっ!」とあることに思いいたる。南無三!


「中条?」

「りりり龍堂くん!ご、ごめん、俺手土産もなしに……!」


 着替えをもった龍堂が隼人に尋ねる。隼人はぐるんと振り返り謝った。

 とんでもない失態だ。せっかくの初めての龍堂のお宅に訪問だというのに、なにも持っていない。ケーキはさっき食べてしまったし、そこにあるのは空のお皿とフォークだけだ。せっかくのことだし、お世話になるんだし、龍堂の家族にも何かご挨拶したかった。

 龍堂はきょとんと目を見開いたが、ふいに笑い出した。


「あははっ」

「えっ?」


 愉し気な、甘い笑い声が、あたりに響く。あんまり笑うので、隼人の方が今度はきょとんとしてしまった。


「龍堂くん?」

「はは……中条にはかなわないな」


 口元をおさえて、龍堂は笑いを収めた。隼人は、何故そんなに龍堂が笑うかはわからなかったが、龍堂が笑っているのは嬉しい。つられて笑みをこぼした。その様子に、龍堂は目を細める。


「気にしなくていいよ。ここにいるのは、ぼくたち二人だけだから」

「えっ?」

「一人暮らしなんだ」


 何気ない調子で、さらりと言った。龍堂の目が、じっと隼人を映している。どんな顔をしているかまでは見えないが、さぞかし自分はぽかんとしてるだろうなと思った。この広い部屋に、一人暮らし。隼人は、しんと静まった気がした。龍堂は、隼人に着替えを渡した。いっそ隼人を励ますような、優しい渡し方だった。


「とりあえず、着替えないか」

「あ……うん」


 龍堂の後についていく。こういう時って、どういう反応するものなのだろう。「すごい」とか「かっこいい」とかなんだろうか?でも、なんだか。


 きれいすぎるくらいきれいな洗面所で、服を着替えながら。隼人はしん、と気持ちを飲み込んだ。


 ◆


 夏であっても、やはり冷えていたのだろう。着替えると、ほの温かさが心地よい。

 同じく着替えた龍堂が、ホットレモンを入れてくれた。ラフな格好をしていても様になった。ソファに隣り合って、暖をとった。


「親は海外にいるんだ」


 ふいに、龍堂が話し出した。穏やかで、静かな声だった。隼人が顔を上げると、龍堂は優しい顔で見下ろしていた。


「龍堂くん」

「ぼくの家は再婚で、義理の姉は日本にいる。もう結婚して、別の家に住んでる」


 高校からここに住みだしたんだ。

 龍堂の指先が、そっと隼人の髪にふれた。乾かした髪は、いつもみたいに巻きだしている。指先で遊ぶような手つき、でもやさしかった。龍堂を隼人は見上げる。隼人は龍堂の目をじっと見つめた。今度こそ、その言葉がこぼれ出た。


「さみしくない?」


 友達として、こういうことを聞くのが、いいことなのかわからない。ただ、隼人はそう聞かずにはいられなかった。この広い家は、なんだかそんな気配があった。龍堂は怒らなかった。ただほほ笑んで、そっと隼人の目元を撫でた。


「だから、中条を呼んだ」


 ただ、一言。でもそれだけで、全部が伝わった。隼人は時が止まった気がした。泣きたいくらい、胸がいっぱいだった。息さえ忘れたみたいに、見つめあう。


「ありがとう」


 色んな気持ちをこめた、ありがとうだった。涙がにじんで、とっさにうつむいた。龍堂が笑ったのが、気配でわかった。

 龍堂が隼人の手から、コップを取る。自分のと合わせて、ローテーブルに置いた。

 隼人の手を取って、龍堂は言った。精悍な手の中で、自分の手が震えている。


「好きだよ、中条」


 龍堂の言葉に、隼人はうなずいた。俺も、というより先に、隼人は龍堂に抱きしめられていた。

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