ユキちゃんと私を乗せたエレベーターが、1階に到着した。
西に傾いた陽がガラス越しに差し込み、エントランスの床を柔らかなオレンジ色に染めている。
「薫、今日は楽しかった。来てくれてありがとう」
彼は紙袋を手渡しながら微笑んだ。切れ長の目がきゅっと細まり、整った顔立ちが少しだけ幼く見える。
「こちらこそ。これ、貸してくれてありがとう。明日返すから」
私は袋を受け取りながら笑顔を返した。
「本当に送らなくていい? 今から打ち合わせだから、ついでに乗せていけるけど」
私は軽く首を振る。
「大丈夫。駅前で買い物してから帰るから」
ユキちゃんは「ああ」と短く頷くと、にんまりと笑って一歩近づき、私の耳元へ唇を寄せた。
誰にも聞こえないような小さな声で囁かれた言葉に、思わず頬が熱くなる。私は顔を両手で覆った。
「ちょっと、ユキちゃん……そういうこと言わないで。恥ずかしいよ」
彼はくすっと楽しそうに笑い、「じゃ、また明日」と片手を軽く挙げ、踵を返して歩き出した。
チャコールグレーのロングコートの裾が、彼が歩くリズムに合わせてふわりと揺れる。街路樹の緑に囲まれた道を歩くその後ろ姿は、まるでランウェイの一幕のようだった。
立ち姿も仕草も洗練されていて、思わず見惚れてしまう。さすがモデルだ。
最近は、海外のコレクションにも出演しているらしい。誌面で見る彼は、クールなルックスと隙のないポーズで、その場の空気ごと引き込んでしまうプロフェッショナルな顔をしている。
そんなユキちゃんだけど、私の前では拍子抜けするくらい気さくで優しい表情を見せるのだ。
怖がりなくせにホラー映画が大好きで、「余裕だよ」なんて言いながら、いつもクライマックスでは指の隙間からそっと覗いている。そういうところ、大学時代から本当に変わっていない。
頼れるのにどこか抜けていて、放っておけない。そんな自慢の友達──それがユキちゃんだった。
「今日の夜ご飯、張り切って作ろう」
そう呟いて、私はステップを降りていく。
──まさか、その姿を蓮さんが見ていたなんて。このときの私は、まだ知る由もなかった。
* * *
「……ただいま」
蓮さんの声がして、私は慌ててチキンライスを味見する。
ああ、やっぱりナツメグの風味が強すぎる。何度も直そうとしたのに、結局ごまかせなかった。
「おかえりなさい……」
私はそう返しながら、冷蔵庫の中をざっと見て、代わりに今から作れそうなメニューを考える。さすがに、このまま出すのはちょっと無理があった。
「ごめんね、夜ご飯は私が作るって言ったのに、ちょっと想像と違う味になっちゃった。すぐ作り直すから」
そこまで言って、ふと気がついた。
蓮さんの雰囲気が、いつもと少し違う。表情が硬くて、笑顔もどこかぎこちない。
「蓮さん……?」
彼は何も言わず、ソファに腰を下ろし、静かに息をついた。
「夕食は後でいいから……ちょっと、話してもいい?」
私はうなずいて、手を拭いて隣に座る。
すると、蓮さんの手が私の髪に触れた。指先で髪を一房すくい、静かに撫でるように。
「……今日、誰に会いに行ったんだっけ」
声は穏やかで落ち着いていたけれど、どうしてだろう、どこか緊張をはらんで聞こえる。
それに、いつもは深く澄んだ瞳が、今日は少しだけ揺れて見えた。
「ユキちゃんだよ。明日も会う予定なの」
その言葉に、彼の指がぴたりと止まる。眼差しが、わずかに陰ったのがわかった。
「明日も……?」
「うん。夕方から会うから、ちょっと帰りが遅くなるかも」
蓮さんは少しだけ眉を寄せた。
「薫」
名前を呼ぶ声が、少しだけ低く、かすれている。それがとても切なげに響いて、なんだか胸が締めつけられた。
「どうしたの? 今日、なんだか──」
そう問いかけた瞬間、彼の指先が髪をなぞるように滑り、もう片方の腕が私の背中を強い力で引き寄せた。
抵抗する間もなく身体が傾き、気づいたときには、彼の顔がすぐ目の前にあった。
そして──唇が、重なった。
少し乱暴で、息が途切れるほど深くて、どうしようもなく情熱的な──まるで、私を確かめるみたいなキスだった。
噛むように唇を奪い、呼吸の隙間まで奪われる。その激しさに、心も身体も追いつけないでいた。余裕なんて、どこにもない。
背中に回された腕には、抑えきれない想いがこもっていて、服越しに伝わる彼の鼓動が、私の胸まで響いてくる。
蓮さんの唇が、私の下唇を甘く噛んだ。思わず息が漏れて、身体が震える。
まるで……時間が止まったみたいだった。部屋の空気が甘く溶けて、意識ごと深く沈んでいくような感覚に包まれる。
それに抗うように、私は彼の肩を押す。それでも彼はキスを繰り返し、離れてくれなかった。
もう一度、今度は両手で少しだけ強く押す。
ようやく、ゆっくりと唇が離れた。
蓮さんは額を私の額に寄せて、荒い息のまま小さく囁いた。
「……嫌だった?」
かすれた声が、いつになく脆く聞こえる。私は彼の目を見つめ返した。
「どういうこと……?」
少しの沈黙。そして、彼は口を開いた。
「……今日、君がマンションから出てくるのを見た。男と一緒だった」
一瞬、息が止まった。
「耳元で何かを言われて、君が照れてるのも見た」
静かな声なのに、その奥の感情が痛いほど伝わってくる。
「違うの、あの人は──」
「違う?」
蓮さんは、まっすぐ私を見つめていた。穏やかな瞳の奥で、見たことのない感情が揺れている。
「薫が嘘をつくなんて思っていない。でも……『ユキちゃん』に会いに行くと言ってたのに、男のマンションから出てくるのを見て、正直どうしたらいいのかわからなくなった」
私はそっと手を伸ばして、蓮さんの頬に触れた。彼もその手に自分の手を重ねて、そっと握る。
頬も手も熱くて、火傷しそうなほどだった。
──ああ、この人が、たまらなく愛おしい。
「ねえ、明日の夕方、一緒に行かない? ユキちゃんのところ」
私はちょっと笑いながら言った。
「大学時代の親友なんだ。ちゃんと紹介するね」
「親友……」
まだ少しだけ不安げな表情。でも、さっきよりはずっと柔らかかった。
何をしにユキちゃんの部屋に言っているのか。それさえも伝えていないのだから、仕方がないのかもしれない。
でも、この際だから、全部まとめて明日伝えることにしよう。
「蓮さん、お腹空いてる?」
「いや……食欲なんてわかなくて」
彼の髪にそっと指を通す。その緩やかなくせと、指先にほどけるような柔らかさが──ちょっと油断すると泣きそうになるくらい、私は大好きだった。
「それなら、詳しいことは明日話すね。今は……」
そう言って、今度は私が蓮さんの顔を引き寄せる。一瞬だけ、柔らかく唇が重なった。
「──スイッチ入れたの、蓮さんだから」
部屋の空気が、ふと解けた気がした。蓮さんの目が、ようやくいつもの優しい色に戻っている。
私の髪を撫でながら、蓮さんは小さくつぶやく。
「それじゃ……責任、取らないとね」
そして、もう一度──蓮さんはキスをくれた。
今度は優しくて、でも心に火を灯すような、熱いキスだった。