桜の蕾も膨らんできた三月中旬。
三塚柚羽は、あと三ヶ月で三十歳の誕生日を迎えようとしていた。
柚羽は、食品メーカー〝SAKIEDA〟(株式会社咲枝食品)に勤めてもうすぐ八年目になる。その間、色んなことがあった。
大学時代には、彼氏に二股をかけられた経験がある。
社会人になってから今度の人は誠実だと思って初めて同棲した彼氏は、少し経過した後に仕事を辞めてしまいヒモ同然になり、好きな子ができたからとあっさり言われた。散々お金を使わされた挙げ句に出て行かれた経験がある柚羽。その後、同棲しながら結婚まで考えてくれていた彼氏ができたのだが、結婚後の生活費や子ども、更には彼の実家に関わることで口論になり、出て行ってしまった。
柚羽は彼たちに与えた愛情と時間が無駄だったのかと思うと、今でも悔しさがこみ上げてしまう。
以前の恋愛が心に残っている柚羽は、裏切られた痛みが未だに忘れられず、その後の恋愛にも大きな影を落としていた。
一昨年まで会社の受付係をしていた柚羽だが、企業のお偉いさんの娘がそのポジションに入るとのことで、営業部に回された。柚羽は、『私も美人だと言われてチヤホヤされていた時期もあった』としみじみ思い返す時もある。しかし、若くて可愛い子が来たら、ポイ捨てされてしまったのだ。柚羽は毎日のように卑屈な考えしかできず、心が痛くなっていた。
「はぁ……」
営業部のオフィスフロアの中で、柚羽は大きな溜め息を吐いた。
営業部は男ばかりの社会で息苦しく、営業事務の子はキャピッとしていて、柚羽はあの輪にも入れない。しかもイケメンも居ないわ、おじさんばっかりだわ、会社を辞めたい……と柚羽は暇があると心の中で常に叫んでいた。
営業の仕事もままならず、お荷物的存在になってきた柚羽に、営業部部長の浜野が声をかけてきた。
「三塚さん、今日もやる気あり……いや、いつも通りになさそうだねぇ。営業部に引き込もってないで、新しい営業先の開拓とかして来たら? 外に出たら、気分も爽快になって、やる気アップに繋がるんじゃない?」
「そうですね……」と、柚羽は仕方なく返事をした。
浜野部長はいつもにこにこしているので、一見優しそうに見える中年男性だが、会議の時は滅茶苦茶怖い。笑っているけれど、目が笑っていない。そのギャップに、柚羽はただ怯えるばかりだった。
「もうすぐ入ってくる新入社員と一緒に、営業部には転勤で若い男の子も入って来るんだから、ちゃんと面倒見てあげてよ」と言われ、プレッシャーをかけられて、柚羽は目が泳いでしまう。
(四月から営業部に新しい男の子が入ってくるなんて、知らなかった! どうしよう。私の立場がますます危うくなるばかりだわ……)
そんな不安が胸を占める中、柚羽はとりあえず自分を奮い立たせることにした。
桜が咲く季節が来る頃には、少しでも変わっていたい。自分を取り戻すために、まずは小さな一歩を踏み出さなければ……と柚羽は決心をしてみるけれど……。
「はい、頑張ります! じゃあ、そろそろ……え、営業行って来ようかなぁ?」
柚羽は、思わず声を張り上げる。すると、浜野部長は軽く微笑んで「行ってらっしゃい」と言った。その彼の言葉と笑顔は、柚羽にとって一瞬の安堵をもたらしたが、気まずさが残るのも事実だった。
柚羽は席を立ち上がり、バッグを肩にかける。浜野部長の笑顔には温かさがあったが、その背中に注がれる視線が痛い。
三月初めくらいだろうか。確かに社内掲示板とメールで、新人についての通知があったが、興味もないので柚羽は読み流していた。なので、新人が営業部に配属になるなんてすっかり忘れていた。
柚羽は営業に行く前に社員食堂の入り口前にある掲示板に立ち寄り、詳細を確認する。
営業部には転勤してくる男性が配属になるという情報が、柚羽の心に緊張感をもたらした。柚羽は新しい人が来ることで、また自分の居場所が脅かされるのではないかと、無意識に考えてしまう。
柚羽は掲示板を確認した後、複雑な気持ちのままでエレベーターに乗る。
「西川さんはいつ見ても可愛いねぇ。通る度に花が咲いてるんじゃないかと思っちゃうよ~!」
甘ったるい男性の声が、エレベーターを降りた瞬間に耳に飛び込んできた。柚羽が思わず振り返ると、正面玄関の近くで営業部係長の屋代が、受付嬢に絡んでいるのが目に入った。
屋代は営業成績トップで、三十代後半である。彼はチャラくてバツイチ子持ちで、噂では、今の奥さんにも愛想を尽かされそうだとか。さらなるバツが二つになる日も時間の問題だと言われている。
彼の軽薄な笑顔を見るたびに、柚羽は心の中でめんどくさいことになるから通りたくないと思うが、あの前を通らなければ外に出られないのが現実である。仕方なく、柚羽は自分の足を進めた。
通り過ぎるとき、屋代の目が柚羽に向けられた。
軽やかな声で「おう、三塚さん! 今日はどうしたの?」と声をかけられ、心臓がドキリと跳ねる。
屋代の視線には、どこか軽薄な色気があり、思わず目を逸らしてしまう柚羽。こういう瞬間が、柚羽にとっては非常につらい。
(私に何か期待しているのかしら? 不倫する気はないですからねー!)
柚羽はそう思いながらも彼の目を避けつつ、聞こえないふりをして、急ぎ足でその場を離れようとした。
「おっ、光塚ちゃん! どこ行くの?」
その声にハッとして思わず振り返ってしまった柚羽を、屋代の目が捉えていた。柚羽はこっそり通り抜けようとしていたのに、見つかってしまった。
「お疲れ様です。ちょっと営業に行こうかなって」
柚羽は愛想笑いをしながら、何とか普通の返事をするが、心の中では逃げたいという思いが渦巻いている。
「そうなんだ? 駄目だよ、営業とか言いながら彼氏とデートとかしちゃ」
屋代の言葉に、思わず顔が引きつってしまう柚羽。
「あー、はい。しませんけど」とぶっきらぼうに返すが、心の中ではそんな余裕なんてないのに……と柚羽は苦笑いをした。
上司からのチクチクした嫌味も、『今が結婚適齢期なんじゃないか?』というセクハラも、日常茶飯事だが、残念ながら、柚羽には結婚どころか彼氏すらいないのだ。ヒモ彼氏の後に出来た結婚まで秒読みと言われていた彼も、つい最近出て行ってしまったのだ。
「それならいいけどね。サボッちゃ駄目だよ! 気をつけて行ってらっしゃい!」
柚羽はまた愛想笑いを浮かべながら、屋代に軽く会釈をしてから立ち去った。
外に出ると、春先でまだ肌寒い空気が柚羽の身に纏う。ふと、冷たい風が頬を撫でると、柚羽の心の中のもやもやが一瞬和らいだ。
(屋代さんは自分が仕事しろっての! 何で、あんな働かない奴が成績トップなんだろう? 世の中、理不尽すぎる)
アスファルトの上を早足で歩く、柚羽のパンプスの音が響く。
午前中は自分のみが営業で使用する新商品に関する資料作りに追われ、柚羽は昼食もとっていない。空腹感がじわじわと広がり、気持ちがさらに沈んでいく。
一先ずはランチタイムにしようと思い、馴染みの喫茶店に立ち寄り、温かい飲み物で心を癒したいと柚羽は思った。
店に入ると、ほっとした空気が漂い、温もりに包まれる。
(少しでもリフレッシュできるといいな)
心の中で呟きながら、柚羽は飲み物を一口啜る。
温かさが心に染み渡り、少しずつ穏やかな気持ちが戻ってくるのを感じる。周囲のざわめきが遠のき、柚羽の心が少しずつ落ち着いていく。
少しでもリフレッシュして、午後の仕事に備えようと、柚羽は自分に言い聞かせるのだった。このひとときが、忙しい日常の中での柚羽の小さな安らぎだった。
ランチ後、喫茶店から出た柚羽は外の空気を吸い込み、少し心を落ち着けようと深呼吸をした。
心の中では不安が渦巻いている柚羽は、新しい営業先の開拓がうまくいくか、そして新入社員との関係がどうなるか、様々な思いが交錯していた。気持ちを新たにしなければ、と自分に言い聞かせるが、ドキドキする胸の高鳴りは抑えきれない。
桜のつぼみが少しずつ開いていく中、心が少しずつ解放されていくことを柚羽は願った。